ロッカー室の視線
ある日、夕方。
電話も一段落し、空気が少し緩んだ17時すぎ。
春子が席で対応メモを整理していると、斜め後ろから森下の声がふわりとかかった。
「春子ちゃん、いま大丈夫?」
「あ、はい」
「……ちょっとだけ、ごめんね。ほんとにちょっとだけの話なんだけど」
森下はいつもより静かで、妙に優しい声をしていた。
「今日の午前のさ、冷蔵庫のお客様対応の件、あったでしょ?返金の確認のやつ」
「あ、はい。お客様が領収書のことで少し揉めて……」
「うん。あれ……電話切ったあと、橋田さん、ちょっとだけピリッとしててね。すぐ普通の顔に戻ったけど……私のところに来て、“ああいう確認漏れ、困るよね”って、ぽつりと」
「……」
「名前は出してなかったけど、タイミング的に……春子ちゃんのことかなって。私、びっくりしちゃって。橋田さん、そういうのあまり言わない人だから、余計に」
春子は、不意に心臓がドクンと鳴ったような気がした。
「そうだったんですね……私、確認したつもりだったんですけど……甘かったのかも」
「ううん、私も最初は“え?そこまで言う?”って思ったの。でも橋田さんって、細かいとこすごく見てるから。そういうとこ、ちょっと怖いよね……あ、悪口じゃないのよ?橋田さんは橋田さんで、仕事に厳しい人だから」
「……はい」
「私も昔ね、同じように言われたことあって。だから、春子ちゃんには言ってあげたかったの。気づかないうちに、橋田さんに印象悪くなってたらイヤでしょ?若い子って、それだけで損しちゃうから」
森下はそう言って、紙コップに口をつけた。
それから、ふと笑みを浮かべて一言。
「まぁ、ここだけの話ね。誰にも言っちゃだめよ。……私も、面倒に巻き込まれるの苦手だから」
「……はい。ありがとうございます」
春子はそのまま、小さく頭を下げた。
けれど心の奥では、誰にも気づかれない小さな動揺が、ゆっくりと形を取り始めていた。
──“奈々子さん、あんなふうに普通に接してたのに、裏ではそう思ってたんだ”
そう思った瞬間、さっきまでの優しい笑顔さえ、少し遠ざかって見えた。
朝のロッカー室。
ざわざわと制服に着替える人の気配と、ファスナーの音が交じる中、奈々子はひときわ明るい声で誰かに話しかけていた。
「いや〜、昨日の夕方の対応、ギリギリでセーフだったんですよ。間に合って良かった〜!」
制服の上着をバサッと羽織りながら、笑い混じりに話す奈々子。
その声はロッカーの端まで響いていた。
その少し隣、春子も制服に着替えながら、「そうなんですね、さすがです」と穏やかに応じた。
表情も自然。声のトーンも変えない。
昨日、森下から聞かされた言葉は、ほんの小さな違和感として胸に残っているけれど──
(……ああいうのって、本当のことだったのかな)
(もし、あれが嘘だったら……?)
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
「春子ちゃん、今日も早いね~」と奈々子が振り返る。
春子はにこっと笑って「いえ、普通です」と返した。
そこへ、奥からロッカーを開ける音とともに森下がやってきた。
いつもの伏し目がちの顔。重たい空気をまとったまま、静かに制服に着替えはじめる。
何も言わない。
けれど、奈々子がふとロッカーの鍵を閉めている隙をついて──
森下は春子のほうにだけ目線を向けて、すっと目配せする。
(ほら……あの人裏では何考えているかわからないって感じでしょ)
言葉には出さないが、そう言いたげな目。
春子は、気づかないふりをした。
視線も合わせない。
だけど──森下は、ロッカーの影でつぶやくように、誰にも聞こえないような小さな声で言った。
「……春子ちゃん気をつけてね。私は大丈夫なんだけど…いつも裏では何考えているかわからないの」
春子は笑わなかった。
何も答えず、ただ制服の袖を直して、無言のままロッカーの扉を閉めた。
その場にいた誰もが、騒がしさの中でその空気に気づいていない──はずだった。
でも、奈々子だけが、ふと森下の視線を感じたように顔を上げた。
春子の横顔をちらりと見て、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
“あれ、なんか変だな”
そんな直感が、心の片隅に灯った。
朝のざわめきの中に潜む、静かな疑念。
誰も気づかないふりをしながら、心のどこかで引っかかっている──そんな“女性同士の空気”を描きました。
春子の冷静さと、森下のじわりとした毒のコントラストが、これからの関係を少しずつ変えていきます。
奈々子はまだ、何も知らないまま。




