笑顔のままで、涙がこぼれた
その日も、会社ではどこか浮いたような感覚だった。
「お疲れさまです」と声をかけても、返事は小さく、誰かの視線が合うたびに逸らされる。
思い過ごしかもしれない。そう思いたかった。
けれど、昼休みに入ったとき、給湯室の奥から聞こえた声。
「……なんか最近、空気読めてないよね」
名前こそ出ていなかったけれど、誰のことを言っているのか、奈々子にはわかった。
冷たい空気の中で仕事を終え、ロッカーで荷物をまとめると、足取りは自然と重くなる。
あたたかい言葉を、ひとつでいいから欲しかった。
でも、それはどこにもなかった。
保育園の門をくぐると、小さな背中が駆け寄ってくる。
「ママ! おかえりー!」
弾けるような咲の笑顔に、奈々子の心がほぐれていく。
「咲、ただいま」
ぎゅっと抱きしめると、咲が小さな手で奈々子のほっぺを触った。
「ママ、なんかさみしい顔してる」
そのひとことに、奈々子はハッとした。
「ううん、大丈夫。ちょっとだけ疲れただけ」
そう言いながら、笑顔をつくる。
咲の前では、泣いちゃだめだ。そう自分に言い聞かせる。
帰り道。
オレンジ色の光が道を照らす中、手をつないで歩く二人。
「ねえ、ママ。いっしょにうたおうよ」
咲が口ずさみ始めたのは、保育園で習った「夕焼け小焼け」。
奈々子も一緒に歌い出す。
「夕焼け小焼けで日が暮れて……」
二人の声が夕空に溶けていく。
ふと、風が頬をなでたとき、奈々子の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
何の前触れもなく、ただ、自然に。
咲は気づかず、歌を楽しげに続けている。
奈々子はその横顔を見つめながら、小さく微笑んだ。
この子がいてくれるから、大丈夫。
たとえ職場でどんなことがあっても、自分には帰る場所がある。
守るべき、小さな命がある――そう思うだけで、ほんの少しだけ、胸の中の曇りが晴れていくようだった。
それからというもの、奈々子のまわりの空気は、ますます冷たさを増していった。
挨拶をしても返ってこない。
話しかけられることもなく、まるで「いない人」のような扱い。
ランチの輪にも加われず、書類を渡すときでさえ、そっけない手の動きに心がざらつく。
心当たりがないわけじゃない。
仕事で気づかないうちに迷惑をかけてしまったこともあるかもしれない。
でも、それを誰も教えてくれないまま、静かに距離だけができていく――それが何よりもつらかった。
「……もう、辞めようかな」
そんな言葉が、ある晩、ふと口をついて出た。
だけど、ただ逃げるように辞めるのは、何か違う気がした。
何が原因だったのか、知りたい。
このままじゃ、きっと自分を責めつづけてしまう。
――もう少しだけ、ここにいてみよう。
それが奈々子の出した、静かな決意だった。
翌朝、
咲に「いってきます」とキスをして、春の匂いが混じる朝の空気を吸い込んだ。
職場の空気は相変わらずよそよそしい。
でも、奈々子の中には確かに、昨日までと違う小さな灯がともっていた。
「おはようございます」
返事がなくても、それでも、奈々子は笑顔で言った。
人間関係の溝は、気づかぬうちに生まれ、深くなることがあります。
でも、奈々子のように「何があったのか」を見つめることで、そこに風が通る日が来るかもしれません。
辞めてもいい。でも、その前にもう少しだけ、ほんの少しだけ、自分のために立ち止まってみる――
その姿が、とても静かで、でも確かな前向きさに満ちているように思えました




