第三十五話 冬輝詩音はお世話したい
小谷と秦らが水棲の獣と遭遇した時、冬輝は一人で詩衣良が住みマンションまで来ていた――?
雨がぽつぽつ降り始めたころ、冬輝は詩衣良が住んでいるマンション前に到着した。
髪についた雨粒を払い、インターホンのステンレス部分を鏡代わりに、湿気で跳ねた髪を撫でつける。ついでに服の皺も伸ばし、身だしなみを再確認する。
それが終わると、部屋番号と通話ボタンを押した。
誰も出ない。
「どうしよっかな……」
そうつぶやいた時、オートロックの扉越しにエレベーターのランプが光るのが見えた。フロア数字が徐々に減り、「1」に止まる。
エレベーターから降りてくるスーツ姿の女性に聞こえるように、冬輝はインターホンで通話するふりをした。
「うん、すぐに上がるよ」
女性が近付くと、自動的に扉が開いた。冬輝は彼女に道を譲るように、身を横にし、にこりと微笑みかけた。
「お先にどうぞ」
水も滴る美少年に道を譲られては警戒心も湧かない。女性は小さくお辞儀を返した。
「どうも」
至極自然な流れで、冬輝はマンション内に入った。
部屋の前に設置されたチャイムを押し、たっぷり待たされてやっと返事が聞こえた。
「……なに」
いつにも増して、不愛想な声だ。
「お世話になっております、家事代行サービスの冬輝で~す」
「……」
「……」
和やかな雰囲気を演出しようと張り切ったら、思いっきり滑ってしまった。なんて言い直そうと悩んでいると、短い返事が返された。
「……勝手に入れば」
鍵のかかっていない玄関ドアをそっと開け、靴を脱いで部屋に上がる。ついでに蹴飛ばされ、あちこちに転がっている子供靴も揃えておく。
リビングに踏み込むと、じっとりこもった熱気が襲い掛かる。
「ありゃりゃ、窓、全部閉めちゃって……熱中症になっちゃうよ、詩衣良ちゃん」
ソファの真ん中にこんもり盛り上がった子供布団の山が、冬輝の声でもぞりと動いた。
「……寒いから開けない」
顔だけ布団から出した詩衣良は、彼を振り返らずに、ぼんやりとテレビ画面を見つめ続けている。
それが南が丘中学校とその周辺地域のモニタ映像だと分かると、冬輝は遠慮がちに話しかけた。押しつけがましくならないように、もっと語調を和らげ、もっと声量を抑えて。
「詩衣良ちゃん、体調悪い時はちゃんと休もう?」
「やること、あるほうが……気がまぎれる……」
布団の塊がもぞつき、彼女のあごの下から犬のぬいぐるみがひょっこり顔をのぞかせた。「……なんで諧人を置いてきた」
「諧人くんなら大丈夫だよ。なっちゃんも固本もいるし」
どうせバレないから、夏野が学校を出ていることは内緒にした。
ぬいぐるみに縋っていないで、ぼくに頼ればいいのに――
「体のこと、まだ諧人に言ってない……?」
「全部は……まだ」
詰問口調を維持する気力もないのか、詩衣良の声は少し小さくなる。
「……分かった」
それ以上は触れず、冬輝はテキパキとソファ周りに散らばった服を拾い集め、洗濯かごに入れた。かごを浴室に持っていき、一着だけソーダ水を張った洗面器に漬け、残りは洗濯機へ。
家事代行を名乗る以上、出来ることは全部やらなければ。
びちゃっと嫌な水音を耳にして、冬輝は弾かれたように浴室を飛び出し、詩衣良の元へ駆け戻った。
「――おぇっ、……こほっ、こほっ」
嘔吐する詩衣良の背中を布団越しにさすりながら、バケツを掴む彼女の手に自分の手を添える。部屋はこんなに蒸し暑いのに、彼女の小さな手がひどく冷たい。
バケツをのぞき込むと、底は少しだけ食べカスがあるが、ほとんどが胃液だった。
「詩衣良ちゃん、今日何か食べた?」
ぬらりとした糸を垂らす下唇を、彼女はくせのように強く噛んだ。
「……どうせ、食べても……戻しちゃう」
「せめてあったかいものを飲も、じゃないと脱水症状でもっとつらくなるよ。待ってて」
冬輝は本当に幼児を宥めるように、ポンポンと彼女の頭を撫でてから立ち上がった。
途中で買ってきた豆乳をコップに注ぎ、レンジで温める。
その間に生姜をすりおろし、黒糖と塩も用意する。
温めた豆乳に全部入れて、スプーンでかき混ぜる。
「はい、どうぞ」
詩衣良は青白い顔のまま、渡されたコップを両手で包み、すんと匂いを嗅ぐ。
「やっぱ変な匂い……」
ぽつりと文句を言ってから、目を瞑って飲み干す。
「よし、えらいぞ」
空になったコップを受け取り、また頭を撫でようとしたら、彼女は体を丸めたまま、ふらりと横に倒れた。
小さく鼻を啜り、ぬいぐるみに顔を埋めた。
「おなか、いたい……」
「……うん」
「いたい……」
「……うん」
「いたい……」
「……うん」
結魂相手すら知らない、詩衣良の秘密。
彼女の弱音を耳にできるのは、家族だけ。
そっと壊れ物を扱うように、冬輝は詩衣良を抱き上げる。腕の中にすっぽり収まるほど、小さな体。ベッドまで運び、布団をかけ直した。
「眠れそう?」
目元が赤いまま、彼女は小さくつぶやく。
「……まだ寒い……でも、さっきよりマシ……」
冬輝は詩衣良の手をそっと包み込んだ。子供の手は冷や汗でじっとりしているが、少しだけぬくもりが戻ってきている。
「あったかい……」
うわごとのようにつぶやく詩衣良に、冬輝はふわりと目じりを下げた。
「ぼく、体温が高いからね、使えるでしょ」
詩衣良はこれ以上答えなかった。
浅く繰り返される呼吸音が少しずつ落ち着き、小さな寝息に変わった。
そのまましばらく、彼女の手を温め続ける。
「詩衣良ちゃん。ぼく、デカくなっちゃったけど、詩衣良ちゃんをベッドまで運べるし、手も温めてあげられる。……悪いことばっかじゃないんだよ。
ちゃんと役に立つから。辛い時は、もっと、ちゃんと……ぼくも頼ってよ」
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尚明高校から帰った秦は、帰宅の前に詩衣良の家を訪ねた。
冬輝が来ていると分かっていたし、休んでいるかもしれない詩衣良ちゃんを起こさないように、そっと部屋に上がる。
テレビはつけっぱなしなのに、リビングには誰もいない。戸惑った秦が部屋を見回していると、かすかな物音が聞こえた。
音を辿り、寝室のドアをそっと押し開けると、ベッドで眠る詩衣良と、彼女に寄り添うようにベッド脇の床に座っている冬輝がいた。彼は秦の知らない言葉で鼻歌を口ずさんでいる。
子守唄のような優しい旋律だった。
秦の気配に気づいた冬輝は振り向き、彼が何か言葉を発する前に、人差し指を唇に当て、部屋を出ようと目配せをした。
「諧人くん、ずぶぬれじゃん。傘でも忘れちゃった?」
冬輝は小声で話題を振った。
「水の獣が、出ちゃって……なんとか、倒しました」
「へえ、良かったね」
秦は子犬のように、冬輝の後をとことこついて行く。
「あのう、てっ、手伝えること、ありますか……?」
「大丈夫。僕一人で十分だから」
浴室に入った冬輝の後をついていくと、洗面器に沈んだ血のついた服が目に飛び込んできた。ただでさえ顔色の悪い秦の頬から、僅かな血色も消え失せた。
「……血⁉ しーちゃん、ケガしちゃった⁉」
「しーーっ、大声出さないで。詩衣良ちゃん起こしちゃう」
冬輝は手慣れた様子でゴム手袋をつけ、血の付いた服の洗濯に取り掛かる。
「――もう学校で習った? 生理の仕組み」
「せーり……生理?」
一拍遅れて理解した秦は、おろおろと目線をさまよわせた。「ちょっ、ちょっとだけ……」
「女の子が成長すると、妊娠に備えてできる子宮の膜が、定期的に剥がれて、血と一緒に出る。内臓の膜が剥がれ落ちるわけだから、体調が悪くなる子もいるけど――」
冬輝は淡々と続けながら秦を一瞥した。少年は気まずそうに彼の手元から目をそらしている。
「……まあ、女の子でもめったに口にしない話題だよね、こっちには血を不浄や穢れとして忌避する習慣があると聞くし。
でも、結魂相手の詩衣良ちゃんだけじゃない。諧人くんのお母さんや、これからできる彼女、女の子みんなに関係する話だから」
秦は床とにらめっこのまま、小さく頷く。
服をこすると、染みついた赤色が薄れ、水に溶け込んでいく。冬輝は手際よく水を取り替え、すすぎにかかる。
「出血は自分で制御できないから、気づかないうちに服を汚してしまうこともある。貧血を起こすこともある」
秦は恐る恐る顔を上げた。
「でも、しーちゃんはまだあんなに小さいのに……」
「蛮家は、『冬眠』と呼ばれる固有能力がある。命の危機を察知し、体の成長を強制的に止める能力だ。詩衣良ちゃんは、昔危険な目に遭って、見た目の成長が止まった。今の見た目がああだけど、ちゃんと成人してる、年上のお姉ちゃんだよ。
ただ、冬眠能力には欠陥があって……止められるのは外殻の成長だけで、内臓の成長までは完全に止められないんだ。入れ物が小さいまま、中身だけ大きくなり、ぎちぎちに詰まって、傷つけ合ってる」
「それって……」
初めて知らされた事実に、秦は絶句した。
「詩衣良ちゃん、四六時中痛みと戦ってるんだよ。何年も、何年も……
いつも偉そうに腕組んでるでしょ、胸や腹が痛くて、それを庇い続けてできたくせなんだ。そこに生理が重なると、吐いたり熱出したり、一気に体調を崩す……」
「ごめんなさい……」
秦はうなだれた。「僕、全然気付いてなかった……」
「まっ、詩衣良ちゃんはお姉ちゃん気質だから、諧人くんが変に気遣ってもプライドが傷つくと思う。冬眠能力のこと、ぼくが言ったのは内緒にして。詩衣良ちゃんが自分から打ち明けるまで、待ってあげて」
冬輝はいつも通りの明るい笑顔を見せた。「けがや病気になった人を、普通気遣うでしょ。難しく考えずに、詩衣良ちゃんが調子悪いなぁと感じたら、サポートしてね。詩衣良ちゃんに一番近いところにいるの、今は諧人くんだから」
「……はい」
「あとは……」
少し意地悪そうに目を細めた。
「早く強くなって、詩衣良ちゃんに余計な心労をかけないことだ」
「……はい」
※獣人
人とほとんどの獣との間には生殖的隔離がある。
しかし、人に変身・擬態できる一部の高位の獣や、寄生型の獣は、その限りではない。
蛮家のように、六大家にまで数えられた獣人の家もいるが、混血に嫌悪感を示す真人や獣も少なくない。




