第三十四話 秦諧人は変わりたい
水棲の獣が、剣の使えない小谷と火の符しか使わない秦に襲い掛かる。
水と炎の相性は最悪で、二人は苦戦を強いられる。
一人では何もできない。何をどうやってもかっこ悪いまま。そんな秦少年の行方は――?
獣が覆いかぶさってくる――
反応できずに立ち尽くしていると、急に強い力で突き飛ばされた。
地面に尻もちをついた秦が顔を上げると、ちょうど自分を突き飛ばした小谷が、身代わりになって水の獣に取り込まれていくところだった。
「こ……小谷、さん……?」
キーンと耳鳴りが響き、悪夢でも見ているようだ。
巨大な水玉の中に閉じ込められた彼女が、浮上しようと水をかいている。でも見えない壁に阻まれて出られない。上のほうは諦め、下に潜る。抜け道はどこにもない。
水の牢獄に閉じ込められた彼女の口の端から、細かい気泡が絶え間なく上がっていく。
(助けないと――!)
かかとが何度も地面を滑り、やっとの思いで立ち上がった秦は、自分の両手が空っぽであるのに気づいた。突き飛ばされた時に言霊の力を乗せる符紙を落としてしまったようだ。
慌てて周囲を見回し、黄色の符紙を探す。風でひらひら飛んでいくのが見え、足をもつれさせながら追いかける。
取り戻せたのは、わずか三枚。
天、沢、火、雷、風、水、土、山――
この中で、彼女を助けられるのはどれか。
小谷の顔に、いよいよ苦痛の表情が浮かび、最後の一息が水泡となって吐き出された。
「――下がっててください」
符紙を握りしめておろおろと足踏みしている秦の耳元を、秋雨よりひんやりとした声が掠めた。
駆け付けた固本は印を結び、水の獣めがけて手を振り上げる。その動きに合わせて地面から飛び出る薄緑の捕縛縄が、楕円状に蠢く獣に巻き付き、締め上げる。
だが、獣は四散したり、爆ぜたりしなかった。縄はあっさり水の中に沈み込み、獣の体内をすり抜けていく。
獲物は体内に閉じ込め、不要のものは通り抜けさせて無効化する。どうやら水の獣は、自分の意思で物体を通すかどうか選別できるようだ。
それでも、水の獣本体の霊子の壁をすり抜けたことに意味はあった。
沈みゆく縄は小谷の腕に巻き付き、彼女を獣の体から引きずり出す。
「――っ! こほっ! こほっ!」
やっと空気が吸えた小谷は、固本の腕に受け止められ、激しくせき込んだ。
「無茶しないって約束しましたよね、何故こんな無謀なことをっ」
固本はそのまま彼女を抱き上げ、獣から距離を取る。
「……急に襲われたんだよ、好きで飛び込んだと思ってんの」
いつものつんけんした受け答えだけど、弱々しくて威勢がない。「……あれ、人を引きずり込んで霊子を吸うやつだ。だいぶ、持ってかれた……触手と、突進に気を付け」
「もう喋らないでください。私がそいつを封じます」
固本は小谷を路肩に座らせ、獣のほうへ引き返す。さっきから二人の周りをあたふたとついて回り、話しかけられずにいる秦には、一瞥もくれずに。
まるで秦など、はなからそこにいないかのように。
「待っ……」
小谷はまた言いかけ、せき込んでしまった。はっと我に返った秦は、慌てて彼女に駆け寄った。
「ごっ、ごめんなさい! 僕のせいで……」
小谷は真っ青な顔のまま、浅く早い呼吸の合間を縫うように、笑顔を作ろうとした。
「そこ……嘘でも……『助けてくれてかっこよかった』……って、言ってくんない……?」
「なんでそんなことっ」
何で当前のように自分を庇ったの。
何で殺されかけても笑おうとするの。
何で戦力になれない自分を責めないの。
何で震える手で地面をつき、まだ立ち上がろうとするの。
何で?
「だって……ここでかっこつけないと、本当にかっこ悪くなるじゃん」
よく分からない。
かっこつけないと、かっこ悪い?
じゃあ、かっこつければ、かっこよくなれる?
固本が操る二本の捕縛縄が、獣を鎮めようとしている。しかしどの方角から絡め取ろうとしても、水の獣はぬるりと形を変え、隙間を通り抜けていく。
「固本、核を狙って!」
小谷はかすれた声を張り上げた。「あいつの中にいた時、見えたの! バレーボール大の光の塊。多分それが変形を操作する司令塔」
それを聞いた固本は、即座に捕縛縄の操り方を変える。
核を一カ所に追い込むように、外縁から少しずつ浚っていく。
地道で一番堅実なやり方だが、天気が獣の味方をした。吸い込んだ雨水を波打たせ、獣は何度も捕縛縄を弾き飛ばし、核の場所を悟らせなかった。
これではいたちごっこだ、と見切りをつけた固本は、急ぎ足で小谷のほうへ戻る。
「いったん引きましょう。雨が止むまで待つべきです」
小谷はうつむいた。
「……悔しいな。剣が使えてたら、さっき腹の中に入った時にとどめを刺せたのに……」
ぱしゃ。
水たまりを踏み音がした。
少女と見違えるほど華奢な少年が、ふらりと前へ進み出た。
小谷と固本を庇うように、巨体を蠢かせる獣の前に立ちはだかる。
しかし、獣すら、このか弱い少年は眼中にないようだ。そもそも目があるのかも疑問なのだが。体の先端から伸ばした二本の触手を、彼の後ろにいる二人めがけて飛ばした。
「――させない」
小さな呟きと同時に、小谷と固本の前に、火の壁が猛然と噴き出し、触手を遮った。
☲(火)
☲(火)
☲(火)
前に火力過剰だと詩衣良に叱られた、離卦の三重重ね。用水路の蓋の隙間に仕掛けておいた。固定用の坤卦がないかわりに、火力が一気に跳ね上がる。
水属性の獣は倒せなくても、彼女を獣から守る障壁くらいにはなる。
「おい、化け物」
言い慣れない乱暴な言葉遣いで、舌を噛みそうになった。それでも力を振り絞り、自分を奮い立たせる。
「ぼっ、僕が、あいっ、相手になる」
水の獣には目がない。それでも注意が自分に向けられている、と秦は確信した。
残る符紙は二枚。
頭の中で、八卦の符号が飛び交う。
確実に効きそうなのは、土の坤卦と雷の震卦。
土は水を吸い込み、雷は水を分解する。しかし、土は雷をも吸収するため、同時に使うことはできない。
加えてこの土砂降り。土で吸い込んだところですぐに回復されてしまうだろう。
雷の三重重ねは一番強力だが、風で照準がぶれたらおじゃんになる。
符紙を獣の体内に送り込んでから作動させたほうが、一番確実だ。
でもどうやって?
こめかみが刺すように痛い。
考えろ。考えろ。考えろ。
木を隠すなら森の中。
水に紛れ込ませるなら――
秦は素早く符紙に書き込む。
☳(雷)
☳(雷)
☵(水)
手足に絡みつこうとする触手を振りほどき、一直線に突っ込んでいく秦は、符を持った手を獣のボディに沈み込ませた。
霊流の障壁に触れた瞬間、手が急速にしびれたが、歯を食いしばって我慢した。少しでも符を奥へ送り込みたかった。
書く順番に関係なく、符は下段――根元の卦から順に効果を発揮する。
最初に作動したのは、水属性の坎卦。それを感知した獣は、符を水と認識し、すんなりそれを通した。それを見届けた秦は、即座に手を抜く。感電しないように――
霊流の障壁を突破した符から、二つ目の雷の震卦が発動し、青白い電流が走る。続いて三つ目。電気分解された水がごぼごぼと泡立つ。
残念ながら、獣が簡単には感電死してくれなかった。初めて組み合わせた雷の符が弱かったせいか、ごく一部の水しか電解できなかった。
細かい気泡がやがて一つの大きな気泡となり、獣の体の中心部に留まっている。
気体は液体より軽いはずなのに、何故泡が上へ上がらない?
逃げ出したい気持ちを抑えつけながら、小谷に教わったように、秦は霊子の光に目を凝らす。
気泡の処置に困っているかのように、その周りを忙しなく回る球状の淡い光が見える。
小谷が言ってた核に違いない――
残る符紙は、あと一枚。
一か八かだ。
☲(火)
☲(火)
☷(土)
いつも使い慣れた火の符を、獣の頭頂めがけて投げつけた。
土は水を吸収する。水属性の障壁が一瞬弱まり、そこをすり抜けた符は、ゆらゆらと気泡の中まで舞い降りた。
電気分解された水は酸素と水素になる。そんな酸素と水素に満ちた空間に、火花が散った。
ドン――‼
すさまじい爆発音が轟き、迸る水流は津波のように襲い掛かり、秦の小さな体を吹き飛ばした。
瞑っていた目を開けると、獣はもうどこにもいなかった。
間近で爆音を喰らったせいで鼓膜がおかしくなって、世界が静まり返っている。
ずぶぬれで体が冷え、くしゃみすると鼻水が出たのが分かった。
今の自分は、きっと世界一かっこ悪い――
泥まみれの秦はふらふら立ち上がり、小谷たちのほうへ振り返る。
いつの間にか火の壁が燃え尽き、目を見張った小谷が、すごく嬉しそうに何か叫んでるのが見えた。
「えっ、何? 聞こえない……」
爆発でくらくらする頭を無意識に振りながら、秦は聞き返す。
小谷は少し戸惑ったように固本と見合わせ、すぐにこっちに向き直り、大きく口を動かして見せた。
かっこよかったよ、かいと――
やっと立ち上がれたのに、またへたりと地面に座り込んだ。
必死に堰き止めていた感情が一気にあふれ出し、秦はわんわん泣き出した。
「怖かった……すごくっ、すごく怖かった……!」
※八卦の効力
火の卦より雷の卦が段違いに弱かったのは、ひとえに「熟練度が足りない」からだ。
同じ卦でも、確信を持てずに使うと効果が弱まる。
詩衣良は秦の火の符の色で彼のコンディションを察する。
赤(調子がとても悪い)
オレンジ(調子がそこそこ悪い)
青(調子が悪くないが、よくもない)
そして何色でも「しゃんとしなさい、もっとできるでしょ」と叱り飛ばす。




