第言話 もし夏野√に入ったら②
if世界のラブコメフラグをへし折ったのは、小谷ではなく、夏野だった。
やはり恋愛初心者の二人をくっつけさせるのは、if世界でも不可能だったのか――
「いた! なーつーのー‼」
午後のゼミが終わり、大学構内を歩いている夏野は、後ろから呼び止められた。
振り返ってみると、可愛らしい顔立ちと似合わず、険悪な表情を浮かべた女子だった。
彼女はウエーブがかった茶色の髪をなびかせながら、全速力で突進し、夏野には身構え時間を与えなかった。
全力タックルをかましてきた女子に襟元を掴まれ、そのまま仰向けに転ぶ。
段差に背中ががっつりぶつかる。痛みで一瞬息が詰まった。
顔を歪めた夏野に構わず、上に乗っかった女子が彼の襟を掴んで激しく揺すった。
「うちのるーちゃんに何をした⁉ 言え‼ このボケナス‼」
「なになに、修羅場?」
「あの制服……尚明高校じゃねえ?」
好奇の目が二人に集まる。
「っ、待てって」
視界がぐらぐら揺れる。夏野は女子の腕を掴み、やっとその顔をまともに見た。
「……誰だ?」
その一言で、女子の顔から細い首まで怒りで真っ赤に染まった。
「……ほんっとにっ、さいってー! 吉川よ! 吉川陽葵‼ るーちゃんを泣かすやつは、あたしが許さないんだから‼」
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夏野と吉川の元へすっ飛び、二人を宥めながら空き研究室に案内したのは、同じ大学に通う冬輝だった。
「吉川ちゃん、お待たせ。缶コーヒーどうぞ。目元を冷やしてね、せっかくの可愛い顔、もったいないよ」
渡されたコーヒーを無言でひったくり、吉川はきっと夏野を睨んだまま視線を動かさない。
冬輝に会うと恋愛話できゃっきゃ盛り上がる姿はどこにもない。
今の吉川にとって夏野の味方は全員敵、冬輝であろうと例外ではない。
相討ちをいとわない死士さながらの吉川は、手ひどく振られた親友のために、敵討ちで大学に乗り込んだと宣言すると、冬輝はその初耳情報に仰天した。
「振っられた? 小谷ちゃんが⁉ なっちゃんに⁉」
「知らなかったの? どうでもよくて教えなかったのか、後ろめたいから教えなかったのか、ぜひ理由が知りたいわねっ」
「えっ、だって一昨日もなっちゃんデートに行ったよ? 喧嘩の仲直りにって、プレゼントも用意して……」
夏野は押し黙ったまま、吉川とも、冬輝とも目を合わせようとしない。
「こんな薄情な男、最初っからるーちゃんに相応しくなかったのよ」
吉川は赤い目のまま、怒りで震える声で吐き捨てた。「あんた、なんて言ってるーちゃんを振った?」
「……」
「言いなさいって!」
吉川はバンと机を叩いて立ち上がった。
「るーちゃんに言った言葉、そっくりそのまま、あたしと冬輝さんに聞かせてみなさいよ‼」
キンとした声が頭に響く。
なんで外野に詰られなきゃならないんだ。どうせ詰られるなら、
詰られるなら――?
何を?
誰に?
詰って欲しかった?
「……俺が一緒にいる意味、あるかなって」
夏野はぽつりとこぼした。
「――そう聞いただけだ」
「「っ……」」
顔を上げなくても、二人の表情は大体想像がつく。
「ははっ、恥ずかしげもなくよく言えたものね。一緒にいる意味ないって……。なんでるーちゃんがこんな目が節穴の男に引っかかっちゃったのよ」
吉川は呆れ果てて笑い出してしまった。
「記念日だからって、あたしと一緒に新しいワンピースを買いに行って、どっちが先輩の好みに合うかすっごい悩んでたの、どうせ知らないでしょ?
初めて挑戦した指先のネイルも、履き慣れてないヒールの靴も、どうせ何一つ気付かなかったでしょ?」
そんな細かいこと、吉川に言われるまで、夏野はまったく気づかなかった。
なんかちょっといつもより身長が高いくらいしか思っておらず、いつも通りのつもりで小谷とデートしていた。
「……服とかどうでもいいだろ。小谷は小谷だし」
やっとひねり出した言葉を、激高した吉川が叩き切る。
「自分のために頑張る彼女に気づかない彼氏なんて、普通の友だちとどう違うのよ! あんたは、女子としてのるーちゃんが好きで付き合ったんじゃないの⁉」
そうだよ。
普通の友だちとは違う、特別になりたかったから、彼女と付き合うことにした。
でも付き合ってみても特別扱いしてくれるわけでもなく、特別扱いさせてくれるわけでもなかった。
服とか靴とか気づきにくいものではなく、もっとほかの分かりやすい形で「夏野先輩だけ特別」だと示してほしかった。
「……あいつは、俺と一緒にいてもいつも通りだった。好きなゲームの話をして、誰それの話ばかりで。俺の彼女なら、もっと俺と会話するもんじゃないのか?」
自分ばかり責められるのが癪で、夏野は言い返した。一度口を開くと、止まらなくなる。
「俺がランチの時間を心配している時、あいつはお前への土産を呑気に選んでた。俺がいつプレゼント渡せばいいのか考えてる時、『冬輝先輩にウケる』つって、呑気にガチャに何回もコインを入れてたんだぞ。
デートしてんなら、その時間を丸ごと俺にくれるもんじゃないのか。ずっとお前らの話をしてるなら、もう俺が一緒にいる意味ないだろう」
部屋がシーンとなる。
「……『一緒にいても意味ない』って、そういう……?」
吉川は唖然と繰り返した。
冬輝は胃のあたりをさすりながら、頭痛を堪えるように目を瞑った。
「えーっと、ぼくがなっちゃんの通訳をしてみるね……
つまり、彼女がデート中に自分以外の人の話をするから、嫉妬した……で、合ってる?」
冬輝のもの言いたげな視線が気に入らなくて、夏野はまた目をそらした。
「……だったらなんだ」
「……吉川ちゃん、ごめん。これ、ぼくの手に負えない」
冬輝は沈痛な面持ちでただ謝罪を繰り返した。
「――だとしてもよ!」
吉川は執拗に追い打ちをかける。「それで別れるって言う⁉ 脅せば言うことを聞かせられると思うのは、普通にモラハラだから! るーちゃんにはこんなモラハラ予備軍と付き合ってほしくないし、金輪際関わって欲しくないけど、まずはるーちゃんに会って、土下座でもして、泣き止ませなさいよ!」
吉川の真っ赤な目から、涙がぽろぽろこぼれ出た。
「あたし、るーちゃんが泣くのを初めて見た。そんな悲しい顔、二度と見たくないから……!」
泣く?
あの獣に殺されかけてもヘラヘラと「正義が勝つ」とのたまう鋼の心臓の持ち主が?
夏野は信じられなさそうに首を振った。
「あいつが振られて泣くか? 八つ当たりになんか投げつけて、表情一つ変えずに帰っていったぞ」
「――ほんと、死ね」
吉川は涙目のまま夏野を罵った。
「特別扱いされてるのに気づかないなんて、死ね! 記念日に別れを切り出すなんて、死ね‼」
なんとか疫病神を送り返し、賃貸アパートに戻った夏野は机の引き出しを開けた。
記念日という言葉が、なんとなく引っかかっていた。
一昨日投げつけられた箱は未開封のまま、夏野が渡しそびれたプレゼントと一緒に眠っている。
ラッピングをほどき、蓋を開ける。
投げつけられた衝撃で台座からはみ出ていたのは、鈍銀色のシンプルなネクタイピンだった。
よく見ると、ピンの先には、狼の横顔のシルエットが彫り込まれている。その線は少々不格好で、何重にも丁寧に重ねられている。時間をかけて手で彫り込んだのだろう。
箱には、小さなメッセージカードが添えられていた。
【祝・大学入学
&
お付き合い90日目
これからもよろしく】
ハートマークの一つもない、そっけないメッセージカードだった。
「あっ、なっちゃん、もう帰ったの」
ルームメイトの冬輝が、寝室のドアの外から顔をのぞかせた。
「小谷ちゃんって、今フリーになったんなんだよね。ぼくが口説いてもいい?」
「勝手にしろ」
夏野は彼のそばを通り抜け、ソファに放った上着を羽織った。「明日の朝一にでも告白してみるといい。その時まだ彼女がフリーなら」
ドアが閉まる音に、冬輝は肩をすくめた。
「ありゃりゃ、うちの狼さんの狩りのお時間か」
小谷「……私が! 夏野先輩と‼ 付き合うだぁぁ⁉ 一億と二千年経ってもありえないでしょうがっ! 誰よこんな話考えたの!
無理無理無理、鳥肌ヤバい。ほんと勘弁してください。口の悪さがレベチすぎて言霊使いになった夏野先輩だよ⁉ そんなの御し切れるのは冬輝先輩だけだってば!
……さて書いたのは陽葵だな、このキュン死臭、絶対陽葵な気がしてきた!
えっ、夏野先輩……? いつからそこに……?
あっ、これは……いわゆる呪われた原稿で読んだ人の精神を蝕む禁書なんです絶対読まないほうが……
あっ、アっ、ァっ……
あああああ、お先に失礼しますお疲れ様でしたぁぁぁぁ!」




