やさしい声の温度
給湯室の片隅。
湯呑みを両手で包み込むように持ちながら、ぽつりとこぼれる声。
「…私、昔からダメなんだよね。仕事も覚えが悪くて、よく怒られてて」
ふと顔を上げて北川を見る。笑っているけど、どこか寂しげで。
「でも…最近、ちょっと辛くてね。橋田さん、みんなにはすごく優しいのに、私にはなんか冷たくて」
小さく首をすくめる。
「言葉は丁寧だけど…あれ、嫌味なんだよね。私のペースが遅いの、分かってて“あとは森下さんがやってくれるので〜”とか、みんなの前で言うの」
声はどこまでも静かで、だけど湿った棘を含んでいた。
「この前なんてさ…春子ちゃんと二人で話してたら、急に“森下さん、空気読めないって前から思ってた”って。笑いながら言うのよ?冗談みたいにして。傷つくよね、普通」
(そんな会話は存在しない)
「春子ちゃんも苦笑いしてたけど…あの子も最近、橋田さんにベッタリだし、何か言っても無駄だよね。裏で私のこと、一緒に笑ってるのかもって思っちゃって」
とろんとした目でお茶をすすりながら、かすれた声で続けた。
「私、誰にも必要とされてないのかな…って、時々思っちゃう。橋田さんって、人の心の奥を揺さぶるような言い方…上手なんだよね」
そして最後に、ふっと作り笑い。
「北川さんは、そんな風に思わない?…あ、言いづらいよね。ごめんね、変なこと言って」
そう言いながら、あえて“言わなきゃいけない空気”を残すように視線を外した。
北川は言葉を失い、ただ「…いえ、そんな…」と小さな声を返すしかなかった。
「お先に失礼します」
そう言って、北川は変わらぬ調子で会社を出た。
バッグを肩にかけ、すっと背筋を伸ばした姿が夕方の風にゆるやかに溶けていく。
数歩後ろ、エントランスから足音がひとつ。
「北川さん、あ、一緒になったね」
少し息を弾ませながら追いついてきたのは、森下だった。
「今日、橋田さん、また残業っぽかったね。最近ずっとあんな感じで、保育園のお迎え、旦那さんに任せっぱなしらしいよ」
何気ないふりをしながら、ふと前を見つめる。
「…この前も言ってたの。“うちの旦那、家事とか苦手だけど、最近は仕方ないからやらせてる”って。ちょっと笑ってたけどね」
笑いながら話すその口調は穏やかだけれど、どこか湿った棘を帯びていた。
「うちは逆で、旦那が頑張ってくれてるから、私もできることはちゃんとやらなきゃって思うのよね。…夕飯のこととか、洗濯とか」
自分の袖口を整えながら、続ける。
「橋田さん、週末もけっこう出かけてるって聞いた。ママ友とのランチとか、美容院とか…旦那さんも、ちょっと寂しいんじゃないかなぁ」
声のトーンはやさしい。あくまで“心配してる風”を装って。
「でもまぁ、人それぞれだしね。私なんか、外出するより家にいる方が落ち着くタイプだから」
小さく笑って、トートバッグをぎゅっと持ち直す。
「ごはん作って、家があったかいって感じが、なんか好きなのよ。旦那も、夕飯の時間になると自然とテレビ消して食卓にくるの。そういうの、大事にしたくて」
まるで、話のついでのように。
北川は黙ったまま歩いていた。
交差点で信号が赤に変わると、ふたりの足が止まる。
沈黙の中に、車の通り抜ける音だけが響いていた。
「…あ、また余計なこと言っちゃったかも。ごめんね、北川さん」
森下はふと微笑む。けれど、その笑みはどこか張りついていた。
北川は、首をわずかに横に振った。
「……いいえ」
その声に、温度はなかった。ただ静かだった。
誰かの言葉がやさしく聞こえるときほど、そこに棘が潜んでいることがある。
森下の語りは、あくまで「心配している風」で、「ただの世間話」のようで。
でも、その柔らかさの裏に漂うものを、北川は静かに受け止めている――何も言わず、何も変えずに。
そんな無言のまなざしが、何よりも真実を映している気がします。




