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第1回 審査官、追放さる


 帝国特許審査庁の朝は、だいたい朱肉の匂いで始まる。


 紙の匂いではない。インクでもない。もっとこう、権利が発動する直前の、嫌な緊張を吸い込んだような匂いだ。


 特に第一審査局・攻性魔法課はひどい。


 廊下を歩けば、棚、棚、棚。どの棚にも分厚い権利証書ファイルが詰まり、背表紙には几帳面な文字でこう書かれている。


 《基礎火炎陣・請求項一〜十八》

 《基礎浮揚術式・従属項整理済》

 《軍用拡張魔法陣・包括実施許諾契約》


 いかにも重そうで、実際に重い。


 新任の事務官が初日に一冊持ち上げて腰をやり、以来この課では「軽率に権利へ触れるな」が物理的な意味でも教訓になっていた。


 そんな棚の列の奥、窓際の机で、アレクシア・ヴァルネイは今日も静かに印章を拭いていた。


 銀縁眼鏡。

 黒髪を一糸乱れずまとめた後頭部。

 無駄のない所作。

 書類を一枚めくるたび、紙の角がぴたりと揃う。


 部下たちは知っている。


 課長が印章を拭いている日は、誰かが泣く。


「課長」


 おずおずと声をかけたのは、若い補佐官のミナだった。まだ配属三か月。書類の山を見るたび、なぜ魔法国家の役所がこんなにも紙で動いているのかと目を丸くする年頃である。


「本日の口頭審理の件ですが……宮廷魔導士長、かなりお怒りのようで」


「怒っているからといって、請求項の文言が書き換わることはありません」


「ですよね」


「書き換わったらその場で別件になります」


「ですよね……」


 ミナは苦笑いしつつ、机上の一冊に視線を落とした。


 ひときわ分厚い革表紙。角は金具で補強され、見返しには厳重な封蝋。そこに押された印は、帝国軍需局のものだ。


「それ、例の包括ライセンス契約書ですか」


「ええ」


「何度見ても、課長個人の印があるの、変な感じです」


「変ではありません。契約主体が私個人だからです」


 さらりと返され、ミナは「あ、はい」とうなずいてから、三秒ほど遅れて顔を上げた。


「……はい?」


 アレクシアはようやく手を止めた。眼鏡の奥の目が、部下向けの説明用に少しだけ温度を上げる。


「職務発明の個人帰属特例条項。昨日、教えました」


「昨日は『国家魔導技術者が、職務上の研究により成立させた発明であっても、基礎術式に関しては審査官資格保有者が自己名義で原始取得しうる』まで聞いたところで、資料が三百二十七頁ありまして」


「短くまとめると」


「短く……」


「私が発明した基礎魔法陣は、法により私のものです」


「国家のものじゃなく?」


「法により」


「課長のもの」


「そうです」


「なんでそんな条項が」


「昔、皇帝陛下が『基礎術式の開発は国家より変人個人の執念から生まれやすい』と判断されたからです」


「すごく正しいのに、文言にするとひどいですね」


「歴史は時々、率直です」


 ミナは思わず机上のファイル群を見た。


 そこには権利証書の束。

 差止命令の雛形。

 帝国軍との包括ライセンス契約書。

 そして、赤い朱肉。


 たしかに、課長の机は魔導士の机ではなかった。


 戦場の砲台だった。


 ただし弾はすべて書面である。


「では確認します」


 アレクシアが立ち上がる。


「本日の争点は」


「宮廷魔導士長が発表した新型広域殲滅術式《暁光陣》が、既存特許《多層起動式火炎陣》請求項一、四、七および従属項十二に抵触するかどうか」


「抗弁は」


「国家安全保障上の必要性、慣習上の宮廷特権、あと……『天才に既存権利は適用されない』」


「最後のは?」


「先方準備書面の原文ママです」


 アレクシアは無言で天井を見た。


 帝国の未来が心配になるとき、人はだいたい上を向く。


「課長」


「何ですか」


「今日も泣かせますか」


「法が泣かせます。私は印を押すだけです」


 そう言って、彼女は印章をケースへしまった。


 その静かな動作に、課内の全員が一斉に背筋を伸ばした。


 あ、誰か死ぬな、の空気である。

 正確には社会的に。


 口頭審理は、帝都中央法廷の第三大審問室で行われた。


 重厚な石造り。

 高い天井。

 傍聴席には宮廷魔導士団の関係者、軍務省の職員、暇そうな貴族、そして面白いものが見られそうだと嗅ぎつけた新聞記者たちがひしめいている。


 空気がぴりついているのは、今日の被請求人が宮廷魔導士長ベルンハルト・ゼイムだからだ。


 帝国最強の魔導士。

 七戦無敗。

 戦場の英雄。

 およそ法律文書とは縁遠そうな、豪奢な深紅の法衣をまとった男。


 法衣の胸元には金糸で炎の紋章。

 肩章はやたら大きい。

 本人は堂々としているが、どう見ても法廷より舞台のほうが似合う。


「審査官風情が」


 着席するなり、ベルンハルトは言った。


「私の術式に差止をかけるとは、身の程を知らんな」


 隣席の書記官が咳払いをして「開廷前ですのでお静かに」とたしなめたが、彼は鼻で笑った。


「静かにしてほしいのはそちらだ。国家を守る新魔法だぞ? 紙の束が火を吹くのか」


「吹くことはあります」


 アレクシアは即答した。


「だいたい通知書の形で」


 傍聴席の一角で、誰かがぶっと吹き出した。


 ベルンハルトのこめかみに青筋が浮く。


「減らず口を」


「事実を申し上げています」


「貴様の理屈は机上だ。私の魔法は実戦の中で完成した。現場の価値を知らぬ者に裁かれる筋合いはない」


「現場で完成したからといって、先行権利を踏み潰していい理由にはなりません」


「国家の危急に個人財産を優先するのか!」


「国家が危急なら、なおさら契約して使うべきです。だから包括ライセンス制度があるのです」


 淡々。


 本当に淡々。


 怒鳴り声を浴びても、アレクシアの声は同じ温度のままだった。


 そのせいで、かえってベルンハルトの声だけが空回りして聞こえる。


 やがて裁判長が入廷し、全員が起立した。


 審理が始まる。


 まずはベルンハルト側の主張。

 国家安全保障。

 宮廷魔導士団の慣習。

 戦時における柔軟運用の必要性。

 そして、魔法とは本来、才ある者が天啓により組み上げる芸術であり、下級官吏の登録簿で縛るべきではない、という妙に詩的な演説。


 傍聴席の貴族たちは、うんうんとわかったような顔をした。


 たぶん半分もわかっていない。


 わかっているのは、言い方が格好いいということだけである。


 対するアレクシアは、席に着いたまま一枚目の書類を開いた。


「請求人側、意見を」


 裁判長に促され、彼女は立ち上がる。


「被請求人ベルンハルト・ゼイム閣下の新術式《暁光陣》につき、請求人は特許権侵害に基づく差止を求めます。理由は明白です」


 彼女は紙をめくった。


 ぴたり。

 その音だけがやけに響く。


「《暁光陣》の第一起動式は、請求人保有特許《多層起動式火炎陣》請求項一『二重環状基礎陣による火素保持』と同一」


 次の紙。


「第二制御節は請求項四『外縁部における魔力逃散防止刻線』と一致」


 また次。


「照準補正に用いる詠唱補助式は請求項七、およびその従属項十二『対象追尾時の熱位相同期処理』をそのまま含む」


 ベルンハルトの眉が動いた。


 アレクシアはそこで初めて、相手を正面から見た。


「結論として」


 静かな声だった。


「貴殿の魔法は既存請求項の従属発明に過ぎません」


 法廷がざわめいた。


 従属発明。


 つまり、新しく見えても、中身は既存技術にぶら下がった改良版にすぎないという宣告だ。


 英雄に向かって「お前、それ既存技術の盛り合わせだ」と言っているのとほぼ同じである。


 ベルンハルトが机を叩く。


「侮辱だ!」


「評価です」


「私が積み上げた独自性を!」


「独自性があるなら、どの請求項にも抵触しない形で説明できます」


「できる!」


「ではどうぞ。二重環状基礎陣を使わずに火素保持を成立させる理論を」


「それは……」


「外縁刻線なしで魔力逃散率を三%以下に抑える方法を」


「慣性保持の工夫で――」


「その工夫は請求項四の明細書五頁目に既出です」


「詠唱補助式は古来より――」


「古来より使われているなら、なおさら新術式の独自部分ではありません」


 ぴしゃり。

 ぴしゃり。

 ぴしゃり。


 言葉が印章のように押されていく。


 ベルンハルトの顔色が、深紅からさらに危険な色へ変わっていく。


「閣下」


 アレクシアはとどめのように言った。


「発明とは、声量では成立しません」


 傍聴席の新聞記者たちの羽ペンが一斉に走った。


 書記官まで少し顔を伏せている。

 たぶん笑いをこらえている。


 ベルンハルトはなおも何か言い返そうとしたが、差し出された比較図面を見て動きを止めた。


 そこには《暁光陣》と既存特許の構成要素が色分けされ、どの部分がどの請求項に対応するかが、親切すぎるほど明瞭に示されていた。


 赤。

 青。

 黄。

 注釈。

 欄外参照。


 ひどい。


 あまりにもひどい。


 戦場の英雄を、事務処理で解体する図だった。


「……以上です」


 アレクシアが言い終えるころには、法廷の空気はほぼ決していた。


 裁判長も、補佐判事も、書記官も、みな同じ顔をしている。


 これ、勝負ついたな、という顔だ。


 短い評議ののち、裁判長が判決を言い渡す。


「被請求人による術式《暁光陣》の実施は、請求人保有特許権を侵害するものと認める。よって差止請求を認容する」


 どよめき。


 続いて命じられたのは、該当魔法の即時使用停止、関連資料の提出、無断実施に対する損害算定手続の開始。


 宮廷魔導士長ベルンハルト・ゼイム、完敗。


 帝国最強の魔導士は、その日、書面に負けた。


 退廷の際、ベルンハルトは肩を怒らせたままアレクシアの前に立った。


 近い。

 威圧感がある。

 普通の役人なら半歩下がる距離だ。


 だがアレクシアは書類の角を揃えていた。


「覚えていろ」


「判決文なら控えをお送りします」


「貴様は自分が何を敵に回したか理解していない」


「権利侵害者です」


「宮廷だぞ!」


「帝国法の外に宮廷はありません」


 ベルンハルトは絶句し、それから踵を返して去った。


 法衣の裾がひるがえり、取り巻きたちが慌てて追う。


 その背中を見送りながら、ミナが青い顔で寄ってきた。


「課長」


「何ですか」


「今の、絶対よくない去り際でした」


「だいたい負けた人はああです」


「そういう一般論ではなく」


「ええ、政治ですね」


「ですよね!」


 アレクシアは判決書の控えを封筒へ収めた。


 笑わない。

 慌てない。

 ただ事務作業のように淡々としている。


 その姿が、かえってミナには怖かった。


「戻りましょう。午後の査定会があります」


「今日まだ働くんですか!?」


「勝っても書類は減りません」


「世知辛い!」


 しかし、その日の午後。

 査定会が始まることはなかった。


 審査庁正面玄関に、黒塗りの官用馬車が三台並んだからだ。


 見ただけで胃が痛くなる種類の馬車である。


 窓には大臣府の紋章。

 扉の金具は磨き上げられ。

 護衛の近衛騎士は無駄に姿勢がいい。


 役所の人間ならわかる。


 あれは面倒事が自分の足で歩いてきた形だ。


 第一審査局の執務室は、数分後には妙な静けさに包まれていた。


 局員たちは机に向かっているふりをしながら、耳だけを全力でそばだてている。

 ミナはもう露骨に青い。

 湯呑みを持つ手が震えている。

 ひとりだけ、アレクシアは平常運転だった。


「アレクシア・ヴァルネイ」


 応接机の向こうから告げたのは、内政大臣グラハム・オルデンだった。


 恰幅のいい男だ。

 指には宝石の指輪。

 額には汗。

 声だけはやけに威厳がある。


「本日付で、貴官を帝国特許審査官の任より解く」


 部屋の空気が凍る。


 ミナが小さく息を呑んだ。


 グラハムは書面を机に置いた。

 その文言は飾り立てられているが、要するにこうだ。


 国家への反逆的妨害。

 軍務遂行の重大阻害。

 宮廷魔導機能に対する不当な停止行為。

 よって免職、爵位剥奪、国外追放。


 ひどい話だった。


 法廷で正しく勝った者に対する処分としては、あまりにも露骨すぎる。

 だが露骨であることと、実際にやることの間に壁はない。

 政治とはそういうものだ。


「異議はあるかね」


 大臣が言う。


「正式な上訴手続は認められん。これは国家意思だ」


 ミナが机の下で拳を握りしめていた。

 ほかの局員たちも顔を伏せている。


 みな怒っている。

 だが、誰も口を開けない。


 相手は大臣で、背後には宮廷と軍と貴族がいる。


 ここで声を上げても、次に飛ぶ首が増えるだけだ。


 そんな中で、アレクシアは書面を一読し、丁寧に机へ戻した。


「承知しました」


 あまりにあっさりしていて、むしろ大臣のほうが一瞬たじろいだ。


「……理解が早くて助かる」


「ただし」


 アレクシアは続けた。


「契約解除の猶予期間は三十日です」


 グラハムの目が細くなる。


「何の話だ」


「帝国軍需局と私の間で締結されている包括ライセンス契約の話です」


「……」


「基礎魔法陣群の実施許諾について、契約第十二条第二項により、一方当事者の重大な信頼関係破壊があった場合、私は解除権を有します。発効は通知より三十日後」


 部屋が、しん、とした。


 今度は耳をそばだてていた局員たちまで動きを止めた。


 グラハムだけが一拍遅れて口を開く。


「待て。基礎魔法陣群とは、まさか」


「火炎、浮揚、障壁、伝達、照準補助、魔力圧縮、起動安定化ほか」


「……帝国軍の標準術式ではないか」


「ですので、包括ライセンスです」


 アレクシアは少しも声を荒らげない。


 説明口調のまま、ただ事実だけを並べる。


「私が免職・追放されること自体は受け入れます。ですが、契約は契約です。私個人と帝国との間の民事上の合意ですので」


「国家命令で無効化できる!」


「その場合、国庫による収用手続と相当対価の算定が必要です。なお、現時点で予算措置は確認しておりません」


 グラハムの額の汗が増えた。


 横に控えていた秘書官が小さく青ざめている。

 どうやら、そこまで聞いていなかったらしい。


「そんな話は聞いておらんぞ」


「お聞きになる機会がなかったのでしょう」


「貴様、国家を脅す気か」


「いいえ」


 アレクシアは首を横に振った。


「権利者として、契約に従うだけです」


 ミナはその瞬間、理解した。


 課長は怒っている。


 ものすごく怒っている。


 だが怒鳴らない。

 机を叩かない。

 泣かない。


 ただ法律を使う。


 それがこの人の怒り方なのだ。


 グラハムは何か言い返そうとして、言葉を失った。相手が感情で喚いてくれれば、叩き潰しようもある。だが、目の前の女は書類の条文どおりにしか動かない。


 そして、そういう相手はだいたい一番厄介だ。


「……本日中に庁舎を退去しろ」


 大臣は最終的にそれだけ言った。


「国境外への移送は明朝行う。私物の持ち出しは必要最小限に限る」


「承知しました」


「監視をつける」


「ご随意に」


「最後まで可愛げのない女だ」


「そういう評価は人事記録に残りますか」


「残さん!」


「では実害はありません」


 応接机の向こうで、秘書官が思いきりむせた。


 笑ったのか、気管に入ったのか、たぶん両方である。


 大臣一行が去ったあと、部屋には長い沈黙が落ちた。


 誰もすぐには動けなかった。


 窓の外では、帝都の鐘が夕刻を告げている。

 書類棚はいつも通り並び。

 朱肉は机にあり。

 印章はケースの中。


 何も変わらない景色なのに、明日にはもう自分の席ではない。


「課長……」


 最初に声を出したのはミナだった。


「これ、ひどすぎます」


「ええ」


「私、議事録に異議を書きます」


「やめなさい」


「でも!」


「あなたが残ってください」


 その一言で、ミナは口をつぐんだ。


 アレクシアは机の引き出しを開け、必要書類を整え始める。

 異動整理票。

 保有印章管理簿。

 未処理案件引継一覧。

 追放される人間の手つきとは思えないほど、仕事がきれいだった。


「課長は」


 ミナの声が震える。


「課長は、何も悔しくないんですか」


「悔しいですよ」


 意外なほどあっさり、アレクシアは答えた。


「とても」


「じゃあ」


「ですが、泣いても契約条項は増えません」


 そこで初めて、彼女は少しだけ目を伏せた。


「侮辱された怒りはあります。職務を、法を、手続を。全部、軽く見られた」


 静かな声だった。


 けれど、その静けさの奥にあるものを、部屋にいる全員が感じ取った。


 冷えた刃のような怒り。

 赤く煮えたぎるのではなく、透き通るほど冷たい怒りだ。


「だから」


 彼女は最後の書類を揃えた。


「記録を残します」


 日が沈むころ、執務室の机はほとんど空になっていた。


 私物は少ない。

 参考書数冊。

 替えのペン。

 眼鏡拭き。

 そして、封をした一通の書面。


 それだけを持ち、アレクシアは机の前に立った。


 部下たちが立ち上がる。

 誰もが何か言いたそうで、でも適切な言葉が見つからない。


 こういうとき、気の利いた別れの文句というのはたいてい存在しない。


「課長」


 ミナが涙目で言う。


「また、会えますか」


「書類が残る限り、どこかで」


「もっとこう、情緒のあること言ってください」


「難しい注文ですね」


 わずかに。

 本当にわずかに。

 アレクシアの口元が緩んだ。


 それから彼女は、机の中央に一通の書面を置いた。


 宛先は帝国軍需局。

 題名は簡潔で、余計な飾りがない。


 《包括実施許諾契約 解除通知書》


 下部には、鮮やかな朱肉で押された印章。


 赤が、白い紙の上で静かに沈んでいる。


「課長、それ……」


「置いていきます」


「こんなところに?」


「見つかるべき人には見つかります」


 彼女は机の角を最後に一度だけ整えた。

 まるでそこがまだ自分の持ち場であるように。


「三十日です」


 誰に言うでもなく、アレクシアは呟いた。


「それだけあれば、十分でしょう」


 何に対して十分なのか、ミナには聞けなかった。


 聞かなくてもわかったからだ。


 それは泣くための時間ではない。


 考えるための時間だ。

 整えるための時間だ。

 法が届く距離を測るための時間だ。


 廊下に出ると、監視役の近衛騎士が二人、ぎこちなく敬礼した。

 追放される相手に敬礼するのも妙な話だが、帝都中の役人と軍人の多くは知っている。


 この女が、どれだけ多くの魔法を支えてきたかを。


「荷物はこちらで」


 騎士の一人が申し出る。


「結構です。軽いので」


 そう言って持ち上げた鞄は、本当に軽かった。


 権利証書の束に比べれば、羽のようなものだ。


 庁舎の玄関を出ると、夕暮れの帝都はまだ賑やかだった。

 屋台から香辛料の匂い。

 遠くで鳴る馬車の車輪。

 魔導灯が一つ、また一つと灯る。


 そのどれもが、彼女の設計した基礎魔法の上に立っている。


 けれど今、それを知っている者は少ない。


 そして、知っていても深く考えたことのある者はもっと少ない。


 アレクシアは振り返らなかった。


 背後では、帝国特許審査庁の石壁が夕日に赤く染まっている。

 朱肉の赤に似ていた。


 合法的な色だ、と彼女は思う。


 血のようでいて、血ではない。

 誰も傷つけず、だが確実に何かを止める色。


 官用馬車へ乗り込む直前、庁舎の上階で一枚の紙を見つけた秘書官の悲鳴が、かすかに聞こえた。


 遅い。


 もう印は押されている。


 解除通知書の日付は、きっかり三十日後を指していた。


 帝国軍大演習の、前日である。

次は本日4/15、午後4時過ぎに公開

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