第三十三話 小谷るかはかっこつけたい
帰り道、川に近づいた二人に、水の獣が襲いかかるーー!
突然強い力で足を引っ張られ、秦はそのまま地面に引き倒された。
「――っ⁉」
胸を強打した衝撃で声すら上げられなかった。
「秦くん⁉」
秦が足を滑らせたと勘違いした小谷は、すぐに駆け寄って彼を助け起こそうとした。しかし秦の体が急速に遠ざかり、その手を掴み損ねた。
何かが彼を川に引きずり込もうとしている――
足首が冷たい川の中に浸かった感触で、秦はようやく我に返って、必死にもがく。
「何⁉ やだっ……」
片手でガードレールを掴み、小谷はもう片方の手で秦の手首を掴んで引き戻す。放り捨てた傘はあっという間に風に飛ばされて消えた。
「秦くん、掴まってて」
なんとかガードレールまで秦の手を掴ませ、小谷は彼の足元へ目をやる。「獣⁉」
「わっ、分かんない……でも、今も足首にっ」
足首に絡んだ何かは、まだ執拗に彼を川のほうへ連れて行こうとしている。足首は氷漬けにされたように冷え込み、痺れて動けない。意志とは無関係に、歯がカチカチ鳴っている。
「足……?」
大きな水だまりに浸っている秦の足に目をやり、小谷は修業の内容を思い出す。霊流を目に集中させて――
水たまりの中に、足首に巻き付いてうねる帯状の光が見えた。光の帯は、川の中に続いている。
【水抜きで川に流れちゃったかも】
(冬輝先輩が言ってた水棲の獣⁉)
小谷はとっさに手のひらに霊流を集中させ、光の帯めがけて打ち込んだ。
「放し、やがれっ」
表層の水を通り抜け、中を流れる異質の霊子に触れる。その流れを千切ると、水の塊が砕け、光の帯はするすると川の中へ戻っていく。
「秦くん、大丈夫? 立てる?」
ガードレールの支柱にしがみつきながら、ようやく上半身を起こした秦は、泣きそうな顔で首を振った。
「足がしびれて……」
「じゃあ、私につかまって」
小谷は秦の腕を自分の肩に回し、ゆっくりと立ち上がった。「いったんここから離れよう。多分、冬輝先輩が言ってた水の獣だわ。水辺にいるとまた襲われるかもっ」
秦は小谷に支えられながら、痺れて感覚がない足を引きずって歩いた。
あのまま川に引きずり込まれていたら。暗い水の中で息ができず、ただなすすべもなく沈んでいく――
雨の音がすっと遠くなる。
心臓がバクバクして、耳鳴りがひどい。息の吸い方が、分からなくなってくる。
「……たくん? 秦くん⁉ 諧人くん‼」
下の名を呼ばれ、パニックで意識が朦朧としていた秦は、ようやく目を小谷に向けた。
「大丈夫だから、まずは落ち着いて」
強く握りしめられた手から、彼女の体温が伝わる。雨ですっかり冷えた体に、ぬくもりが染み渡る。
「息を吸って……吐いて……そう、ふか~く」
言われた通りにすると、少しだけ息が楽になった。
途絶えていた思考力が戻ると、秦は今までの自分の行動が猛烈に恥ずかしく思えてきた。
また助けられた。またかっこ悪いところを見られた。
「あいつに頼むのは嫌なんだけど……」
小谷はひどく気が進まないように、通信リングをいじった。
「固本? 獣が出た。多分、今朝校内にいた水のやつ。……西門の先の橋のところ。
諧人くんも一緒。川に隠れて通行人を襲うかもだから、一度封じといてくれる?
……してないって! 無事よ無事。……勝てなそうだから頼んでんじゃん……はいはい、無茶せずに固本のご到着をお待ちしてますよーだ」
いやいや通信を終えた小谷は、不満げに口を尖らせてから、気まずそうな笑みを秦に向けた。
「や~あ、かっこ悪いでしょ」
「え……?」
「水の獣がいるかもしれないのに、のこのこと雨の日の川に近付くし、諧人くんにケガさせちゃったし、勝てなさそうだから逃げるし、応援呼ぶし」
小谷は指折り数えながら、小さくため息をついた。
「私も知りたいよ……かっこいいって、なんだろうな」
返す言葉が思いつかないまま、秦は小谷の肩越しに接近してくる、大きく膨らんだ水の巨体が見えた。
「――何か来るっ」
水の塊が襲い掛かるのと、小谷が秦を抱き込んで横へ飛びのくのが、ほぼ同時だった。
ごろごろと数メートル転がり、急いで体勢を立て直す。
地面にぶつかった水の塊は飛び散ることなく、ぐにゃりと形を変え、逆再生のように元の形に戻っていく。
スライムとクラゲが合体したような獣は、半透明の丸いボディから数本の腕を伸ばし、攻撃の隙をうかがっている。
獣特有の灰色の目がない。それどころか、鼻や耳などの細部は一切見当たらない。ただの水の塊にしか見えない形状は、待ち伏せに特化したタイプのように見えた。
「ああ、すっかり狙われちゃったみたい……背を向けて逃げるのはやばいかも」
小谷は水の獣を見据えたまま、秦に聞いた。「諧人くん、八卦で時間稼ぎできる? 固本が来るまででいいから」
「八卦……」
言われるまで自分の能力をすっかり忘れていた秦は、懐から符を取り出す。手が震えて、取りこぼしそうになる。
☲(火)
☲(火)
☷(土)
条件反射で書きつけたのは、いつも使い慣れている火の符だった。
下段の土属性の坤卦で符を付着させ、火属性の離卦の重ね掛けで焼き殺す。
書き上げた符を手にして、秦は重要な問題に気付く。
どうやって符を獣に届かせる?
これまでは詩衣良が鞭の先に符を引っ掛けて獣まで届けたり、獣を無力化してから秦に符を貼りに行かせたりしていた。
だが、今日は、サポートしてくれる詩衣良がいない。
「これ、どうすれば……」
言い終わる前に、小谷は符をひったくって走り出した。「任せてっ」
無鉄砲に獣に向かっていく小谷を見て、秦は愕然とした。
雨を吸収した獣は、今や街路樹の枝まで届きそうな巨体に膨らんでいる。ゆらゆら揺れている触手の一つが突然伸び、小谷に襲い掛かる。
「動きの直前に光り出すから、おてての動きは丸分かりだっての!」
霊流を目に集中させたまま気を緩まない小谷は、獣の体内に流れる光の流れを読み取り、予想通り襲い掛かってくる触手を躱し、秦の符を叩きつけた。
暖簾に腕押しならぬ、流水に腕押しで、手ごたえは薄かったが、触手に沈みかけた火の符が光った。
パチンと火花が散ったと思いきや、あっという間に勢いを増した火の手は、うねる蛇のように触手を伝い、獣の全身を回る。
夕立に消される気配も見せず、ごうごうと燃え上がる赤色は美しく、小谷は一瞬見入ってしまった。
「すごい……」
「八卦で作った火は霊子で構成されているから、普通の水なら簡単に焼き尽くせるって、しーちゃんが言ってた」
火の符が効いてほっとしたのか、秦の呂律も少し安定してきた。
「普通の水ならって……」
小谷は嫌な予感がして、もう一度火だるまになった獣を見やった。火の手が獣の体表を削りながら、内側を走る光の膜に迫るのが見えた。
しかし、その膜に触れた瞬間、火は急速にしぼみ、じゅるじゅると音を立てながら消えていった。
「そりゃ、水を操る獣なんだから、その水も当然霊子が流れてるよね⁉」
予想が当たった小谷は、すぐに獣から距離を取り、秦の元まで戻った。
火に焼かれた獣は一回り小さくなったが、それでも二人の背丈よりは大きい。
「諧人くん、見える? あいつの体の中の光の膜。多分、その膜の中が獣の本体。外側はただの水。いくら削っても、本体にダメージは通らない」
言ってる間にも、獣は降り注ぐ雨を吸収し、その体を再び膨らませている。
「えっ、じゃあ倒せないってこと……?」
秦は呆然と呟いた。
「雷の卦、あったよね。水に電気は効果抜群のはず!」
「無理だよ。符を、こっ、固定させるのに、つっ、土の卦は必須で、でも雷は土に吸収されちゃうから効果が出ないっ」
後ろでおろおろと説明する秦の声を耳にしながら、小谷は獣が大きく変形するのを見た。
まるで見えない指で後ろから押されたように、楕円形だった獣の後方が大きくへこみ、代わりに前方が大きく張り出てくる。
(水棲の獣だから、陸上では体を変形させながら移動するしかないのか。こののろのろした動きなら、走ればまず追いつかれないはず……)
などと目算を立てたのが、そもそも間違いだった。
張り出た体の中心部から後ろ向きに、激しい水鉄砲が噴き出す。次の瞬間、噴射の反動で獣は弾丸のように飛び出し、見事なジェット推進で小谷らとの距離を一瞬で詰めた。
急加速に取り残された柔らかな身体が、今度は後ろへ大きくたわむ。
獣の体全体が、一つの大きく開かれた口のように変形し、二人まとめて取り込もうと覆いかぶさる――
※言霊の依代
言霊は基本、話者のイメージによって形成され、そのイメージを補強するために使われるのが依代。
言霊使いのイメージが明確であれば、モデルガンの依代から、実弾並みの威力の言霊を撃ち出せる。
逆に、依代そのものにイメージを制限される恐れもあり、モデルガンから撃ち出される言霊は、所詮砲弾のパワーに届かない。
成長を阻まない依代選びは、言霊扱いたちにとっては大切なことである。




