第2話 私にも、次の予定ができたの
叔母からは、ぜひいらっしゃい、と大きな字で返事が来た。
出発は二週間後になった。父が馬車の手配をし、母と衣装箱を選んだ。ミナは港町の冬がどれくらい寒いのか気にして、叔母の家へ手紙を書いていた。
昼間は忙しかった。夜になると、ふいにニコラの声を思い出した。
約束など忘れたと言われるより、本気だった私を、彼女と一緒に笑おうとした顔がつらかった。明日会えば、違う言葉をくれるかもしれない。そう思ってしまうたび、机に広げた旅の地図を見た。
ニコラからも手紙が来た。
最初は、昨日は驚いた、落ち着いたら話そう、というものだった。次は、今日は来るか、だった。
私は、しばらく訪問しないこと、叔母のところへ半年ほど行くことを返事に書いた。お茶の好みなら使用人に伝わっているとも添えた。
彼が寂しくなることを、少し期待している自分がいた。そんな自分が嫌で、便箋を折るまでに時間がかかった。
出発前日、ニコラが訪ねてきた。今度の手紙には、謝りたい、と書かれていたので、母が隣室にいる応接間で、一度だけ話すことにした。
彼は椅子に座ってから、膝に置いた両手を見ていた。侍女が運んだお茶にも手をつけず、いつものような軽い話をしなかった。
「君が来なくなってから、家のお茶は前と同じなのに、何かが違うと思っていた」
結局、お茶の話なのかと、胸が冷えた。
「淹れ方なら、私が説明しなくても……」
「違う。ごめん、また順番を間違えた。お茶を淹れに戻ってくれと頼みたいんじゃない」
ニコラは顔を上げた。
「君は、僕が試験の前に眠れなかったことを、試験が終わってからも覚えていてくれた。夜会で失敗した話も、父に褒められた話も、その後どうなったか聞いてくれた。僕は話すだけ話して、それで終わりにしていた」
口を挟めなかった。覚えていることばかりだった。
試験に受かった日の彼の顔も、初めて一人で客を迎えて、失敗したと落ち込んでいた日の声も。
「君が来る曜日になると、話すことを考えるんだ。そういえばあの店が移ったとか、君が前に笑った話の続きとか。それで、君は来ないんだと思い出す。ほかの誰かに話せば済むとは、どうしても思えなくて」
彼の声が詰まった。私の目の前で、こんなに言葉を探すニコラを見るのは久しぶりだった。
「僕は、君に何を聞いていたんだろう。どこへ行きたいかも知らなかった。海を見たいって、いつから思っていた?」
「ずっと前からよ。叔母様の手紙が届くようになってから」
彼は頷いたあと、目を伏せた。
それを口にしたことはあった。港の絵を見せたことも。でも彼には、いつか遠出したいという雑談の一つだったのだろう。
「君なら、ずっと隣にいると思っていた。アデル嬢と結婚しても、僕の話を聞いて、僕に笑ってくれると。本当に、勝手だった」
そうよ、と言いたかった。今頃わかったの、とも。
でも声にしたら、また泣きそうだったから、私は黙って彼を見ていた。
「あの茶席で、止めなければいけなかった。君の気持ちを知らなかったのは本当だけれど、知ったあとまで、君を傷つける側にいた。アデル嬢に悪く思われたくなくて、君なら笑って収めてくれると思った。ごめん」
あの日、聞きたかった言葉だった。
私の気持ちを、なかったことにしない言葉。彼女の言い方だけを悪く言わず、自分もしたのだと認める言葉。
嬉しいと感じてしまったことが、悔しかった。
「あの庭で、約束したんだね」
ニコラが言った。
「君が帰ったあと、母に聞いた。小さい頃の僕は、庭師に助けられた話をすると、決まって君と結婚する話までしていたそうだ。それを聞いて、思い出した。自分も怖かったくせに、君を守れるようになるって、得意そうに言った」
目を閉じれば、あの庭へ戻れた。泥のついた靴と、差し出された小指と、安心して笑うことのできた自分に。
「今度は、忘れない。だから、もう一度……」
ニコラはそこまで言って、椅子から身を乗り出した。
「待ってほしい。アデル嬢とのことは、父にも話す。君に、そばにいてほしいんだ」
ずっと欲しかった言葉に、胸が痛くなった。
手を伸ばせば、彼の指に届く。その手を取って、嬉しいと言えば、出発を遅らせることはできる。叔母はきっと、わかってくれる。
そう考えた自分に、気がついた。また、私の海が後回しになっていた。
「ニコラ。私は明日、行くわ」
彼の手が、膝の上で止まった。
「帰ってくるのを、待っていたら……」
「次の約束は、しない」
今度は、逃げずに最後まで言った。
「あなたを好きだった。お茶を淹れるのも、話を聞くのも、嬉しかったの。それを全部、無駄だったことにはしたくない。でも、また同じ椅子に座ったら、私はあなたの顔ばかり見ると思う。嫌われないように、困らせないようにって」
彼が首を振りかけたので、私も首を振った。
「あなたがそうしろと言わなくても、私がそうしてしまうの。前みたいに安心してあなたを好きになれる日を、どこかで待ってしまう。もう、そうやって待ちたくない」
目からこぼれた涙が、頬を伝った。彼の前では泣きたくないと思っていたのに、一度あふれたら止まらなかった。
ニコラは手を伸ばしかけ、途中で下ろした。
「遅かったんだね」
私はすぐには頷けなかった。
ほんの少し前まで、遅くてもいいから来てほしかった。あの茶席で一言だけでも、私を笑わないでいてくれたらと思っていた。
けれど今、彼に差し出したい返事は、それではなかった。
「私にも、次の予定ができたの」
声は涙でひどいものになった。それでも、言えてよかった。
「あなたとアデル様のことは、あなたたちで決めて。私が戻るための条件にしないでほしい。婚約をやめたと言われても、それでお返事が変わるわけではないから」
ニコラは長いこと黙っていた。やがて、わかった、と小さく言った。目が赤くなっていたけれど、私が慰めなければとは思わなかった。
立ち上がった彼を、玄関まで送った。別れ際、彼はようやく、気をつけて、と言った。
「ありがとう。行ってきます」
扉が閉まってから、母のところへ行った。少しだけ泣かせてもらって、それからミナと最後の荷造りをした。
* * *
海は、手紙に描かれたものよりずっと大きかった。
叔母の家へ着いてから三週間、まだ見るたびに驚く。朝は窓を開け、帆がいくつ見えるか数えた。風の強い日は、ミナと二人で帽子を押さえて笑った。
悲しくならなくなったわけではない。火曜の午後に時計を見て、今頃お茶の時間だと思うこともある。そういう日は、叔母が何も聞かずに散歩へ誘ってくれた。
私は少しずつ、行きたい場所を先に言えるようになった。
「今日は丘のほうへ行ってみたいわ。昨日、白い花が見えたの」
「それなら、お茶を早めにしましょう。戻ってきたら港で魚のパイを買えるわよ」
叔母が窓辺のテーブルへ、二つのカップを運んできた。私が立とうとすると、座っていて、と笑う。
「ロゼッタは濃いほうが好きだったでしょう。あの苦い橙のお菓子も、あなたの分を多く取っておいたわ」
皿の上には、砂糖をまとった橙の皮が山になっていた。
口に含むと、甘くて、少し苦い。久しぶりに食べたその味が好きで、思わずもう一つ取った。
「おいしい」
私が言うと、叔母は嬉しそうに頷いた。誰かが自分の好みを覚えていてくれることが、こんなにも温かい。
お茶を飲み終えたら、丘へ行こう。帰りに見かけた店にも寄りたい。明日の朝には、今日よりたくさん帆が見えるかもしれない。
叔母がポットを持ち、濃すぎなかった、と聞いた。
「ちょうどいいわ。もう一杯、同じ濃さでお願いします」
私は自分のカップを、両手で差し出した。
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