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第三十一話 秦諧人は消え入りたい

小谷や夏野より早くに獣退治を始めた中学生の秦諧人。

可愛さという一点においてだけずば抜けた少年を前に、小谷は――⁉

 秦諧人が通う南ヶ丘中学校は、辰見市城南区にある公立中学校で、尚明実験高校までバスで十五分ほどかかる。

 金曜日六限目の体育は、水泳だった。

 ここ数日天気が崩れがちで、今朝も小雨が降っていたが、午後になるとまた暑さが戻ってきた。


 今日の放課後も尚明高校に行き、獣と戦わないといけないのかな――

 水着に着替えた秦は憂鬱な気分でプールの水面を眺めていた。突然後ろから誰かがぶつかってきた。

「わっ」

 転ばないように踏ん張っていると、ぶつかってきた誰かにぴったり背中に密着された上、腕で首をロックされた。

 息が詰まり、身動きが取れない。声も出ずにフリーズしていると、いきなり股間を鷲掴みにされた。


「なーんだ、お前ついてたのかよ⁉ チビで髪が長いから、女子だと勘違いしちゃったぜ」

 すっと身を引き、ゲラゲラと笑いだしたのは、同じクラスの男子、相嵜(あいざき)英雄(ひいろう)だった。

 秦より頭二つ分高い彼は、悪ふざけで注目を集めたがるお調子者で、しょっちゅう女顔の秦を標的にした。

 案の定、何人かの男子は吹き出し、何人かの女子は呆れた顔を見せた。


 驚きすぎて頭が真っ白になり、時間差で触られた気持ち悪さが這い上がってくる。

 一緒に笑えばいいのか。

 抗議すればいいのか。

 何事もなかったかのように無視すればいいのか。

 正解が分からずに口をパクパクさせながら、秦は動けずにいた。


「あっれー? 相嵜、その顔どした~ 隕石に衝突されまくってるみたいにクレーターだらけじゃない。あっ、それ、ニキビ跡?」

 不躾(ぶしつけ)な笑い声をかき消すような、キンとする女子の声が上がった。相嵜の笑顔が強張る。

 声の主は、鶴屋(るつや)綺羅羅(きらら)。誰に対しても等しく態度が悪く、口も悪い。男女問わず、(秦も含め)彼女が苦手なクラスメイトは多い。

 鶴屋の嫌みはまだ続く。

「その鴨みたいな声、何? 発情期? あぁ、声変わりだっけ? 男性ホルモン、こんなに出てんのに……」

 鶴屋は無遠慮に相嵜の股間を見つめ、これ見よがしに大きくため息をついて見せた。

「――ちっちゃくて惨めね」

 今度は相嵜が顔を真っ赤にし、口をパクパクさせる番になった。


「こらっ、鶴屋! 女子が逆セクハラしてんじゃねえぞ!」

 体育の先生が怒鳴った。「お前らもとっとと並べ、ウォーミングアップするぞ」

「せんせー、先にセクハラしてんの、相嵜ですけど~」

 鶴屋がだるそうに返すと、先生は眉を顰めた。

「男子はそういうものだ。お前は女子だろ」

 口を「ちぇっ」の形に尖らせた鶴屋は、これ以上何も言わなかった。


 俯いたまま鶴屋の近くを通ると、低く吐き捨てるような声が秦の耳に届く。

「やり返せよ、なっさけない」


 情けなくてかっこ悪くて、ただただ消え入りたかった。


~~~~~


 放課後。

 尚明の裏庭のベンチに座った秦は、ノートに何かの符号を書きつけていた。


「何を描いているの?」

 後ろから声をかけられ、びっくりした秦は怯えた小動物のように肩をすくめて振り返った。

「っ⁉ こ、小谷、さん……」

 後ろから近づかれるとちょっと怖い。秦は目をそらし、小さく補足する。「これは、八卦(はっけ)、です……」

「八卦? 陰陽師とか、道士系のやつね」

 小谷は途端に目を輝かせて食いついた。


「いっ、いいえ。実は、全然詳しくなくて、ただ言霊の力を乗せやすかったから、八卦の符号を借りてるだけ、です……」

 彼はノートを持ち上げて見せた。

「☰(乾(けん))は天、☱(兌(だ))は沢、☲(離(り))は火、☳(震(しん))は雷、☴(巽(そん))は風、☵(坎(かん))は水、☷(坤(こん))は土……

 あれ、あと一つ、なっ、なんでしたっけ……」

 ノートの裏に隠れていた顔をひょっこり出し、慌ててノートを読み返す仕草が愛らしく、小谷は思わず慈母の眼差しになる。

「そうでした、☶(艮(ごん))は……風……違くて、山でした」


「昨日使ったのは、炎の卦だったってこと?」

「土の坤卦をベースに、火の離卦を二つ重ねた火の符、です。火を土に根付かせないと、燃えすぎてコントロールが効かなくなる、んです……」


「八卦ってことは、八種類もの魔法攻撃ができるじゃん! 火と水と雷だけでも属性的に死角なし、組み合わせさったらに可能性が無限大‼」

 小谷はぐっと親指を立てた。

「RPGだったら、秦くん、向かう先敵なしだぜ☆」


 ハイテンションの小谷に怯えてか、秦はすっとノートを立てて二人の間に壁を作った。

「そんな、ことは……」

「それにしても、天と山は何の力だろう? 沢と水も、ダブってる気がするけど、何が違うんだろう……」

「……分かりません」

 秦は蚊が鳴くような小声で返した。「使ったこと、ありませんから。火の符しか使ってなくて……」

「えっ、もったいない! もっといろいろ試してみようよ、きっと面白いよ!」


「おも、しろい……?」

 ノートをかざす手の指に力が入り、くしゃりと紙がつぶれる音がした。

「……なんであんな化け物を見て、面白いって思えるんですか。僕は……怖くて怖くて仕方がないのに」

 ノート越しに見えるのは、頭のてっぺんの小さなつむじだけ。そして鼻をすする音が聞こえる。

「食べられて、死んじゃうかもしれないのに……」


 天使のような愛らしい少年を、自分が泣かしてしまった。万死に値する罪悪感にかられた小谷はぎょっとし、おろおろと手を振り回した。

「ごっ、ごめん‼」

 何に対しての謝罪か分からないけど、謝りながら取るべき行動を必死に考えた。


(どうすればいいの、こういう時? 

 頭ぽんぽん? いや親しくない人に勝手に頭撫でられたくないでしょ。

 抱きしめる? いやいや親密度が高くないと選んじゃいけないセクハラ選択肢だろうがっ!

 えっ、えっ、何が正解???)

 なぜ現実世界はゲームのように自動的に選択肢が出てこないのか、と困り果てた小谷は現実のくそ仕様を恨んだ。


 小さく丸まった姿に、ふと気付かされる。

 見た目幼稚園児の詩衣良にすっかり気を取られていたけど、この子だって、この春までランドセルを背負っていた小学生だったのだ。

 声変わりもまだで、自分という形すらあいまいな子供にとって、獣という非現実的な存在は、どれだけ恐ろしいものだろう。

 中一と高一。成長期における三年の差は、とてつもなく大きい。

 

「怖かったら、無理しなくていいんじゃないかな」

「……ふぇ?」

 小谷の言葉を耳にした秦は、ノートの上から目を覗かせた。まともに目を合わせたのは、これが初めてかもしれない。

「だって、ここ(尚明)には、高一の私と固本、高三の夏野先輩と冬輝先輩がいるよ? 中学生の秦くんを前に立たせたら、メンツに関わる由々しき問題よ!」

「でも、前に出ろって、しーちゃんがいつも」


 小谷はウィンクして見せた。

「その詩衣良ちゃんが、今日は用事で来てないでしょ? ちょっとサボっちゃってもいいわよ」

 秦はようやくノートを完全に膝に下ろした。

「……いいの……?」

「いいのいいの」

 頼りがいのある先輩ぶろうとした小谷を、横からの声が遮った。


「諧人はサボって構わんが、お前はダメだろ」

 フェンスにもたれかかった夏野は、あきれ顔でこちらを見ている。

「誰の穴埋めでこっちに来てもらってると思ってんだ。剣を扱えないやつがかっこつけるな」

「ぐっ……返す言葉も……ございません」

「今日はやるのか。やらないのか」

「やります。修業、頑張ります」

 夏野は視線をすっと小谷から秦に移す。

「冬輝と固本は、校内の巡回でグラウンドにいる。彼らと一緒に行動すれば大丈夫だろ」

 秦は緊張で何も言えず、ただこくこく頷いた。


「秦くんのこと、諧人って呼んでるんですね、ちょっと意外でした」

 テラスに向かう夏野の後ろを、小谷はついて行く。彼の歩幅が大きく、かなり早足で歩かないと置いていかれる。

「冬輝がそう呼んでるだろ」

「ええ? じゃあ冬輝先輩と同じ、蛮さんは『詩衣良ちゃん』って呼ぶんですか?」

 夏野の足が止まり、小谷は思いっきりその背中にぶつかってしまった。


「……呼ぶわけねえだろ」

 瞬時に氷点下になった声音に、小谷は背中がぞわわっと鳥肌が立ち、やはり夏野先輩だけはおちょくっちゃだめだと深く反省した。


 体内の霊流は、激しい感情を持つほど活性化される、と詩衣良は言った。

 怒りの感情は、案外ストックがある。

 固本にいきなり跪かれた時のこと。

 固本に家まで付きまとわれた時のこと。

 固本の早とちりを佐山が盛大に誤解した時のこと。

 固本に背負われたところを父親に見られた時のこと。

 固本が……


(おのれ、固本ぉぉ、私のストレスの根源、大体あんたじゃないかーい)


 固本のおかげ(?)で、小谷はだんだん霊流を操るコツが掴めてきた。

 霊枢から湧き出る霊流を感情に乗せて引っ張り上げ、風船が膨らむイメージで漲らせる。

 そしてもう一度思い出してみる。尚明祭の時、自分は何をして獣の防御を打ち破ったのか。

 剣を鋭くした? 腕を強化した? 足を速くした?

 違う。

 ――目だ。

 あの時、無意識に目に霊子を集中させ、獣の動きを見破った。


 その感覚を思い出しながら、小谷は瞑っていた目をゆっくり開く。

 自分の体を包み込んで揺蕩う霊紋。空中を漂う不規則な霊子の塊。

 ぼんやりとしか見えなかったものが、今、鮮明な形で目に映っている。


 目の前の山茶花の枝葉が薄い霊子の膜に覆われているのも見えた。

 小谷の推測通り、霊枢を持たない生き物でも、多かれ少なかれ霊子を持っている。


 獣の勢いを借りてなぎ倒す詩衣良の動きと、「自分の土俵に引きずり込む」のアドバイスを思い出し、小谷は自分の指先を見る。

 このか弱い霊流では枝は落とせない。でも、枝の表面を覆った霊子の膜になら干渉できるかもしれない――

 そっと手を近づけ、指先の霊子を枝を覆った淡い光の膜に溶け込ませてみる。馴染んだところで、流れを邪魔するように、きゅっとねじってみた。

 膜が途切れ、枝に干からびたようなひびがわずかに入った。


「……よし!」

 希望が見えてきた。

※秦諧人

南が丘中学校 一年一組

151cm 39kg A型

特製の符紙に八卦を書き、投擲する戦闘スタイル

蛮家のつてで入手した符紙は高価なものだが、本人は知らずに使っている。

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