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第2回 30日の静かな準備



 追放とは、もっとこう、劇的なものかと思っていた。


 たとえば城門の上から「出ていけえ!」と野菜を投げられるとか。

 あるいは鎖につながれて荷馬車に放り込まれるとか。

 少なくとも、もっと人間の尊厳に配慮しない感じの何かを想像していた。


 実際は違った。


「では、こちらが国外追放者用の移送許可証です」

「ずいぶん丁寧ですね」

「近年、苦情が多くて」

「追放に苦情が?」

「待遇面で」


 国境行きの中継所で、窓口係が真顔で言った。


「あとこちらが携行物確認票、こちらが越境先での滞在地申告書、こちらが魔法使用制限誓約書、こちらが――」

「追放される側にしては書類が多すぎませんか」

「帝国は手続国家ですので」

「そこだけ律儀ですね」

「そこ“だけ”律儀です」


 アレクシア・ヴァルネイは、黙って書類を受け取った。


 追放初日から書類仕事。

 ひどい話だった。


 しかも窓口の机はぐらぐらしている。

 羽根ペンの先は妙に割れている。

 朱肉は乾いている。

 国家の端っこに来ると、法の運用も急に雑になるのだとよくわかる。


「確認ですが」


 窓口係が用紙をめくった。


「貴殿は特許審査官資格保有者、魔法陣設計士一級、軍用基礎術式開発者、帝国標準術式起草委員経験あり……」


 彼は一度そこで顔を上げた。


「なんで追放されてるんです?」


「政治です」

「でしょうね」


 返事が早かった。


 たぶんこの窓口は、人生の理不尽を一日に十件くらい見ている。


 国境を越えた先、辺境の自由都市ランツェは、帝都とはまるで空気が違った。


 城壁は低い。

 建物は雑多。

 石造りの家の間に木造の増築が無理やりくっつき、看板はどれも大きく、字も絵もやたら主張が強い。


 《肉!》

 《酒!》

 《寝ろ!》

 《買え!》


 知性の気配が薄い。

 しかし活気はある。


 大道では香辛料をぶちまけた串焼きが煙を上げ、露店の行商人が声を張り上げ、荷車と人と犬が互いに一歩も譲らず往来している。魔導灯の配線は街路の上で少し危なっかしい角度に垂れ下がり、路地の奥では怪しい商人が怪しい薬瓶をさらに怪しく並べていた。


 アレクシアは荷物を抱え、しばらく立ち尽くした。


 帝都の整った街路に慣れた身には、景色がすべて騒音に見える。


「……うるさい」


 小さく呟くと、ちょうど横でパンを売っていた女主人がにやりとした。


「ようこそ自由都市へ、お嬢さん。静かな場所がよけりゃ墓地を案内するよ」


「まだ結構です」


「だったら、慣れるこった。生きてるうちは!」


 豪快な笑い声に背を押されるように、アレクシアは宿を探した。


 選んだのは、国境門から二本入った通りの《灰鷲亭》という宿だった。


 理由は単純だ。

 看板の文字が比較的まっすぐだったからである。


 玄関を開けると、木の床がぎしりと鳴った。中は酒場兼食堂兼宿屋らしく、昼過ぎだというのに大柄な傭兵風の男たちが肉を食べ、商人が帳簿を開き、隅では旅芸人らしき一団が衣装の修繕をしている。


 情報量が多い。

 しかも全員、声がでかい。


「一名」


 アレクシアが言うと、帳場の主人が顔を上げた。

 丸い腹。

 濃い口ひげ。

 目だけが妙に商売人のそれだ。


「泊まりか、長逗留か」

「三十日ほど」

「訳ありだな」

「追放です」

「うちは詮索しない主義だが、自己開示が豪快だな」


 主人は台帳を引き寄せた。


「名前」

「アレクシア・ヴァルネイ」

「職業」

「元特許審査官」

「……元?」

「昨日まで現職でした」

「濃い人生だな」


 羽根ペンを持つ手が一瞬止まる。


「で、今は?」

「権利者です」

「もっと濃かった」


 アレクシアは懐から保証金を出した。

 金貨数枚。

 主人は枚数を数えて、急に態度を少しだけ丁寧にした。


「四階の角部屋だ。日当たりはいい。水差しは朝晩。飯は鐘二つまで。喧嘩は下でやれ」

「上では?」

「床が抜ける」

「明快で助かります」


 部屋は狭かった。


 だが清潔ではある。

 木の机。

 椅子一脚。

 細い寝台。

 窓の外には市場の屋根が見え、その向こうに国境沿いの丘が連なっている。


 アレクシアは部屋へ入るなり、鞄を机に置いた。


 旅装を解くより先に、鍵を二重にかける。

 窓の留め金を確認。

 机の水平を測る。

 椅子の脚のがたつきを紙片で調整。


 それからようやく、荷物の中身を出し始めた。


 書類。

 書類。

 書類。

 そして、書類。


 宿の机が一気に戦場になった。


 革紐で束ねた権利証書ファイルを三列に並べる。

 左から、特許、商標、営業秘密。


 特許は青。

 商標は赤。

 営業秘密は黒。


 色分けは本人しか喜ばないが、本人が喜ぶので重要だ。


「……よし」


 アレクシアは小さく息をついた。


 この回復の速さは、たぶん普通ではない。

 大半の人間は追放された翌日に宿の机で知財ポートフォリオを展開しない。


 しかしアレクシアにとって、書類は家具に近い。

 机に揃って初めて、世界が少しましに見えるのである。


 まずは青い束(特許)。


 基礎火炎陣。

 基礎浮揚陣。

 障壁の多層化。

 魔力圧縮。

 照準補助。

 伝達短文化。

 起動安定化。

 詠唱補助式。


 帝国の標準魔法を支える基礎術式群が、請求項ごとに整理されていく。


 次に赤(商標)。


 起動文言。

 術式名称。

 教育用図版の表示。

 軍用標準教材に使われる象徴句。


 最後に黒(営業秘密)。


 最適化された配列順。

 詠唱短縮のノウハウ。

 失敗率を下げる調整値。

 公開していない運用上のコツ。


「特許で骨格を押さえ、商標で入口を絞り、営業秘密で歩留まりを止める」


 独り言が、静かな部屋に落ちた。


「三層」


 それは自分に言い聞かせる確認でもあった。


 復讐ではない。

 破壊でもない。

 職業上の整理だ。


 どの権利が、どの行為を、どの程度止められるか。

 必要なのは怒りではなく、棚卸しだった。


 窓の外では魚売りが叫んでいた。


「活きがいいよ! 昨日までは!」


 情報の精度に問題がある。


 自由都市は、たぶんそういう場所だ。


 夕方、帳場へ降りると、宿の主人が湯気の立つシチューを出してきた。


「長逗留なら先に言っとくが、うちは変な客が多い」

「見ればわかります」

「お前さんもその一人に数えられてる」

「心外です」

「昨日追放されて、今日書類整理してる女が普通だと思うか?」

「整理しているのは知財ポートフォリオです」

「なんだそりゃ?」

「全財産です。私は権利者ですから」


 主人はパン籠をどんと置いた。


「で、その“権利者”ってやつは何をするんだ」

「無断使用を止めます」

「物騒な言い方だな」

「法的には穏当です」

「この街の人間は“法的には穏当”って前置きが出た瞬間に身構える。そして震え上がる」


 もっともだ、とアレクシアは思った。


 だが、市井の人々でも分かることを、帝国上層は理解しない。



 食後、部屋へ戻り、日めくり暦を机の端へ置く。


 一日目。


 ぴり、と一枚剥がした紙を揃えて重ねる。

 その無駄に几帳面な行為で少し落ち着くあたり、自分でもどうかしているとは思う。


「国家を壊すのではない」


 独り言の続きのように、彼女は呟いた。


「無断使用を止めるだけだ」


 口にしてみると、輪郭がはっきりした。


 その夜半、灰鷲亭の廊下は静かだった。


 階下の酔っ払いの笑い声も遠のき、風が窓を軽く鳴らすだけの時刻。

 アレクシアは机に向かい、青いファイルを一冊開いていた。


 基礎火炎陣・請求項第三項。

 従属項の文言。


 「請求項第一項に記載の多層起動式火炎陣において、補助起動が行われる場合、

 起動第一周期から第三周期にかけて火素供給率を基準値の〇・六五以上〇・八〇以下に制限し、

 かつ外縁刻線による逆流抑制率を安全係数一・二以上に保持することで、

 術者又は術具への熱的負荷集中を回避しつつ、

 主術式への円滑な接続を可能とすることを特徴とする多層起動式火炎陣。」


 読めば読むほど、美しい条文だと思う。


 人間関係はおおむね醜いが、よく書けた請求項は美しい。

 世の中の均衡はだいたいそのへんで取れている。


 廊下が、きし、と鳴った。


 誰かいる。


 宿屋という場所で夜更けの足音は珍しくもない。

 珍しくないが、止まり方が珍しかった。


 アレクシアの部屋の前で、足音が一度止まり、呼吸を殺す気配がある。


 素人だ、と彼女は思った。

 いや、歩法はそこそこだが、宿の床が悪すぎる。

 ここで隠密行動を選ぶ時点で環境調査したみが甘い。


 ノックはない。

 代わりに、扉の下の隙間へ、じわりと赤い光が滲んだ。


 攻性魔法の予備起動。


「……はあ」


 アレクシアは眼鏡を押し上げた。


 せっかく請求項第三項の美しさに浸っていたのに、台無しである。


 次の瞬間、扉板を焼き抜くように細い火線が走った。


 軍用ではないが、殺意は十分。


 しかし火線は、室内へ一歩入ったところで、不意にぴたりと止まった。


 まるで目に見えない壁へ顔面から突っ込んだみたいに、光の筋がぶるりと震え、そのまま宙でほどけて消える。


 廊下の向こうで、低い舌打ち。


「何をした?」


 男の声だった。


 アレクシアは椅子から立ち上がりもしないまま、扉へ向かって言った。


「請求項第三項、従属項侵害」


 沈黙。


 廊下の気配が一瞬、理解を拒んだ。


「……は?」


「その攻撃魔法は《多層起動式火炎陣》請求項一を前提とし、起動安定化の補助処理に第三項を使用しています」


 アレクシアは淡々と続けた。


「差止権を行使しました。無許諾使用ですので、以後その系統は起動しません」

「何を言って――」


 言い終わる前に、再び赤い光が走る。


 今度は二本。

 斜めから扉を裂こうとした火線も、やはり室内へ入った瞬間に色を失い、ふっと消えた。


 まるで、魔法そのものが「あ、権利関係まずい」と気づいて帰っていくみたいな止まり方だった。


「な、なんだこれは!?」


 廊下の男が声を荒らげる。


 かなりよくない傾向である。

 刺客は、冷静さを失った時点でだいたい三流になる。


 アレクシアはようやく椅子を引いた。


「魔法を使う前に、貴方は使用許諾を得ていますか?」


 扉越しに問いかける。


 静かな声音。

 宿の備品を弁償請求する時みたいな温度だ。


「ふざけるな!」

「重要な確認です」

「暗殺に許諾がいるか!」

「魔法の使用に要ります」


 アレクシアは扉の内鍵を外し、細く開いた。


 廊下に立っていたのは、黒装束の男だった。

 顔半分を布で隠し、手には短杖。いかにも刺客らしい格好だが、宿の安っぽい油灯の下に立つと、だいぶ台無しである。暗い服が逆に「怪しい人がいます」と自己申告していた。


「選択肢は二つです」


 アレクシアは言った。


「逃げるか、諦めるか」

「女ひとり相手に!?」


 男は短杖を振り上げた。


 今度は火ではなく、拘束系の風鎖。

 起動でわかる。発動前に術式が編まれる音が、基礎障壁陣の派生系とよく似ている。


 そして案の定、それも途中で失速した。


 それだけでなく、術式の輪が半ばで崩れ、風の縄は男の手元でくしゃりと丸まり、そのまま発動主体へ逆流する。


「え」


 刺客が間抜けな声を出す。


 次の瞬間、自分で放ったはずの風縄にぐるぐる巻きにされて廊下へ転がった。


 これ以上なく見事な自縄自縛である。

 これには宿屋の床も少し喜んだかもしれない。


「……い、今のは?」

「従属項第六項です」

「聞いてない!」

「説明していませんので」


 アレクシアは扉をもう少し開いた。


「拘束系派生術も、起動安定化に私の基礎障壁陣を使っています。無許諾でしたので、差止の結果、術式が保守的に発動主体へ収束しました」

「保守的ってなんだよ!?」

「事故を減らす安全設計です」

「今、事故が起きたが!?」

「権利侵害が優先です」


 騒ぎを聞きつけて、向かいの部屋の扉が半分開いた。

 寝癖だらけの旅商人が顔を出し、廊下の惨状を見て言う。


「なんだ、喧嘩か」

「権利行使です」

「なお悪いな」


 階下からどたどたと足音が上がってきた。

 宿の主人だ。


「何事だ!」


 主人は廊下へ出た瞬間、拘束された刺客と、その横で無表情に立つアレクシアを見比べた。


「……説明しろ」

「無断侵入です」

「そっちはわかる」

「あと無許諾魔法使用です」

「わからん」

「よって差止めました」

「もっとわからん」


 拘束された男が床でもがく。


「助けてくれ!」

「刺客か?」

「違う!」

「じゃあ何だ?」

「……仕事の依頼を受けた者だ」

「刺客だな」


 主人は納得した。


 宿屋の主人というのは、要約が早い。


「うちの宿で人を焼くなって昨日も言っただろうが!」

「初めて来ましたが」

「一般論だ!」


 結局、刺客は宿の物置へ放り込まれた。

 自由都市はそのへんが早い。

 まず縛る。

 話はそれからだ。


 アレクシアは主人に事情聴取を求められたが、出した説明は簡潔だった。


「帝国側の差し金でしょう」

「だろうな」

「ただ、魔法系統を見る限り、正規軍ではありません。外注です」

「外注の暗殺って雑貨みたいに言うな」

「品質に差があります」

「そこを評価する人生、嫌だな……」


 主人は頭を掻いた。


「で、お前さん、今後もこういうの来るのか?」

「来る可能性はあります」

「宿代、少し上げていいか?」

「警備強化分ですか」

「話が早くて助かる」

「ただし、再発防止策を条件に値上げ幅の妥当性を審査します」

「面倒な客だ!」


 翌朝。


 アレクシアは宿の食堂で、硬めのパンと卵料理を前にしながら、刺客の短杖を分解していた。


 主人が眉をひそめる。


「朝飯どきにやる作業じゃないだろ」

「系統確認です」

「飯がまずくなる」

「依頼元の推定は重要です」


 短杖の溝、刻印の癖、魔力導線の配置。

 それらを見れば、どの工房で、どの流派の設計か、おおよそ見当がつく。


「帝都南区の無登録工房ですね」

「そんなことまでわかるのか」

「雑ですから」

「すごい分析なのに言い方がひどい」


 アレクシアは紅茶をひと口飲んだ。


 そのとき、給仕の娘が一通の封書を運んできた。


「ヴァルネイさん宛て。朝いちで、顔を隠した子が置いてったよ」


 封筒は薄い灰色。

 上質ではないが粗末でもない。

 宛名の筆跡は几帳面で、角ばっている。


 見た瞬間、アレクシアの手がほんの少し止まった。


 知っている字だ。


 ミナではない。

 もっと古い。

 庁内で日々、膨大な書類を正確に処理していた人間の文字。


 彼女は封を切った。


 中には短い文面と、さらに折り畳まれた薄紙の束。


『先生』


 その呼び方をする部下は一人しかいない。


『帝都内では公然と動けませんので、伝達を急ぎます。

 軍務省演習局が、三十日目の大演習にて新型攻性魔法の実地投入を予定。

 運用マニュアルの写しを同封します。

 表向きは宮廷魔導士団の新機軸ですが、構成式に見覚えがおありかと。

 こちらには、まだ先生の仕事を覚えている者が残っています。』


 署名はない。


 だが必要なかった。


 文章の癖と、余白の取り方だけでわかる。

 かつてアレクシアの下で働いていた実務官、セルヴィンの文だ。


 感情を表に出さず、しかし文面の端でだけ人間味が漏れる男。

 審査庁にいた頃、判例集を抱えて階段を踏み外し、あまりの重さに判例のほうを先に心配した変人である。


 アレクシアは同封資料を広げた。


 食堂の粗い木机に、新型攻性魔法の構成式が並ぶ。


 起動環。

 圧縮節。

 照準補正。

 拡散防止。

 多段制御。

 補助詠唱。


 見れば見るほど、よく知った骨格だった。


「……なるほど。ひどい」


 呟きが漏れた。


 宿の主人が身を乗り出す。


「何だ?」

「全項目です」

「何がだ?」

「侵害です」

「朝飯どきに言う単語じゃないな」


 アレクシアの指が紙の上を滑る。


「請求項一」

 とん。

「請求項四」

 とん。

「請求項七」

 とん。

「従属項十二」

 とん。

「起動安定化の補助式まで、そのまま」


 とん、とん、とん。


 まるで献立でも確認するみたいな軽さで、帝国軍自慢の新兵器が自分の権利を踏み抜いている事実が列挙されていく。


「この国は、よくもまあ」

 主人が半ば呆れて言った。

「こんだけ人のものを借りて、知らん顔できるな」

「借りてはいません」

「ん?」

「無断利用です」


 アレクシアは顔を上げた。


 怒っている。

 だが、やはり外からはよくわからない怒り方だ。


 瞳の奥が、少しだけ冷える。

 それだけで十分だった。


「これは復讐ではありません」


 食堂のざわめきの中で、彼女は自分に言い聞かせるように言った。


「権利行使です」


 主人は腕を組んだ。


「似たようなもんに聞こえるが」

「法的には大違いです」

「またそれを言った」

「大事な点です」

「お前さん、その“法的には”で殴るの好きだろ」

「便利なので」

「認めるな」


 その日の午後、アレクシアは部屋へこもり、資料の精査を始めた。


 宿の机はもはや宿の机ではない。

 完全に臨時執務室である。


 窓辺に青ファイル。

 中央に同封資料。

 右手にインク壺。

 左手に日めくり暦。


 三十日のうち、もうかなり過ぎている。

 大演習まで残り七日。


 日めくりの紙を数え直し、机の角へぴたりと揃える。


 気持ち悪いほど整っていく景色に、頭の中も整っていく。


 請求項の対応表を作る。

 侵害箇所を赤で示す。

 運用マニュアルのどのページにどの術式が記載されているか索引を振る。


 やるべきことは明白だった。


 感傷を挟む余地がないほど、実務が多い。


「先生の仕事を覚えている者が残っています、か」


 セルヴィンの文を、アレクシアはもう一度見た。


 帝国内部にまだ実務派がいる。

 法と手続を軽んじない人間は、完全には消えていない。


 それは朗報だった。


 希望と呼ぶには乾いている。

 だが、仕事を進めるには十分な温度だ。



 夕刻、食堂へ降りると、主人が新しい張り紙を壁に打ちつけていた。


 《当宿内における無許可魔法行使を禁ず》

 《違反者は宿主または四階角部屋の長逗留客が対処する》


「後半いらなくないですか」

「抑止力だ」

「私を何だと思っているんです?」

「法的に怖い女」

「評価が雑です」

「刺客ひとり簀巻きにした時点でだいたい固まる」


 給仕の娘が横から言う。


「昨日のあの人、泣きながら“請求項が……”って言ってたよ」

「教育効果がありますね」

「あるのか、それ……」


 アレクシアは席についた。


 スープの湯気の向こうで、街の喧騒が続いている。

 自由都市は相変わらずうるさい。

 誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが皿を落とし、誰かがまた適当な値切り交渉をしている。


 帝都のような整然さはない。

 だがそのぶん、嘘も雑だ。


 ここでは、何かが止まればすぐ皆が見る。

 何かが壊れればすぐ皆が騒ぐ。


 そういう場所は嫌いではないかもしれない、とアレクシアは少しだけ思った。


 ただし騒音は除く。


 夜、机の上にすべてを並べ終えたとき、部屋はもう書類の匂いで満ちていた。


 特許。

 商標。

 営業秘密。


 三層の弾薬庫。


 中央には帝国軍大演習用、新型攻性魔法運用マニュアルの写し。

 その全項目に、赤い付箋が貼られている。


 侵害。

 侵害。

 侵害。


 見事なくらい、全部だった。


 アレクシアは椅子に深く座り、眼鏡を外して目元を押さえた。

 疲労はある。

 屈辱もまだ燻っている。

 追放された怒りが消えたわけではない。


 だが、その怒りはようやく形を得た。


 曖昧な感情ではない。

 差止対象の一覧として。


「残り七日」


 部屋に、静かな声が落ちる。


 窓の外では、夜の市場がまだ騒いでいた。

 遠くで誰かが歌い、誰かが値段で揉め、どこかの犬が吠えている。


 その全部を背にして、アレクシアは新しい紙を机に置いた。


 表題欄はまだ空白。

 だが、そこへ何を書くべきかは、もう決まっている。


 帝国軍の全魔法運用マニュアルの写しは、今、彼女の手元に揃っていた。

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