第二十一話 夏野誉は用心したい
駆け出しのヒーロー志望小谷るか、無事に尚明祭の危機を乗り越えた。
しかし、一件落着の裏で、ひそかに危機感を抱く人間もいて――⁉
言霊の力に目覚めて以来、夏野は霊子――力を構成する基本単位――を、淡い光として見えるようになった。
大気中にも霊子はゆるやかに流れ続け、光の濃淡を作っている。
光が強いほど気配も強くなり、校内に獣が出れば、大体の出現地点が分かる。
霊枢を持つ人もまた、力を使う時に光を発する。
冬輝の光は線香花火のように、小さく爆ぜながら、弧を描いて拡散する。
固本の光はさざ波のように、一定の範囲内に留まり、打ち寄せては引くを繰り返す。
小谷の光はシャボン玉のように、揺らめきながら、表面張力で丸いフォルムを崩さない。
冬輝によれば、その光は「霊紋」と呼ばれ、指紋や声紋のように独自性があり、同じものは存在しないという。
ただし、霊枢を持たない獣には霊紋がなく、身の回りに不規則で淀んだ光を纏わせるばかりだ。
尚明祭の朝、夏野は十数名の生徒と共に、会議室で数学オリンピアードの選考試験を受けていた。
その途中、突如異様な気配が伝わり、皮膚が粟立った。
また厄介な獣が現れたようだ。
その淀んだ気配に押されたような小谷と固本の霊紋を感じ取り、夏野は正直、迷惑だと思った。
あれだけ手に負えない獣は封じておけと言ったのに、なぜ無謀に戦おうとするのか。
放っておこうと思ったが、結局後輩を見放せず、答案用紙を提出し、早めに切り上げた。
受験生組の迷惑を考えて、身の安全を第一に考えて行動しろ――
今度こそしっかり説教してやろうと思った。
いざ駆けつけてみると、楽しげに観戦している部外者に向けて、小谷がヒーローショーみたいな口上を繰り広げていると来た。
夏野はすぐに事情を察した。偶然獣を目撃した一般人をごまかすために、舞台劇か何かと偽ったのだろう。
そこに入るなら、それっぽい演出が必要だ。
そう考えた彼は、演劇部の衣装を拝借した。
すべては順調に運ぶ。はずだった。
小谷らがいる裏庭から、突然霊子が爆ぜるような気配がした。
部活棟まで届く霊子の衝撃に、夏野はゾッとした。
獣は捕食を繰り返して進化を遂げ、驚異の力を持つことがあると、以前冬輝に言われた。
あの手強い獣が、誰かを襲い、霊子の嵐を引き起こしたのか――
最悪な可能性が脳裏をよぎり、夏野は全力で駆け出した。
湖の底にたまった汚泥が掘り起こされたような、ねばりつく霊流がのたうち回る中、夏野は吐き気を抑えながら踊り場の窓に飛びついた。
小谷、固本、観客の親子三人、誰一人欠けることなくそこにいる。
汚泥のような霊流を纏っているのは、獣ではなく、その隣の小谷だった。
彼女が纏う見慣れたシャボン玉のような霊紋が変わり果てる、はっきりとした形状を持たない、混沌となっている。
煮え立ったような濃い紫色の霊子を散らす様は、獣のそれに酷似していた。
呆気に取られていると、真下から幼い子供の声がした。
「おねえちゃん、がんばれ――!」
沸騰しながら膨らみ続けた小谷の霊紋は、まるで冷水をかけられたように、ふっつり萎んだ。
小谷の身に何が起きたのか分からないが、騒ぎを収めるのが先決だと考えた夏野は、マスカレードマスクをかぶり、舞台に上がった。
固本が編み込み結界を構築する間も、夏野は時間稼ぎをしながら、小谷の行動を観察した。
無鉄砲で一生懸命なのはいつも通りだが、薄く光るシャボン玉状の霊紋には、まだわずかに異質な紫色の霊子が混ざり、蠢いていた。
完成した編み込み結界が三人の体を通り抜けていった時、夏野は特に何も感じなかったが、小谷が明らかに顔色を悪くし、網に絡み取られた獣のように身を強張らせた。
夏野はその違和感を拭えなかった。
今までの獣退治で、命の危機を感じたことはほとんどない。日常生活に紛れ込んだノイズを排除する作業は、命をかけるほどのものではないーー
ずっとそう思っていたし、そう思っていたかった。
豹変した小谷を目撃した時、夏野は初めて、自分たちが与えられた力の異様さを実感した。
この得体のしれない力は、一体何なんだ。
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手当てを終え、ベンチに腰掛けて休んでいる固本に、夏野は質問した。
「さっき使ったのは、なんて術だ」
「刑判天羅という結界術で、暴れる獣の霊流を鎮め、行動力を奪うものです」
霊流を鎮める術と聞き、夏野はちらりと小谷を見た。
本当に、獣を捕縛するためだけに使った術なのか。
「えっ、なになに、新技? どんな? ぼくも見たかった」
まだ聞き終わっていない夏野を遮るように、冬輝はのんきな声を上げた。「ぼくも劇中ですっごい嫌な気配を感じて焦った。今回の獣、相当手ごわかったでしょ。すぐに助けに来られなくてごめんね」
「いいえ、冬輝先輩は劇がありましたし、本番で抜け出したらそれこそ騒ぎになりますよ」
小谷は手をぶんぶん振った。「それに、夏野先輩には助けてもらいましたし……ありがとうございました」
小生意気な小谷がしおらしく謝ること自体が不自然で、夏野は思わず彼女に疑いの目を向ける。
さっき見せた濁流のような霊流は一体何だったのか――
ぎゅるるる、と目の前の後輩女子から派手な腹の虫の音が鳴り響き、問い詰めるどころではなくなった。
「あっ、もう昼だもんね! 今回何の役にも立たなかった、この冬輝めが、せめてものお詫びに、お三方に昼ごはんをご馳走しますよっ!」
冬輝はさっと敬礼のポーズを取ってみせると、まんまと食べ物に釣られた小谷が目を輝かせた。
「いいんですか⁉ えっと、じゃあ……焼きそばとかき氷で!」
「お言葉に甘えて、ロシアンたこ焼きと激辛フランクフルトをお願いします」
夏野も口を開く。
「じゃあ、俺と冬輝が買ってくる。けが人は大人しく待ってろ。――人よけの結界も張っとけ」
「なっちゃん、一緒に来てくれるの? やっさしー」
本当はこの二人といるのが、なんとなく気が進まなかっただけだ。
夏野は、焼きそばの屋台の前で、にこにこと売り子の生徒に話しかけている冬輝の背中を見た。
同じ制服を着ていても、彼はこの世界の住民ではないのだ。
もう少し用心したほうがいいかもしれない、と夏野は考えた。
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幸いその後獣は出現せず、尚明祭は恙無く幕を閉じた。
風呂上がりの夏野が寮の部屋に戻ると、冬輝が手にしている本が目に飛び込んだ。可愛らしい女の子のイラストが表紙を飾っている。
「何の本?」
「『異世界帰りの俺が現実無双すると、冷たかった幼馴染がやたら絡んでくるようになった件について』だよ~」
「……なんだ、その胸焼けしそうなタイトル」
「面白いよ! 夢がいっぱい詰まってるから。ぼくも異世界チート能力を手に入れて、幼馴染の女の子と相思相愛になりたい~」
「道に迷ったり、災害に巻き込まれたりして、気づけば異世界にいたという文学作品なら、俺もいくつか知ってる。実際お前らの所の獣も、そうやってこっちに侵入して来てるわけだろ」
「ああ、大規模な霊子嵐が起こると、空隙に巻き込まれた獣が常界に辿り着く――確かに似通ってるね」
「霊子嵐……?」
小谷が発する異様な気配を思い出し、夏野は眉をひそめた。「昼にあった、あれか」
「違う違う、あの異常な霊流は強力だったけど、一個体が発した力に過ぎない。霊子嵐は、龍淵から発生する大規模な自然災害だよ」
「で、その自然災害の被害を被るのが、俺たちの世界ってわけか」
夏野のつっけんどんな言葉に、冬輝は苦笑する。
「なっちゃん、手厳しい。自然災害で責任を取れと言われても、手を尽くすとしか言えないよ。だから獣退治を担う部署があって、ぼくらがここにいるじゃない。獣だって、災害に巻き込まれた被害者だからね」
「……まるで獣の味方をしてるような言い方だな」
夏野は思わず眉をひそめた。
「なっちゃんには信じられないかもだけど、ぼくらの世界では、人と獣は仲良く共存してるんだ。常界の獣は、霊子の供給を断たれたせいで理性を失い、人を襲うようになる。それは常界の環境が獣に合わないってだけで、悪意が招いたものじゃないよ」
「悪意がない?」
何故か冬輝の言葉一つ一つに裏があるように感じる。いちいち言い訳めいて、正体が掴めない。
夏野は鼻を鳴らした。「悪意がないと、どうやって証明できるんだ」
「なっちゃん……」
夏野が苛ついていることに、冬輝が気づけないはずもない。「今朝のことが、やっぱり気になってる?」
「……」
魂を分かち合う結魂相手でも、心まで通じ合えるとは限らない。それは冬輝も承知している。
「ぼくは、悪意のなさを証明できない。証明したところで信じてもらえなければ意味がない」
読みかけの本を机に伏せ、夏野に向き直る。
「ぼくは、なっちゃんには絶対に嘘をつかない。だから不安に思うことがあるなら話して、分かり合えるためには、言葉は必要だから。それを信じるかどうか、聞いたなっちゃんが決めればいい」
夏野はしばし冬輝を見つめ返し、ふいと視線をそらした。
「もう寝る」
ベッドに上がった夏野がしっかりカーテンを閉めるのを見て、冬輝はまた本を手にした。
数ページめくったが、内容が頭に入ってこない。
「異世界ものでさ、主人公が活躍すると、たくさんの人が褒めて、信頼してくれるようになる。気心の知れた仲間もどんどん増えていく」
冬輝は誰にともなくぽつりとこぼす。
「――ぼくにはそれが、羨ましい」




