第二十七話 乙部蘭はやり直したい
これは乙部蘭が境界対策支部の副長になる前の話。
初めて常界に派遣された彼が見つけた結魂相手は――
情報収集や通信を得意とする乙部家の養子として、乙部蘭が常界に派遣されたのは十八年前。
当時の境界対策部は、治安維持隊と呼ばれたごく小規模な組織で、獣の出現もそれほど多くなかった。
乙部はカモフラージュで入った都市大学で学生生活を謳歌し、三年目に佐条茂臣に出会った。
治癒能力の適合者は女性が多く、彼も女性が望ましいと考えていたが、気兼ねなく行動できる男同士でも悪くない――
直感で茂臣が結魂相手だと分かり、彼に結魂の儀を持ち掛けた。
底抜けのお人好しでまじめな茂臣は、乙部の話を疑うことなく、結魂を受け入れたが、龍淵から衡命杖を引き出した時、さすがの乙部も腰を抜かした。
桁違いの能力を秘めた希少な真法器具は祝器と呼ばれる。
衡命杖は、指定祝器目録に登録された、二十七の祝器のうちの一品であった。
白銀の杖身の真ん中には水晶の砂時計がはめ込まれており、時間を巻き戻すことで、どんな怪我も負う前の状態に戻せる。
百年ぶりに姿を現した衡命杖の使用者は、治癒の名家の人間ではなく、まさかの常界人だった。
それから三年間、乙部と茂臣は後方支援組として行動を共にした。
乙部が情報を集めて分析し、前線に伝え、茂臣が運ばれてくるけが人の治療を行った。
二人の評判が上がり、乙部の昇進が決まったころ、茂臣にも真界への移住が打診された。
百年ぶりに現れた衡命杖を扱える人材を、真界の上層部も見逃したくなかった。
茂臣は乙部と共に、見学という名義で真界を訪問し、手厚くもてなされた。
人間界では霊枢を持つ者はまれでも、真界ではすべての生き物が霊枢を持っている。それを実感した茂臣は、祝器を引き当てたのは偶然で、自分の実力ではないと考えた。
乙部にもなんとなく彼の気持ちを察した。
茂臣はお人好しだから乙部に付き合っているだけで、本気で治癒の名手を目指しているわけではない。
決定打は、大学四年の時だった。
「気になる人がいるんだ。だから、そっちへは行けない」
茂臣は乙部に打ち明けた。
相手は、インターンで入った企業の指導係を務める年上の女性だった。
リーダー気質の彼女は、受け身の茂臣の背中を押し、学生気分が抜けない彼を引っ張った。
そしていつも流されるがままだった茂臣は、彼女のために常界に残りたいと初めて自分の意思を示した。
潮時だ、と乙部は分かった。
問題は、茂臣が持つ衡命杖の行方だ。
常界の医学水準を覆すような祝器を、このまま放置するわけにはいかないし、隙を見て奪おうと企む連中も出てくるだろう。
真界の上層部の指示を受け、乙部と相談を重ねた茂臣は、祝器を返還する解魂の儀に同意した。
解魂の儀で大きな損傷を受けた乙部は、療養のために真界に帰った。
それから間もなく、北のほうで怪しげな民主運動が起き、徐々に暴動へ、戦争へ転じた。
知り合いの訃報が届くたびに、乙部は思った。
解魂をしておいてよかった。茂臣を巻き込まずに済んだ――
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「まもなく双葉通り、双葉通りでございます。メディカルセンターへお越しの方は、次の駅でお降りください」
乙部は、アナウンスにはっと顔を上げた。バスに揺られ、思い出に浸っていると、もう目的地に着いたようだ。
「凌雲事変」と呼ばれる戦争が終わり、体も快癒した乙部は、今再び常界に来ている。
境界対策支部の副長として赴任する前に、十年ぶりに茂臣に会いに行こうと思った。
結婚して父親となった彼は、佐条茂臣の名から天道茂臣の名になっている。
天道家へ続く高級住宅街の道を、乙部は歩いていく。
静まり返った夜道は、なぜか肌がざわつく気配がした。
多くの人がいる。息を潜め、獲物を待ち伏せているような人間の気配だ。
乙部は思わず足を速める。
やっと見えてきた天道家の周りには、車が何台も止まっている。車の近くでタバコを吸っていた男が目ざとく彼を発見し、小走りで駆け寄ってきた。
「ちょっと君、この近くに住んでる人?」
男は食いつく勢いで乙部に尋ねた。
「……いいえ、通りかかっただけだ」
「またまた~こんな時間にここを通るなんて、ご近所さんか関係者だろ? ぜひ、一言聞かせてください!」
二人のやりとりに気づいた男女三人も我先にと集まってくる。
「天道グループの関係者ですか? 事故についてぜひコメントをください」
「事故……?」
乙部の背中にひやりとした冷気が這いあがる。
「とぼけないでくださいよ。昨夜起きた車の事故で天道のご夫婦が亡くなられたことについて、一言コメントください!」
茂臣は死んだ――
戦場から帰り、久々に魂を分かち合った友人に会えると浮足立っていたのに。もう一度結魂し、彼が暮らすこの街を守ろうと思っていたのに。
「久々に常界に来て、先に結魂相手の葬式に出ろってのかよ……冗談がきついぜ、茂臣」
乙部は乾いた笑いを漏らした。手にした夕刊には「過積載トラック激突 天道財閥当主夫妻死亡、令嬢(10歳)は生死の境」の太字タイトルが打ち出されている。
悲しみに暮れる余裕はない。乙部は亡き友人の娘が運ばれた病院へ急いだ。
中央区都市大学医学部附属病院の救命救急センターに辿り着くなり、乙部は能力を使った。広範囲の物音を拾う能力は、補助用の通信石を借りれば、病院中の音が拾える。
病人の呻き。受付スタッフの声。鳴りやまない電話の音。
やがて音の濁流から、看護師の声を見つけ出す。
「……天道財閥のご一家が乗った車とトラックの出合い頭事故、ちょうど昨日の零時ごろ起きたんだよね」
「トラックの運転手、ながら運転してたそうよ。ぶつかった直後急ブレーキをかけたせいで、過積載の鉄筋が崩れて軽自動車を直撃……。私、昨夜も夜勤だったけど、被害者が天道財閥の夫妻だって大騒ぎよ」
「運転席のお母さんは即死、お父さんは娘を庇って鉄筋に貫かれたまましばらく生きていたって。お嬢さんの手術を執刀したのが榊先生だったの」
「……榊先生、昼も病棟に忍び込んで来た記者を捕まえてたわよね。『人の不幸をタネに飯食ってんじゃねえぞ』って」
「あの記者、トラックの運転手さんに、生き残ったお嬢さんの居場所を教えたのよ。罪悪感に苛まれた運転手さんが杖をついてICU病棟に入って、病院に駆け付けたご家族に土下座謝罪をかましたところを撮るために……ほんとゲス!」
「結局お嬢さんもセキュリティ対策で急遽特別病棟に移したんだよね、手術後は榊先生もびっくりするほど容態が安定してるんだって」
茂臣の娘の居場所が判明し、乙部は特別病棟へ急いだ。
VIP室のある最上階フロアに足を踏み入れた瞬間、探し人がここにいると分かった。
木の葉がそよぐような霊紋の気配はひどく懐かしく、胸が締め付けられる。
一室ずつ確認するまでもない、懐かしい気配を辿ればいい。やがて一つの部屋の前に足を止め、ドアをそっとスライドさせた。
消毒液の匂いが充満する部屋の中、幼い少女が病床の上で寝ている。常夜灯の淡い明かりにも、大事故の直後の青白い顔色が見て取れる。
子の霊紋は親に似るというが、あまりにも酷似しすぎたせいで、乙部は一瞬ベッドの上に寝ているのは茂臣ではないかと錯覚した。
(ああ、この子は、本当に茂臣の娘なんだな……)
鼻をすする音に、女の子はまつ毛を震わせ、ゆっくりと目を開いた。
見知らぬ男が目の前で声を押し殺して泣いている。それを見ても驚く様子を見せず、彼女はか細くも落ち着いた声を出した。
「こんばんは。見舞いの方?」
乙部は慌てて瞬きし、涙でぼやけていた視界を取り戻す。
「違う……いや、違わないか。……悪い、突然来て」
茂臣の忘れ形見の前で、みっともない姿を晒したくない。「……っと。おじさんはね、茂臣の大親友で、乙部蘭って名前だ」
【乙部……蘭さん、ですね? 私は、天道茱萸と言います】
たどたどしく伝えられた少女の言葉に、乙部は目を見張った。
【真界語、分かるのか?】
【お父様に、教わりました】
少女はそこで使い慣れた言葉に戻した。「おまじないの言葉だって、お父様が言ってた」
「茂臣……お父さんは、おまじないを使ってたのかい」
「けがとか病気になった時、痛いの痛いの飛んでけっていつもおまじないをかけてくれた。ほんとうに痛いのも辛いのも飛んで行ったんだ」
解魂した茂臣は、衡命杖を返還したが、治癒能力がわずかに残っていた。ただ、その残滓のような力では、交通事故の惨劇を覆せなかった。
少女は自分の両足に目を落とす。
「車がぶつかった時も、痛くて痛くて、でもお父様が守ってくれた……お医者さんは、奇跡だって言ってた。きっと、お父様のおまじないが私を助けたんだ」
少女から霊枢の気配を感じ取り、乙部はすっと息を吸い込む。
「おじさんはね、実は魔法使いなんだ。茂臣と契約をして、治癒のまじないを授けたんだ」
「魔法、使い……?」
少女は首を傾げた。
「茱萸ちゃんも、魔法使いになれるよ。おじさんと契約してみるかい。そうすれば、茱萸もお父さんと同じようになれる」
「お父様と、同じ……?」
事故の衝撃で表情が乏しかった少女の顔に、初めて驚きの色が浮かぶ。
「そうだ。茱萸ちゃんはお父さんの子だから、立派な魔法使いになれるよ。今ここで、おじさんと契約しよう」
かなり強引に推し進めている自覚はあるが、乙部は一刻も早く天道茱萸と結魂の儀式を行いたかった。
茂臣が初めて衡命杖を使用した時、砂の量は一日分だけ時間を巻き戻せた。タイムリミットまで、あと三十分もない。
衡命杖は使用者の素質によって砂の色が変わる。
青の砂は、他者を癒す力。赤の砂は、使用者自身を癒す力。
もし赤い砂が出れば、もし砂の量が一日分あれば、この忘れ形見の娘は、またその両足で駆け回り、健康な子供として生きていけるかもしれない。
確率は半々、賭ける価値が十分にある。
やり直せるものなら、やり直したい。やり直させたい。
どうか、彼女が赤の砂が入った衡命杖を引き出せますように――
乙部は創造主である龍神に無心で祈り続けた。
少女は意を決したように上半身を起こした。
「私を、お父様と同じ、魔法使いにしてください」
常界の常識は、真界の非常識:
結婚して名字が変わること
真界では、名が力を表す。母の力を受け継げば母の名字、父の力を受け継げば父の名字になる。
同系統の力を持つ人間の通婚はタブーだから、一家全員が同じ名字になるのはまずありえない




