奈々子の孤独感
仕事を終えたロッカー室。
蛍光灯の白い光の下で、制服から私服に着替える静かな時間。
その空気を破ったのは、ほんのひと言だった。
「森下さん、今日もお疲れさまでした」
奈々子の言葉に、森下はビクリと肩を揺らし、突然、両手で耳をふさいだ。
「……いやっ、聞きたくないっ!」
その声は、明らかに大げさだった。小さく震える体。俯いたまま、まるで何かから自分を守るように。
「え……? ちょっと、どうしたんですか?」
奈々子は戸惑って、一歩森下に近づこうとした。けれどそのとき、
「もう、やめてよ!」
「奈々子さん、やりすぎだよ……!」
奥にいた恵美と春子が、慌てた様子で間に割って入ってきた。
「……え? ちょっと待って。私、ただ挨拶しただけで――」
奈々子の言葉を、春子が遮った。
「森下さん、怖くて夜も眠れないって……言ってたんだよ」
「は……?」
心臓が、ズキンと鳴った。
怖い? 私が?
「……そんな、どうして?」
言いかけた奈々子の前で、森下がさらに小さくしゃがみ込み、わざとらしく唇を噛んで震え始めた。
その姿に、恵美がそっと手を添える。
「行こっか」
春子が促すように言うと、3人は連れ立ってロッカー室を出ていった。
バタン、とドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
置き去りにされた奈々子は、その場に立ち尽くしたまま、目の前の現実が信じられなかった。
ただの挨拶が、どうしてこんなことに?
どうして、私が悪者みたいになってるの?
残されたロッカー室の静けさが、奈々子の中にぽっかりと穴を開けていった。
次の日。
コールセンターのフロアに入ると、空気が少しだけひんやりしていた。
けれど、エアコンのせいではなかった。
「……おはようございます」
奈々子が笑顔で挨拶しても、返ってくるのは曖昧な頷きか、目をそらすような視線。
(あれ?)
朝のミーティングでも、資料を渡そうと手を伸ばせば、まるで避けるように受け取られたり、「あ、いいです、自分でやるんで」と言われたり。
(なんで……?)
ただでさえ忙しい時間帯に、理不尽な扱いがじわりじわりと胸に染みてくる。
そんな奈々子の視線の先では――
「森下さん、これ、どうしたらいいですか?」
「さっきの電話、森下さんの神対応、マジで勉強になります!」
「今日もお疲れじゃないですか?大丈夫ですか?」
後輩たちが、まるで女王蜂に群がるように、森下にすり寄っていた。
森下はどこか誇らしげに、薄く笑みを浮かべている。
(なにこれ……)
昨日まで、自分に「すごいです!」と笑いかけていた子たちが、今日はまるで別人のように、視線すら合わせてこない。
「……なんで、こんな態度とられなきゃいけないの……」
小さくつぶやいた声は、忙しないキーボード音にかき消された。
奈々子の胸の奥に、ゆっくりと、冷たい石のようなものが沈んでいった。
どうして――
どうして、あの森下さんが、あんなに持ち上げられてるの?
電話応対も遅いし、要領も悪い。
新人の頃からずっと、ミスをしても誰かがフォローしてきた。
それを「ありがとうございますぅ」なんて、舌足らずな声で笑って済ませていた人。
その森下が、今――
まるで“相談係”のように囲まれている。
「森下さん、休憩ちゃんと取ってくださいね、無理しないでください」
「なんかあったら、言ってくださいね、私たちついてますから!」
その輪の中心で、森下はうっすら涙ぐんだような顔で、うんうんと頷いている。
あの目元……昨日、耳をふさいで震えてた時と、まったく同じ顔だ。
演技だ。きっと、あれは。
でも、誰も気づかない。誰も疑わない。
疑われているのは――私の方。
「昨日、奈々子さんにあんなこと言われて、夜眠れなかったって……ほんと大丈夫ですか?」
恵美の声が聞こえる。
春子もうなずきながら、森下の肩をそっとさすっていた。
(やめてよ……どうして、私が……)
悔しさが喉元にせり上がる。けど、言い返したらもっと“悪者”になる。
そんな空気が、職場の隅々まで満ちていた。
(仕事ができるかどうかじゃないんだ……“被害者”の顔をした人が、一番強いんだ)
気づいてしまった。でも、どうにもならない。
いつもは自分に頼っていた後輩も、視線すら合わせてくれない。
まるで――
見えない檻の中に閉じ込められたみたいだった。
ただ声をかけただけ。それがどうして、こんなことになるのか。
理不尽な空気の中で、それでも奈々子は“わからない”まま立ち尽くします。
笑っているのは誰か――泣いているのは、本当に誰なのか。




