静かな違和感
朝のロッカー室。
「……森下さん、今日来てないね?」
春子がロッカーの扉を開けながら言うと、恵美がスマホを見せた。
「LINEきてたよ。午前休とって病院行くって」
「えっ、そうなんだ。大丈夫かな…」
奈々子が心配そうに口を挟む。
「最近ちょっと疲れてる感じあったもんね」
「うん。午後から来るみたい」
いつものように会話を終え、3人はそれぞれの業務へ向かった。
午後。
森下が静かに出勤してきた。
どこか伏し目がちで、足取りも重たい。ロッカーで着替えを済ませると、迷いなくまっすぐリーダーのデスクへと向かった。
リーダーは書類をめくる手を止め、少し驚いたように顔を上げる。
「……どうしたの?なにか用事?」
「いえ、少しだけお話よろしいですか」
「うん、いいよ」
森下は椅子の横に立ち、声を落として話し始めた。
「今朝、病院に行ってきました。身体の不調というより……ストレスが原因かもしれないって言われて」
「そう…大丈夫だった?」
「はい。でも……原因、自分でもなんとなくわかってて……その、橋田さんのことです」
「橋田さんっ?」
森下は小さくうなずき、少し間を置いて、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「私……ずっと前から、橋田さんの言葉がきつく感じてて。何かあるたびに、“また間違ってますよ”とか、“確認ちゃんとしました?”って、きつく言われるんですけど……それが、毎日になると、けっこうしんどくて……夜眠れなくて…最近体調が悪いんです。体型のこととか、夫のこととか、家庭のこととか、いろいろと非難というかバカにするというか…悪口のようなものを言われまして…」
上司の顔に、少し陰が差す。
「そうだったんだね……」
「周りには明るくて感じのいい人だから、私が気にしすぎてるのかなって思ってました。でも、誰かの前では褒めてくれても、陰で私のこと“ほんとに覚えない人ですよね”って言ってたって聞いたときに……もう無理かもしれないって思ってしまって」
それが事実かどうかはわからない。
でも、森下はそう語った。
「今日、午前中病院に行って、先生に“無理しないで”って言われて……私、ようやく少し、自分を守りたくなったというか……」
「……うん、話してくれてありがとう。無理しないでね。なにかあれば、また教えて」
「ありがとうございます」
森下は小さく頭を下げて席に戻っていった。
—
そのやりとりを、遠くから見ていた春子と恵美。
特に耳をすましたわけではないが、話の内容が漏れ聞こえた。森下の真剣な表情やリーダーのうなずき方で、ただ事ではないことは感じ取れた。
「……なんか、奈々子さんのこと話してたね」
「うん。相当つらかったのかも」
恵美が目を伏せながらつぶやく。
春子も、少し迷うように言葉を続けた。
「……私たちには奈々子さん、すごく優しいけど……森下さんには、違ったんだね」
「奈々子さんって、裏表のある人なんだ…」
「実は意地悪な人だったんだね」
「森下さんを守ってあげないとだね」
ふたりの間に、静かに頷きが交わされた。
そして、奈々子の印象は――気づかぬうちに、揺れていた。
語られた“事実”がすべてではなくても、人は目の前の感情に揺さぶられる。
森下の言葉に、春子と恵美は“理解者”であろうとした。
その優しさが、知らぬ間に、奈々子の立ち位置を曇らせていく――そんな午後の静かな波紋。




