涙の理由
昼休み。
休憩室のテーブルでは、いつもの三人――春子、恵美、そして奈々子が、それぞれの弁当を広げていた。
「これ、母が送ってきたの。漬物だけど、よかったら」
春子が小さなタッパーを開けると、奈々子がぱっと目を丸くした。
「えっ、ありがとう。おいしそう!」
「うん、ほんといいお母さんだね〜」と恵美も笑う。
穏やかな昼のひととき。
やりとりはいつもと変わらない、はずだった。
でも――奈々子は、ふと感じていた。
なにかが、少しだけ違う。
春子の声がどこか一歩引いて聞こえる。恵美の笑顔も、どこか「用意されたもの」のような感じがした。
自分の気のせいだろうか。そう思って、笑ってみせる。
けれど、胸の奥に残るざらついた感覚は、消えなかった。
笑顔で箸を動かしながらも、奈々子の心は少しずつ、他の二人の反応を探るようになっていた。
「奈々ちゃん、これ、食べてみる?」
恵美が差し出したのは、自家製の煮物。
「うん、ありがとう!」
奈々子は笑って受け取りながら、その“奈々ちゃん”の響きにも、どこかぎこちなさを感じてしまう。
(…考えすぎ、だよね)
そう思って自分に言い聞かせる。
でも、その言葉が心に落ちきる前に、目の端にふと、ある視線を感じた。
――森下真美。
小さな紙コップにコーヒーを注ぎながら、ちらりとこちらを見ていた。
奈々子は何も気づかないふりをした。
食後のテーブルに静けさが流れ、奈々子が麦茶を手にしたとき、ふっと小さく息が漏れた。
疲れたわけじゃない。ただ、空気に馴染めなかっただけ。
「橋田さん、大丈夫? 体調でも…?」
森下が、すっと間を縫うように声をかけてきた。
「えっ?あ、いえ。全然なんでもないですよ」
奈々子はすぐに笑ってみせた。
「そう…」
森下は短く頷き、微笑を浮かべたまま席に戻る。
森下の背中は静かに、落ち着いていて、どこか整いすぎているようにも見えた。
奈々子は、その背中と、目の前の静けさの間に、言葉にできない違和感を感じていた。
理由はない。ただ、なんとなく――だった。
午後のコールセンター。
鳴り止まない電話の中、橋田奈々子は落ち着いた声で応対を続けていた。
「はい、エース家電お客様相談センター、橋田でございます」
手際よく、けれど丁寧に。
モニターとメモ帳を行き来する視線に、迷いはない。
一方で、斜め後ろ――森下の席だけがぽっかりと空いていた。
「……ねえ、森下さん、まだ戻ってきてないよね」
恵美が春子に目を向けて、小声でつぶやく。
「トイレかな。ちょっと見てくるね」
女子トイレ。
静かな空間に、かすかに鼻をすするような音。
「……森下さん? 恵美です」
個室の扉が、ゆっくりと開いた。
森下真美が、目元を赤くして立っていた。
シクシクと、静かに泣いていた。
「ごめんね…こんなとこで…」
「ううん、大丈夫? どうしたの?」
森下は顔を伏せたまま、ぽつりと語り始めた。
「……さっき、橋田さんに、ひどいことを言われたの。
夫と旅行に行く話をしてたら……
“仕事もまともにできないのに、旅行?お気楽ですね”って。
“みんなに迷惑かけてるの知らないんですか?”とも……」
言葉が途切れながらも、森下の声は静かに続く。
「“私だったら辞めちゃうけどな”とも言われたし……
……夫のことも。“冴えない男とよく旅行なんて行けますね”って……」
恵美の顔に戸惑いが浮かぶ。
あの奈々ちゃんが、そんなことを――?
「……奈々ちゃんが、そんな…?」
信じたい気持ちと、目の前の森下の涙。
恵美の心は、静かに揺れていた。
「……ひどいよ、それは。つらかったね……」
優しく肩に手を置くと、森下はうなずくようにわずかに体を揺らした。
泣きじゃくるわけではないが、その涙は、芯からしみるように静かだった。
そしてその時。
個室の奥、閉じたドアの向こうに、もう一人の姿。
北川だった。
すべてを、最初から最後まで聞いていた。
“ただの会話”の中に、わずかな揺らぎを見つける人がいる。
それは、やさしさか、それとも…。
午後の静けさに潜む、森下のわずかな「手応え」。それは、まだ物語の始まり。




