夏の夜の白昼夢・押し掛けメイドは「おしゃぶり姫」
夏の終わりに
夏のつづきを
夏本番の日差しが降り注ぐ水辺の賑わいは控えめに言うなら色めき立っている。とりわけ群衆が年頃の若い者達に限られる場合「色欲に塗れている」と言っていい、男だ女だはこの際関係ない。
プラプラのプールサイドもそうだった。ホイッスル、水へ飛び込む音。
「ハァ#…堪んねえなあ。」「#そうだなあ、」「#絶景だよなあ、」「#水泳って…いいよなぁ。」「俺、プラプラの生徒で良かったよ#。」
「~見てよアイツらのあの顔☆、」「×や~らし~い、」「#ヤだヤだ、盛り上がっちゃってさあ。」「男子って…お馬鹿さんしか居ないのかな?」
プールサイドと言ってもオシャレな雰囲気は殆ど無い、箱庭に誂えた浜辺と言うくらいが関の山のただの砂場である。水はレンガ造りの貯水槽に河川の上澄みを引き入れただけの天然モノ、山奥の田舎でもなければ清浄な水を大量に確保する事が難しいため遊泳施設は一般に普及していない。それを所有出来るのは金持ちの好事家と相場が決まっていた。
そんな社会常識にあって学園プラチナプラタナスは初等部から高等部まで敷地内にプールを抱えている。プラプラと言う間の抜けた略称と乖離する多少の先鋭ぶりが生徒らの興奮に拍車を掛けていた。
しかし、中にはその興奮の波にイマイチ乗り切れない者も居たりする。
水面下から勢い良く飛び出し飛沫を上げた。
「↑───☆ぷあああっ。」
25m2往復をクロールで見事に泳ぎきったミーシャは水から上がり、やれやれと一息ついた。
被ったキャップを横から片手ではたいて耳の中の水を追い出す。腿の付け根辺りの水着の縁を人差し指で直した。横目に男子生徒らを窺えば案の定、こちらの身体中を盛りの付いた視線で臆面も無く舐め回しに来ている。男子って何でこんなにHなんだろう。
(#~───。)
ボディーライン露わな今の姿を劣情の標的とされる事に憤りを感じるが、彼らの眼に魅力的な異性として映っている事だけは間違いない。そう思えば腹も立つまい、そんな風にも考える。しかし、寛大な許容の心を以っても承服し兼ねる事象が一つだけ彼らの中に紛れていた。強烈な太陽の恵みの下に映える褐色の肌、キャップからはみ出るシルクのような髪と輝く深緑色の瞳。この場に唯一の色彩、付き人のジェズだ。
「─────~、」
こちらを見てニコニコしているがミーシャにはバレバレだった。ジェズの視線は決して自分にだけ向けられているものでない。彼は脳内で絶えず平行処理をしており、注意の対象をマイクロ秒刻みに切り替えている。サイクルの細かさはさておき、それがなされる事自体に何ら差支えは無い。問題はその注意の対象だ。
ミーシャは雫を滴らせながら自分の元居た場所へ戻る。体育座りで待機している女子生徒の中へ混ざる間際に斜め前方の対岸を一目した。
「………………」
少しだけ高く砂の無いプールサイドの一角、隅っこに出来た黒い影でメイド服が独り佇んでいる。背格好は完全に子供で真っ黒な髪は全方位に垂れ流し、瞳は前髪に隠れてろくに見えぬが酷い隈だけよく見える。肌は白いと言うより血色が悪く病的で、何処か東方世界の幽霊画を彷彿とさせた。そこだけがひんやりとして冷たい、この場に唯一の違和感。ジェズが常に気を配っているのはその子だったのだ。
(ぁああもうっ、何がどうしてこうなった??)
■■■ 夏の夜の白昼夢・押し掛けメイドは「おしゃぶり姫」 ■■■
「←次、4班並べ!」
男子側のレーンから上がって来た班と入れ替わりに、教師の指示でジェズを含む生徒らが立ち上がり飛び込み台へと移動を始めた。ミーシャは如何にも気の無い風体で褐色の裸体を見詰める。幾度となく目撃した事はあるかも知れない。しかし、まじまじと彼の身体に見入るのは今日が初めてのような気もした。
授業直前のプールの入り口、水着姿でバッタリ鉢合わせた時に見た彼の身体が思い浮かぶ。少し恥ずかしそうに後ろ頭を掻く彼の全身は間近に見ると何処もかしこも傷跡が蔓延り、背中には話題として触れる事すら憚られる程の大きな疵を負っていた。目にした時点で何も言えなくなる。
どちらかと言えば小柄で痩せ型、周囲の男子生徒と比べ脂身が少なく筋肉質、一言「野性的」な肉体。自らの知り得る唯一のその個性にミーシャも関心が全く無い訳ではない。胸に吸い込んだ水際の清涼な空気が熱を帯びて鼻から抜ける。
(#──とりあえず、ジェズが元気になって良かった…ひと月前はズタボロだったもんなぁ。お姉様がやらせていた「賭け」もちゃんと終わったようだし、一安心かな───
───まだ何も教えてもらってないのは納得行かないけど↓。)
酒蔵メリーベルの裏仕事「黒ワイン」は彼女に未だ知らされていなかった。
それが連続猟奇殺人事件に終止符を打った事も、
姉と使用人がブラック・ドゥーと呼ばれている事も、
ミーシャはまだ知らない。開示も要求していない。
(約束したから。話してくれるって。)
ホイッスルと水へ飛び込む音、こと身体を動かす事に関して飲み込みが早いジェズの様になって来たクロールを眺めミーシャは想う。一安心出来てもそれで終わりではない、
次の何かはもう始まっている。
父マシューと叔父ニコラスの間延びした驚く顔が頭に浮かぶ。今の時期にしては例年よりワインの出荷数が多いのだそうな。事務室の壁に貼り付けた数年分の折れ線グラフの下、机上の新聞雑誌の山を挟んで現当主らは難しい表情をしていた。片や口髭を、片やモミアゲを片手でジョリジョリ弄ぶ。マシューは足を広げてソファーに掛け直すと深い溜息をついた。
「──どう思う?」
「どうもこうも。」
「さあ困ったぞ。」
「政治・経済・芸能、どれを取ってもワインの売上増に繋がりそうな話題は見付からないよ。─まぁ、僕達が気付かないだけかも知れないけれど↓。」
「突然だ、突然に売上が伸びている。率直に嬉しくは思うのだが、浮かれてばかりもいられん。世の中では何かが起こっているはずだ。」
「生産計画を見直したいのにこれじゃあ目処が立てられない×。仮に今のこの状態が続くとしても、今年の収穫が例年通りであれば、売れ筋の麦藁ワインは再来年の夏までなら供給を保てるはず。一昨年の豊作は幸運だった。」
「今判る事と言ったら所詮その程度か↓。この売上が何処まで伸びるのか、他の売り物へ影響が及ぶのか、まるで検討がつかん@。何か判断材料は無いものか…原因は何だ?」
その時ミーシャは彼らから少し離れた事務机で帳簿のチェックをしていた。売上が伸びて困っていると言う経営陣の姿を奇妙に思っていたが、紙束を持って現れた白いワンピース姿の姉の放つ言葉を聞いて考え方が変わった。
「←何も不思議はありませんよ。」
「?」「リュアラちゃん、それは?」
「私の進めていた『訪問販売』が漸く実を結んだのです。←」
爽やかな笑顔で手元の物を戸惑う現当主らの前に提示する、彼らの顔が間延びしたのは当にこのタイミングだ。マシューが受け取った紙束を一枚一枚めくってみると、それらは全て定期購買の新規の契約書である事が判った。小口に混ざって大口の取引も散見される、リュアラの訪問販売の売上実績について殆ど期待していなかった彼らが驚くのも当然である。引き金としてなら理解はすれど売上増の因果関係は依然謎のままだからだ。
「──店頭から客を呼び寄せるのではなく、客の居場所へ自ら赴いて売り物を捌く……売れるものなのだな、酒が。あー…当初の失敗続きは無駄でなかったと言う訳か。ハハハ、そうかそうか、なるほど…」「それでリュアラちゃんはこの伸びが続くと思うかい?」
「残念ですが勢いそのものは今回で打ち止めかと思います。課題はこれだけ獲得できた顧客数をどのように維持し増やし続けて行けるか…今後の訪問販売の如何に掛かって来る事は間違いありません。売れ筋に及ばずながら、高額な年代物も数を伸ばすものと見込んでいます。原材料の確保のためにこのジェムブルームだけでなく、他所の果樹園との提携も視野に入れるべきではないでしょうか、」
「「───」」
「長らく眠らせていた旧い蔵をこの夏の間に起こし、増産体制を整える事を私は←ここに提案します。」
自信が違う。賭けや当てずっぽうではないとミーシャの直感が告げていた。
続く台詞で確信する。
「差し当たって、ジェズに与える仕事を訪問販売優先とさせて頂きたいのです。」
ジェズが水から上がる。泳ぐ姿こそ力強かったが順位は班の中で最下位、そもそも泳ぎが得意ではないらしい。まだまだ甘いだのフォームを気にし過ぎだの他の男子生徒らがジェズを持て囃すが、身体中の傷痕を一様に気遣い話題を逸らしている事は誰の目にも明らか。ウチのクラスメイトは皆優しいね、ミーシャは揃えた膝を抱え直し顎を乗せた。
(訪問販売───ジェズじゃないと駄目なんだ。ジェズじゃないと……)
ジェズじゃないと。これがどうしてこうなったに繋がっている。
話は更に遡る。彼がズタボロで姉と帰って来てから丁度一週間が過ぎた頃、夕暮れ時のメリーベルの屋敷に珍客が来訪した。平日のこんな時刻に客の来る事自体が稀、珍も珍の珍々客である。それはそろそろ販売ホールを閉めようかと店先を見回るミーシャの前に現れた。
「本当にお嬢様だったんだな、」
「──────あんた…あの時の、」
メリーベルの物とは異なるメイド服、巻き癖の強い濃紺のショートボブに目許を覆う海藻のような前髪。蒼白のジェズが入院していた先、騙絵横丁に在る表札の無い病院で出会った口だけオバケ。「いつかコロす」殺気メイド、ヂャリコ・ワラスボだった。
「入院の代金と貸した服は確かにもらったよ。」
「ああ、うん。まぁ、払ったのはお姉様だけど。──で、こんな時間に何の用?わざわざこんな山奥の田舎までお酒を買いに来た訳じゃないでしょ、」
「次期当主に会いたい。」
「あぁ、───お姉様なら学園からまだ帰って来てない。生徒会の用事だって、遅くなるかもよ?」
あたしだって次期当主。そう言い掛けたが、それは自分の気持ちの問題であり今の会話に必要無い。ミーシャは自分の中で気持ちを冷静に整理する。ヂャリコは考え込むように頭を少しだけ傾け後方へ声を掛けた。
「おいで、」「─────────────────────────────────」
「──────★!?」
気付けば向かいの茂みから人影がいつの間にかはみ出ていた。虚を突かれぎょっとするミーシャは、何故か見てはいけないモノを見た気がして妙に焦る。背格好は完全に子供で真っ黒な髪は全方位に垂れ流し、瞳は前髪に隠れてろくに見えぬが酷い隈だけ何故か見える。
口だけオバケが増えた、1号がしたり顔で口を利く。
「あの大食らいのヴィリジアンなら居るんだろう?」
傷こそまだ癒えていないが、酷い貧血も治まりジェズは仕事に復帰しつつあった。今日も上がりが早かったので今ごろ宿舎に居るはず、世話になった手前ミーシャは口だけオバケ達を案内する。大方の予想通り馬小屋などと揶揄されてしまうが、非合法のあの病院と比べ明らかに見劣りするのだからミーシャはぐうの音も出ない。
「←ジェズ居るよね?」
「?」
ノックもせずにドアを開けるとジェズは着替えの最中だった。開けたYシャツとトランクス一丁であわあわ狼狽、そんな彼を見てミーシャは一瞬ドキッとするが何となく平然を装った。ジェズしどろもどろ、
「×ぉおぉおっ」
「…──今いいかな?」
「お嬢様↓、ノックくらいして下さい。」
「あんたの口からそんな台詞が聞けると思わなかったわ。その辺の事、ザクレアとユーディーにもちゃんと教えてやりなさい。─それより、あんたにお客。」
「僕に───え?いや×だからちょっと僕まだ」
「←窮屈な住処だ。」
「★!──────お前か。なんでここに、」
「今なら簡単にコロせそうだな卍。
──────
──────────────────→冗談だ。
事の次第は判ってる。いつまでも挨拶に来ないから気を揉まれていらしたぞ、」
いらした。彼女の義父、黒ワイン初の依頼主たる一家の頭領ジェラルド・ガノエミーの事である。当人に完遂の報告はまだされていないが、連続猟奇殺人事件の解決は新聞各紙に小さいながらも報じられており、顛末の詳細を邪視の老人は知りたがっていたのだ。
ジェズはミーシャお嬢様の前なのに着替え途中の情けない恰好である事と、情報を絞って会話しようと言葉を選ぶあまり挙動不審になる。当然ミーシャにはバレバレ、同じくあっさり見透かしたヂャリコがこれ幸いと話を進めてしまう。
「何もからかいに来た訳じゃない。これからも良い関係を取り持ちたいと言う気持ちと、そのよしみから是非ともお前にと願い事があってわざわざ出向いた訳だ。」
「願い事?──~僕に?」
「この子を預かってほしい。」
「「?………←は!」」
ジェズとミーシャが部屋の内側と外側の境界線から滲み出たもう一人の口だけオバケの気配を察し異口同音、いつからそこに居た。ジェズは頭が回らず完全にペースを乱す、本調子でないとは言えこの自分が気配に気付かなかった。
「?ぇ、え??ちょ…ちょっ」
「←ああこの子は私の妹分だ。荒事ならお手の物だが家事はどうにも苦手で、将来の奉公先を心配していた所だ。そこで思い付いたんだが、──酒蔵メリーベルのお前の下なら安心して預けられるかなあ、と。」
「?なんで僕が×。大体、人をお屋敷で働かせたいなら酒蔵に話を通さないとダメじゃないか、」
「子供と侮るなよ?きっと『お前達』の役に立つぞ。それに、あまり表立って交わりがあると都合が悪いだろう……色々、」
カタギの酒蔵メリーベルとヤクザのガノエミー一家が酒の売り買い以外で関係ありと公になるのは何となく不味い、ヂャリコの言い分は一理あるような気がする。なあなあの内に押し通したい彼女の意図を読み解けず、ジェズは情けない恰好のまま悶々するばかりで返答しあぐねる。
痺れの切れたミーシャが真意をヂャリコに問い質そうとした次の瞬間、信じられない出来事が起きた。
ジェズの無防備なトランクスの内側へ異物が強襲、前のド真ん中を鷲掴みにしたのだ。
「★!★うっっぐ!×?××~~~~~~~~~」
「ぁ───★?#はっ?!」
彼とミーシャを絶句させた異物は2号のか細い腕だった。得体の知れぬ不気味なこの女児はいつの間にかジェズの裏へ回り込み憐れな獲物を狙っていたのだ。
慌てふためく二人を見てヂャリコは困ったような仕草を見せるが、目許口許は完全に笑っていた。頭領の命令とは言え、初対面で頭を壁にめり込まされた恨みは忘れていない。今の惨めなジェズを前にして愉快痛快、笑いが込み上げて仕方がなかった。
「まぁ何だ@、お互いこれからも持ちつ持たれつー…これはあくまで頼み事、お願いではあるがー…」
「ふっ××ぐぬぬ………」
(★ひいいいっ、×ひいいいいっ!やめて放して僕から離れて僕のモノを返してえええっ←→←→!!)
ジェズは心の底から恐怖していた。今すぐこの戒めから解放して欲しいと心中で必死に哀願した。自分の肉体で最も弱い部位を相手に握り締められては無理もない。相手を振り払うなど造作も無い事だが、自分の弱点も無事で済まないと彼は瞬時に把握する。年端も行かぬ小さな少女を相手に、己の無力を悟り藁にもすがる想いでいた。
暗礁密林に棲まう住民、こと人々を束ねる長たる男にとって自身の生殖能力はまさに生命線、死活問題に直結する。どれだけ勇猛果敢・頭脳明晰・眉目秀麗であったとしても、子種を託せねば折角の優れた血が残せない。不能が発覚すれば宝の持ち腐れと言う無能の烙印を押され、真っ先に女衆から見向きをされなくなってしまう。やがて優位となった男衆からも蔑まれ、男はその生涯を独りひっそり閉じる事となるのだ。
それが暗礁密林の理、彼らの生きる弱肉強食の世界である。こればかりはジェズも覆せない抗えない。
そんな事情など知らぬ存ぜぬヂャリコにとってジェズの苦悩は何処吹く風。
何かに目覚めてしまいそうな予感と愉悦、髪の隙間から瞳を覗かせ微かに打ち震えながら息を荒げる。
「はぁ#……どうだろう、ここはこちらの顔を立たせてくれないか?」
「×ぃや、しかしっ~~~僕が勝っっ手に、ぞっ…ぞんだ事…を××」
1号が悪戯っぽく笑みを浮かべると、2号は淡々と中身の左右を入れ替え圧を強めた。ジェズは真っ青な顔で身をこわばらせ、嗚咽を必死に喉の奥へ押し留める。ぐええ。
結局その場は苦しみ悶える彼を見兼ねたミーシャがタオルを投げ込む事となる。
口だけオバケ2号の名は【タタリ・アマガミ】と言った。
プールサイド隅の日陰に立ってぴくりとも動かない。肌の色からは想像もつかないがサルファラスなのだそうな、齢は13。1歳違いの姉貴分の立ち振る舞いが何処か大人びていたのとは対照的に、こちらは歳と比べかなり幼く見える。ミーシャは写真や絵画以外でサルファラスの大人の女性と言うものを見た事が無い。未成年ではないと言う大学側の看護婦だって何処から見ても子供にしか見えなかった。年齢を詐称しているのではないかと勘繰りたくなる。
(サルファラスの女子って、歳…取らないのかな?)
「ようしクロール終わりー!──あー次は背泳ぎだ。また25mから距離を伸ばして行くぞ、スピードは気にしなくていいけど遊びじゃないからな!1班並べー!」
ホイッスル、女子側の体育教師の指示で該当の生徒らがわらわら立ち上がり移動を始めた。既に背泳ぎを始めている男子生徒達がまた大はしゃぎ、互いにこちらを示し合わせ胸がどうのと盛り上がっている。全くもう。
「全くもう。ね?☆」
「×ははは…」
すぐ隣に座るケイトがミーシャの言葉を獲って苦笑い、額縁メガネを外している今の親友の笑顔はミーシャの瞳にことさら眩しく映る。
実を言うと彼女は体育の授業の際、ケイトの着替えがいつも気になっていた。いざ肉薄してみるとやはり健康的な肢体、普段の学生服の上からではあまり分からない。背格好は自分とそれ程変わりないのにバストは豊かでウエストは引き締まっている。着痩せするのか着膨れするのか、何を食べたらそうなるの。感嘆すると共にミーシャは大きく安堵の息を漏らした。
同級生ケイト・マグワイア、何せ彼女は数少ない「連続猟奇殺人事件の生き残り」なのだから。
一ヶ月前の課外授業の際、キーニング国立美術館をクラスメイトと一緒に見学していた彼女は犯人と思しき者の手で地下室に拉致監禁された。当人は薬品を嗅がされ意識不明だった事になっており、犯人の正体や秘密の地下洞など詳細は世間に公表されていない。
救い出されたケイトは経過観察と事情聴取のため警察病院で軟禁生活を強いられる事になる。親友が連続猟奇殺人事件に巻き込まれていたと知りミーシャは肝を潰すが、一週間ぶりに戻って来たケイトと学園で再会し彼女の無事を大いに喜んだ。とは言え非日常を過ごした彼女は精神的にかなり参っており、以降半月ものあいだ鬱状態に陥ってしまう。明るい話題を持ち掛けたりお菓子を作ってあげたりミーシャは親友のため積極的かつ献身的に接するが、彼女の心を救うまで至らず自らの無力に悔しい想いをしていた。
それが、半月前に起きた或る出来事のお陰で親友はものの見事に復活したのだ。
きっかけは使用人のお悩み相談である。
移動教室で廊下を歩くジェズの姿はまるで失恋したゴリラのようだった。
「─────────────────────」
「──何もう×、どうしたのジェズ?」
「いやぁ…どうもこうも↓。お分かりでしょう、タタリの事ですよ。」
「@何よいつまでもうじうじと。あんたがシャキッとしないでどーすんの?ザクレアやユーディーみたく教えてやればいいだけの事じゃない、」
「ザクレアやユーディーみたく聞いてくれないんですよぉ↓。」
いつになく情けない声。屋敷に来たばかりのザクレアとユーディーも従順ではなかったが、ジェズの家臣であるこの二人は我が君の命なれば渋々ながらも従っていた。しかしジェズとの関係が希薄なタタリは根っから芯から完璧なまでに従順でない。周囲に対し礼や応答はすれど、終始無言で自らの考えを示す事も殆ど無かった。カルヤや他の家政婦らの証言では言い付けをまるで聞かない訳でもなさそうだが、ジェズの言う事だけはこれまで聞いた試しが無かったのだ。頭を抱える。
(うぅぅ↓。あの子は頭領からの贈り物みたいなもの、居る事そのものに意味がある。頭領には病院の事も含めて恩があるし、だからこそお嬢様達も屋敷に置く事を推して下さった。託されたからには放っぽっとく訳にも行かない……って言ってもさぁ×、)
「植木の刈り込みとか、宿舎の掃除とか。教えようとしても説明してる間にどっか行っちゃうし↓。問い質すとそのうち…ワキワキした手をベロリと舐め始めるんですよぅ××。」
「あ…ぁー……」
ジェズがさめざめと涙目になる。決して押し掛けメイドの反抗的な態度が悲しい訳ではない。
「あんたねぇ×、股を握られたくらいでメソメソすんじゃないのっ、男でしょ?」
「あのですねっ、骨にも肉にも守られてない腸が皮一枚で相手の手の中なんですよ?!男には一目散なんですよ!?」
「@一目散って……#~そんなモノ握られて、恥ずかしいと思わないの?」
「★もう恥ずかしぃいやらっ情けなぃいやらっ×よよょょょ……」
「×↓。」
「どうしたの二人共?」
「あぁ、ケイトさん。…小ちゃい子って、どうしたら言う事聞いてくれるようになるかなあ…って、」
「──それって、ジェズ君の弟?」
「え?──────ぁあ、そうですね。僕に妹が居たら、ひょっとしたらあんな感じになるのかな…」
(あんな感じになるのか??)
言葉の誤用といいミーシャはジェズの思考回路が割と本気で心配になる。
打ちひしがれる彼の傍らにケイトがずずいと踏み込んで来た。
「←躾は大事だよ、」
人差し指と真摯な眼差し、ジェズはお嬢様の方へ押し込まれケイトと挟み撃ちの格好になる。圧はちょっと怖いが、ちょっぴりいつもの調子が感じられて嬉しい。ジェズは一ヶ月前の国立美術館の地下洞で朦朧としたケイトに直接会っている。口にこそ出さなかったが、彼はケイトに対し並々ならぬ心配をしていたのだ。
そのケイトが久々の真面目モードでグイグイ迫って来た。
「←しちゃいけない事、しなくちゃいけない事、」
「ぇ……ぁ→、」
「←ちゃんと本人が解るようにしてあげないと。」
「あぁ、はぁ…と言われましても、ワキワキがですね↓…」
「ワキワキ?…←小さい今だからこそ大切なんだよっ?悪い事をした時はお仕置きだって必要だからね?それが後々本人のためになるんだから。」
「→そんな事言われましても、お仕置きなんてどうすれば×、」
「そんなの、ジェズ君が小さい頃されてたみたいにすればいいんだよ。」
「あはぁ↓…無くって。」
「──────?」
「ぇえと、無くってですね…僕の小さい頃はその、お仕置きとか、する者も居ませんでしたので。なんて言うかどんなものかなあって。その、感じが全然…分からなくてですね×、」
「───!…っごめんなさい、今のは私が無神経だったわ!×あのっ、悪気があった訳じゃないの、本当にごめんなさいジェズ君!!←」
「?あぁいえ→謝られる事じゃないです、そんな気にしないで下さい。」
弱肉強食の暗礁密林。そして彼は死んでいなければならない王族、凡そ自分達の知る普遍的な幼少期など過ごせてはいまい。ミーシャもジェズの身の上を把握出来ている訳ではないが、ケイトと同じくジェズの不遇に触れてしまった事を少しだけ気に病む。当の本人は彼女らの普遍が判らないので、謝られても困るばかりなのだが。
失態に負けじとケイトは奮起した。
「↑ようし、分かった!それじゃ私がお仕置きの仕方を教えてあげるよ!」
「ぇ……と、それさえ分かれば言う事を聞いてくれるですか?」
「←そうだよ!効果テキメンだよっ!」
「☆っ←それはどんな?」
「『お尻ペンペン』だよ!!」
「★☆おしりぺんぺんっ?!」
初めて耳にした小気味良い語感の新たな概念にジェズは強い衝撃を受ける。バックには稲妻が走っていた。
「いけない事をした子に、した事を解らせてあげる時するんだよ!」
「!それはっ、どんな風に!?」
「言う事聞かない子を、こうっ。自分の足の上に俯せに乗せて、その腰の上へ片手を添えて…」
「…片手を添えて…」
「あんな事しちゃダメでしょ!と、もう片手でスパンク!」
「!片手でスパンク?」
「←片手でスパンク!」
「☆片手でスパンク!!」
「「片手でスパンク!片手でスパンク!」」
二人して左手でエアペンペン、飛び散る汗が星のように美しく輝いていた。唐突な体育会系のノリにミーシャはおいてけぼりをご馳走となる。二人とも帰っておいで、
そんな意気揚々と好調に素振りをしていたジェズだが、彼は次第に表情を曇らせ、遂には遣る瀬無いと言った顔で床へ崩れ落ちてしまう。
「!っ×駄目だああああぁぁ↓。」
「★どうしたの?ジェズ君?!」
「感じが……感覚が掴めないんです!こうして手を振るっていても感触が……~決定的な何かが足りていない×、そんな気がするんです!」
「…よく気が付いたねジェズ君。それはね、──────『愛情』だよ。」
「愛情…」
「そう。自分がどんなに正しい事を言ってたって、相手を想う気持ちが無ければ何も……何にも伝わらないんだよ!」
ドッギャアアアアアン。ミーシャは確かにそんな音を聞いた。
「相手の事を想うジェズ君のその気持ち、その愛情を手に宿すんだよ!そしてそれをお尻へ込めるんだよ!ぶつけられた相手のお尻は勿論痛いよ、でもぶつけた手だってとっても痛い!だって痛いと感じている相手への気持ちがそこにあるから!……足りてないのはそれなんだよ、同じ痛みを通じて初めて解り合えるんだよ!心が繋がるんだよ!!」
「どんな風に!?」
「こんな風に!←」
「──?ぇ★ちょ↑↓?!」
「愛情っ!←」
「☆★↑ひゃああああっ×!?」
ケイトの真剣で不穏な眼差しに気付くも時すでに遅し。ミーシャは腰をケイトの小脇へ軽々持ち上げらてしまい、彼女の立てた片腿にうげっと伏せられる。そこから有無を言わさず臀部に愛情を込められた。おっしゃる事ご尤もなのかも知れないがこれは恐らく愛情と関係ない、眼の奥でチカチカと火花が散った。
「愛情っ!←」「★!ひゃいっっ×!!」
「!?」
「愛情っっ!←」「☆×あひゃあああっ@!」
「これは…」
「愛情うっ!!←」「★?うひいいいいっ×!?」
「ぉ…おお☆、」
「←こうするのジェズ君!さあ、実践あるのみっ!!」
「☆!はいっ!!←」
「?!ちょっと待ちなさい×!何であた★↑↓ってこらあ!!×」
「愛情!」「☆★!ひぎいいいいっ!!」
「愛情!!」「×@~ぃいっっんうっ!×」
「愛情!!!」「★#にああああああっ@!」
「←どうかな?ジェズ君っ?!」
「この手応え……何か、!何か掴めた気がしますっ。これか……そうか、これなんだ!←ありがとうございますケイトさん!」
「子育てで困った事があればすぐ訊いて!私が→←☆教えてあげるっ!」
「☆はいっ!!」
「「あははははははははは☆!」」
「@っ……あっ×…~~ぁあんた達ねぇえぇえぇえぇ~え↑↑、」
そこから怒り狂ったミーシャが「小さい子相手に最近だらしねえ」とジェズにケツドラムを食らわせるのは当然の流れ、そのせいで授業に遅れ三人揃って廊下に立たされるまでがセットだった。
しかしこれより以降、年下の女の子の態度に関するジェズの悩みに答える形でケイトはみるみる活気を取り戻して行ったのだ。
背泳ぎの順番が回って来た。ミーシャは立ち上がり後ろの砂を払っていると何だか痛いような気がして臀部をまさぐる。前屈みで歩きが内股気味になった、変な気分。
(…小さい頃お父様にぶたれたのを思い出しちゃったじゃない↓。~ご主人様であるあたしの……×いや、そもそも女の子のお尻を好き放題引っ叩くなんて何考えてんのよあのバカちんはっ。ノせられ易いと言うか何と言うか~──まぁ、ケイトが元気になってホント良かったけど。
…そう言えば、子供の事になると勢いが凄かったよね。手の掛かる小さな妹か弟でも居るのかな?)
「←ねぇ、ケイト、」
「?何、」
「ケイトって妹とか居るの?」
「…──そうだね。昔一緒に住んでた事はあったんだけど、今は…」
「ふうん、そうなんだ。何かほら、ケイトって小さい子の事色々詳しいじゃない?」
「そう?普通だよ。でも確かに興味はある方かな、将来は自分にもって考えたらさ。ね?」
「?妹か弟が出来る予定あるんだ、」
「×何言ってるの。自分に子供が出来たらって考えるでしょ普通。」
「───★☆え!?←それって#」
「ちーがーう×、彼氏だって居ーまーせーんっ。」
「→なあんだ。」
(あたし達まだ中等部を上がったばっかりだって言うのに、自分の子供なんて…気が早いと言うか。単純にケイトが家庭的って事なのかなあ──────
───
─────────それじゃ結局「どうしてこうなった」はケイトのせいって事になるのかな?)
「全員位置についてっ。用意っ───」
ホイッスル。仰向けになったミーシャの瞳に青の強い真夏の陽射しと水飛沫が飛び込んで来る。
つい先週の話である。ケイトのレクチャーを受けたジェズが教えを忠実に実践し、それなりに手応えを感じ始めたと言い出してから数日が過ぎていた。実際にミーシャがその現場を目撃したのはそれが初めて、ジェズに離れの納屋で探し物をさせている最中の出来事だった。
(一日中曇りでスッキリしなかったなあ。あんな処、日が暮れたら真っ暗になっちゃう。探し物は一旦中断させてあげないと。)
「あ。タタリ、」
「───」
やや風のある曇天の昏い夕暮れ、軒先に口だけオバケの立像があった。正味でオバケに見えてちょっと怖い。足下には欠片の積まれたトレーが置かれている、脚ならちゃんとあるようだ。
「どう?ガラスの瓶、見付かった?←」
「…───→」
タタリは腰を曲げるとおもむろにトレーを携え、ミーシャの視線を避けるように身体を背けた。うん?
「─────────?
…ぁはは、やっぱり割れたのしか残ってなかった?←」
「→───」
「×何々?ちょっと見せてよ☆、」
「→───」
「あっ。何してるんだタタリ←、──すみませんお嬢様、」
「どう?まともなガラス瓶なんてあった?」
「やっぱり壊れた物しかなさそうです。それも割られた物ばかり。」
「…どう言う事?」
「タタリ、お嬢様にお見せして、」
「…→───」
つーん。ミーシャは笑みを作るも眉が困っている。
「あはは↓…何で見せてくれないの?」
「~タタリ、」
「…───→」
「?ちょっと、何処に行くんだ←、」
首に掛けたボロタオルで汗を拭うジェズをすり抜け、タタリはトレーと共に物音一つさせず、浮遊しているかの如く暗い納屋の中へ吸い込まれて行った。何処かで見た気がする薄気味悪さにミーシャは少し忌避感のようなものを抱く。
建屋の中は天井が高く宿舎並に広いのだが、柱に板を釘付けただけの物置然とした棚が壁に沿って誂えてあり、いつの物か分からない工具や家財が処狭しと載せられ大空間を圧迫していた。地面が剥き出しで空気はひんやり冷たく、外界に比べ時間の流れが遅く感じられる。物陰の何処かで旧国帝政の魔性が息を潜めていたとしても不思議に思わない。幼い頃に悪戯をした罰として独り閉じ込められた事もあったミーシャは、懐かしさよりも怖いと言う気持ちの方が立ってしまう。
そんな異質の空間と小さなメイドは驚くほど親和性が高く実に馴染んでいた。外の明かりがあまり届かない奥まった物陰で足を止めたタタリの背中にジェズが追い付く。
「どうしたんだ?なんで集めた物をお嬢様から隠そうとする?」
「───。」
「……いいかい、それはタタリのじゃないんだ。昔のように酒蔵でも瓶を造りたいから学者先生に見てもらうためって、そう言うお話だったろう?」
「──…、」
「タタリ、」
「…←ねぇジェズ、欠片は後ででいいから早く出★★っ!↑↑×?!@」
突然のガチャンと言うけたたましい音。ジェズの後ろへ恐る恐る続いていたミーシャは跳び上がり、ドキドキしながら猫の威嚇のような息を吐き出した。タタリが手許のトレーをなおざりに地面へ落としたのだ。折角ジェズの探し集めたガラス片が散らばってしまった。心臓バクバクのミーシャの鼻息が収まらない、勿論ジェズも黙ってはいなかった。
「↑タタリ!」
「………───、」
「なんでこんな事をする、訳をいいなさいっ、」
「───→」
その時ミーシャは初めて目にした。感情らしい感情を表さなかった口だけオバケがぷいっとソッポを向いたのだ。ジェズが詰め寄れば微かな唸り声と共になお身を反らす、下をよく見ると脚こそ上げていないが踏み締めるように地団駄を踏んでいるではないか。彩りの無い小さな少女にほんのり色が差した、そんな気がした。
拒絶の意思を示し続ける駄々っ子に対し、ジェズはとうとう育成中の伝家の宝刀を持ち出した。
「どうしても僕の言う事を聞く気がないと言うんなら…」
「───」
「身体に聞いてもらおうかっ←、」
「☆──↑↓、」
「あんな事しちゃダメでしょ!」
「★ャああい!×」
ヤクザの如き台詞を以ってヤクザの養女にお尻ペンペン。ヤクザの事は知らねど、ミーシャは初めてタタリの声をまともに聞いた。物語りに登場する歳経た獣の姿の精霊が発するような、何処か嗄れた感じの高くて幼い声。そしてジェズは容赦が無かった、張りのある景気のいい音が暗い建屋に鳴り響く。
「ダメでしょ!」「☆★ィやああっ!」
「ダメでしょ!!」「×☆うにゃんんっ!」
「ダメでしょ!!!」「☆#ィヤあああんっ!」
「←愛情うっ!」「ぅ~~~…#、」
一種の通過儀礼は一頻り終わった模様、最後のドスの利いた愛情は〆か何かのつもりらしい。よほど痛かったらしく、項垂れるタタリは身体を弛緩させながらぴくぴく痙攣していた。確かにあれは結構痛かった、ケイトに立て続きペンペンをジェズから食らわされた時の事を思い返し、ミーシャは自分の臀部を擦り居たたまれない気持ちになる。
ガラクタだからってタタリの好きにしていい訳じゃないぞ、お嬢様の言う事をちゃんと聞かなきゃ、何しなくちゃを考えなきゃ。〆の格好のままジェズが滾々と諭せばタタリも俯せのままこくこく頷く。口だけオバケの従順な変わりようにミーシャはいたく感心した。
(ふぅうん、あのタタリがこんなに…。親身でレクチャーしてくれたケイト様々ね。
──それはさておき、×いつまでお尻に触ってんのよコイツは~…相手は子供だけどさ、)
そんな事を思い始めたミーシャはタタリの様子を改めて見て一抹の不安を覚える。
「………」
「──、──~、─────@、──#、」
タタリは垂れ下がる黒髪の陰で密かに自分の人差し指をしゃぶっていた。小さくひと噛みふた噛みした指の背中に口づけると、舌舐めずりして指の表も裏も余す所なく舌を這わせる。その舌が軟体動物のように指を絡め獲り、そのまま唇の中へ引き摺り込んで口許からちゅうちゅうと微かな音を立てた。おもむろに咥内の物を引き出したかと思えば零すまいとまた啜り入れる、そんな事を繰り返す。
赤ん坊の頃に母親から引き離された子供は、人であれ動物であれ乳飲み子の如き仕草をする事がある。ミーシャも聞き齧ってそんな知識はあったが、タタリの行動は果たしてそれに該当するものなのか甚だ疑問だった。この女児は背中から聞かされるジェズの言葉に頷き応えてこそいるものの、何処か恍惚と言うか何かに取り憑かれているような妖しい感じを受ける。痛い目に遭っておきながらそれを嬉しがる子供など居ようものか、ミーシャは珍しく「関わり合いは程々にしておこう」などと肝に銘じた。
結局、彼女は口の中へ指を差し入れる行為に自らが表札の無い病院でやらかしたジェズへの悪戯を連想し、恥ずかしくなってそこで考える事を止めてしまっていた。
思えばその日からである、何処へ行くにもタタリがジェズに付いて廻り出したのだ。初めは走り出した汽車の中、登校生徒の群れの隙間から前触れも無く現れ、誰も座りたがらないジェズの対面の席にひょっこり鎮座した。メリーベル姉妹とジェズは突然の出来事に唖然である。追い返す訳にも野放しにする訳にも行かず学園まで連れて行った結果、小さな子供と言う事もあって随伴を許される空気が学園内に出来上がってしまった。運営側は一体どう考えているのか、これと言ったお咎め・指導は皆無。周りとのトラブルは幸い未だ起きていない。
(悪い子じゃないとは思うんだ。思うんだけど。)
そろそろ辿り着くであろう対岸を頭上に意識したミーシャは、ゴールの向こうで佇む日陰のタタリと不意に視線が合う、刹那ぎょっとした。この距離あの髪あの暗がりで外から眼など見えるはずも無い。
───オ前ガ見テルノヲ知ッテルゾ─────────
タタリがそう念じほくそ笑んだとミーシャは直感する。
次の瞬間、彼女の身体は水中に没した。
「★!?×★@×!!」
「!」
「あ、」「なぁ…あれ」「足つったんじゃ?!」
「←←!お嬢様」
「★おいジェズ!」「おまっ!」
沸き起こる騒然、褐色の肌は既に躍動していた。一瞬で腰を上げたかと思えば生徒らがその認識に至る間も無くジェズの身体は砂塵を道連れ宙を跳び、水難現場で豪快に上げた水柱を自ら掻き分けミーシャを抱えて飛び出した。救出に至るまでの流れは脅威的迅速かつ迷いが微塵も無い、あっと言う間の出来事だった。
「↑ぷうっ。──大丈夫ですか?お嬢様、」
「★っ~~×げほっげほっっ!───っはあ!はあっ×、はぁ、はぁ…はぁ……
──────……うん#…」
彼はざっと20m以上を助走も無しで瞬時に跳躍した事になる。男子生徒諸君ら心配はご無用、ジタバタ泳ぐ必要などジェズには無いのだ。明らかに常識ハズレなのだが、彼がメリーベル姉妹の召喚に応じ校舎の谷間をぴょんぴょん飛び交うのは日常茶飯事。何より一瞬だったため生徒らは呆気に取られ、ラピッドレスキューGJですんなり罷り通ってしまった。ゴールに先着していたケイトだけがその光景を一人静かに見守る。
ジェズに抱えられながらミーシャは両手で懸命に右の脹脛を押さえていた。
(×あ痛たたぁ~、足がつるなんて何年振りだろ?~~
…ってあれ?あたし、ジェズに抱きかかえられて……2回目?2回目だ!しかもこんな、↑こんな格好なのにっ#?肌…肌が直接肌とっ、ジェズの肌があたしに直!直に!#こんなに確りガッシリ!?ちょっと待ってちょっと待って!↑↑)
「☆★↑#やあああああ!?やわわわあばばば!何々っ~何やってんの?#→←何やってんのジェズううう→ぅうう←ぅう→っ!!」
「!あわわっ×あわあわ。~っもう、お嬢様危ないです暴れないで下さい。お嬢様が急に沈んちゃったからこうしてお連れしてるんじゃないですか。どうしたんですか?」
「#~~それが、急に足がつー……」
教師らの駆け寄ったプール角の階段より水から揚げられたミーシャは、足がつった瞬間を思い出してジェズの肩越しに日陰を垣間見る。暗がりの中では小さなメイドが先程と打って変わり、脚を浮かせず下を踏み締め静かな怒りを燻らせている、そんな風に映った。全て自分の気のせいなのだろうか。
「タタリがどうかしましたか?」
「★えっ?どうもしないけどっ?」
「そうですか。でもお嬢様、さっきからあの子の事をずーっと気にしておいでだったので。」
「!×↑ずーっと気にしてたのはジェズの方じゃない!」
「そりゃ気にしますよ、僕はしつけ役なんだから。でも最近はちゃあんといい子じゃないですか#。」
「↑むうううううっ!」
「×あれ?…なんで怒ってるんですか?お嬢様、」
「~怒ってなんかないしーい→!」
「やっぱり怒ってる。」
「←もぉお、しつっこいったら!っ……」
「「☆?#!」」
密に迫る身体と身体。互いに異性を強く意識し、二人は慌てて半歩だけ後退り視線を逸らせる。
ミーシャを心配して他の生徒らが声を掛けるものの、真っ赤な彼女の耳にはあまり届いていなかった。
☆☆☆
三日月を頂く星空は見た目こそ静かだった。夜中の海で唯一頼りに出来る光源、この国には灯台と言う物が無く、近海において夜間の航行は禁止されている。船の往来が増えた近年、この辺りは霧のせいで接触事故が頻発し、灯台を設置するも灯りに誘われ却って衝突の惨劇を招いたのだ。その霧も夏の間に限っては朝夕を除き全くと言っていいほど発生しない。今夜は雲こそ出ていないが、風が強く海上はそこそこ荒れていた。
「視界はまずまずだが……キっツいなぁ×、オイ。」
そうボヤいて頭のフードを捲り上げる。繰り鉤ことギギシ・カカシである。
揺れる船体の縁にしがみ付きながら大海原をもう一度見渡し、潮風にベタ付く頭をボリボリ掻いた。
懐中時計を月明かりに晒せば長い針と短い針が12の数字で重なろうとしている。手元の星座早見盤と方位磁石を見比べ上見て下見て身体の向きを補正、現在位置を入念にチェックチェック。船頭は別に居るのだが、自身の安全のため状況を任せきりには出来ない。待ち合わせの場所まで後もう少し。彼はご禁制の品の取引のため、小型と言うには少し大きい木造の老朽船に搭乗していた。
闇商売、時間ともかく、遠洋で。
これで昼間はきっちり学生の本分を全うしているのだから、この男もタフと言うか真面目と言うか。
「………お出ましか。──←おい大将、見えてるか?」
フードを被り直し入口から狭い操舵席へ首を突っ込む。中からタンクトップの浅黒い肌をした細身で厳つい白髪頭の老人が、舵を左右させながらくしゃくしゃの小さな眼で繰り鉤を一瞥した。
「見えてるに決まってらあな。こちとら島生まれの海育ちよ、早々見逃すけぇべらぼうめ。」
「頼りにしてるぜ。俺様ぁ他の連中を起こして来るからよ→。」
「ヘンっ、」
巻き舌の凄いガラガラ声のべらんめえ、船員は洞の手配した港湾運営機構傘下の漁師達である。洞としては裏社会に通じるその道の船乗りを揃えたかったのだが、望む人員は確保出来ず一般から募らざるを得なかったらしい。大概が稼ぎになれば何でもする連中、しかし中には洞の悪行に眉をひそめる真人間も少なからず存在していた。此度の彼らが当にその人らである。洞の手先たる繰り鉤に対し彼らの風当たりは当然厳しい。
所がどっこいそんな風など繰り鉤も馴れたもの。疎まれようとて商売衣装のフードの中は涼しい顔、一々かまけていられない。早々に休憩室を抜け出ると月光の下で明滅する船影を凝視した。
(──何だありゃ?)
波のうねりに翻弄される味も素っ気も無い幾何学的なシルエット、船名や船籍など示す物が無いばかりか煙も上げていない。金属製と思しき大きな箱舟が真っ向からこちらへ流れて来た。照明を点ける事も汽笛を鳴らす事もなく互いに荒波を乗り越え、次第に距離を狭めて行く。海上保安部の巡視船でない事だけは間違いないが、
「──────」
「~何でぇあの薄気味悪ぃ船は。付き合いきれねぇ。」
「そう言うなよ。無事に港へ戻れりゃ礼は弾むぜ、」
「奴隷商人の片棒を担ぐなんざ冗談じゃねえぞ。」
洞の商売を邪魔しようものなら何らかの形で必ず報復される。それと知ってしまった以上、個人の漁師など立場の弱い彼らが仕事を断る事は出来ない。重々承知の彼らは反骨精神を大いに奮い立たせるだろう。報復に借り出されるのは洞に所属する繰り鉤ら荒事師、自分の立場をさておけばこの男も弱者の気持ちに多少なりとも理解はある。されども立場は立場でさておけぬ、洞として甘く見られる訳には行かないのだ。
「ケッ。ここまで来といて何言ってやがる@、ツッパってんじゃねーっつの。少なくとも受け荷は生モンじゃねえぜ。」
「~ヘンっ、どうだか。」
(まあなあ。話聞いてねえ荷が忍ばせてあるなんざザラだしな。──それにしても←)
「こんだけ近付いといて挨拶一つ無しかよ。とりあえず合図は出してみるか。」
懐より取り出した手鏡を反射させ信号をしつこく送るが向こうから返答は何も無い。まるっきり見えぬ訳でもあるまい、そうこうする内に距離が1000mを切った。700m、400m、200m、
「大将、ボートを降ろしてくれるかい。ちょいと待っててくれや、」
「ヘンっ、→」
繰り鉤は月明りだけを頼りに真っ暗な海面へ飛び降り単身で箱舟に臨む。取引相手にせよ警察組織にせよ様子がおかしい。お得意の鉤捌きで揺れるボートを船に横付けすると、高さ10mは無かろう船上まで伸ばした縄を手繰った。船全体が波で大きく揺れており、ぶら下がるだけでも至難の技のはず。重たい鉤を巧みに操る腕っぷしは伊達ではない。
上下する無機質でだだっ広い甲板は船の揺れに合わせて繰り鉤の影が伸び縮みしているだけだった。
人の出て来る様子はなく、湿気が凄いのに荒涼として渇いた雰囲気。鋲の打たれた壁面に手の引っ掛けられそうな物が飛び出ている箇所を見付け、歩み寄り慎重に触れてみる。手応えは思いのほか軽く、レバーを掴んだまま容易く手前に引く事が出来た。
場所は箱船の平べったい登頂部、船橋らしいがやはり人の気配はしない。扉の隙間から覗くと闇の中に差し込む月明かりが見えた。繰り鉤は意を決し内部へ侵入する。
(───何でぇこりゃ…─────────)
天井の低さが気になるものの広さは学園の教室ほど、椅子と言わず床と言わず新聞雑誌のような紙片が雑然と散らばっている。盤上にはケトルとマグカップが数個まとめて置かれ、中にはコーヒーと思しき黒い液体の入っている物もあった。カチカチ煩いのは時計でなく窓辺に備えられたインテリアの衝突球、その隣ではネイティブな木彫りの像が船の揺れに合わせて寝返りを打っている。
かつての時のまま忽然と誰も居なくなったかのような空間、繰り鉤は揺れる暗い船の中で腕を翳しつつ周囲の様子に神経を尖らせた。
「……どの道こりゃあ取引の相手じゃなさそうだな。漂流船か、馬鹿デカいゴミ捨てくさって何処の船だ?ヘタすりゃ国同士のイザコザになり兼ねんぜ。──まさか流行り病で全滅した船なんて事ぁ無えだろうな×、洒落になんねーぞマジで。
───あ?」
窓から月の光が照らし出す床の一角、紙片に入り乱れ一冊のノートが下敷きとなっている。空気中の微粒子が舞うスポットライトの中を離れから伸び上がって見入ると、ノートは航海日誌である事が知れた。ギザギサの歯を剥き片手で額を押さえる。
「~ォィオイ×。止ーめろやこう言う展開ぃ…」
まるで三文小説。嫌気が差すも三歩先にまで近付き、立ち止まって覗き込む感じに身を屈めた。
ピン。やはりこのタイミングか、
「ベタな仕込みしやがって←←」
翻るローブの拡げた闇より蛇のような陰が飛び出し、暗い宙で鈍い音を立ててから即座に繰り鉤の懐へ舞い戻る。ドサりと床面の紙片を散らせて姿を現したのは人の影、潜んでいた殺気の群れがそこいらから一斉に飛び出して来た。ピンと反応したのは腕を翳して張り巡らせた動体察知用の懸糸、この場へ脚を踏み入れたその時既に繰り鉤は待ち伏せを把握していたのだ。
ピン、後ろ手に回した鉤爪の首がざらついた衝撃を余裕で受け止める。巻き込みがてら薙ぎ払うと襲撃者はあっさり得物を手放し飛び退いた。素早い反応だが繰り鉤には遅い。
「←←この教科書通り感、素性が透けて見えるぜぇえ?!」
「★!!」
間合いを取ろうとする犠牲者の脇へ鉤爪の頭がめり込み、横から襲い掛からんとしていた他の連中に仲間の体当たりを見舞う。繰り鉤がお暇させてもらおうと退路を急げば、出入り口に人影が立ち塞がり幾度か重たい衝撃音を立てた。繰り鉤は嘲笑う。
「←ケケケケケ☆!ドアなら壁に括り付けてあんぜ!閉めたきゃ縄切りな!!」
助言は戯言。言葉を受けて次の行動を取る隙もなく人影は頬を掠めて飛んで行った鉤爪の復路に轢かれ、転倒した所へ繰り鉤の猛ダッシュに文字通り蹂躙された。脱出先の甲板にはライフルを構える男の姿がひいふうみ、繰り鉤は止まらない。一瞬身を屈め船体が波に乗り上げた瞬間、横へ転げて豪快に船から飛び降りる。男達も追撃のため空かさず船の縁に駆け寄るが、その時点で彼らの上下関係は入れ替わっていた。鉤縄と船体の揺れを利用したモンキーアクロバット、繰り鉤は振り子のように男達の直上6mの高さへ達すると、三つの頸を縄に巻き込み2周目モンキー。三人纏めて海へ引き摺り落として自身は見事に甲板へ舞い戻った。
「~ハァ、ハァ、……ケッ。こーの教科書共、何処のどいつか知らねーが商売の邪魔だぜー?
とりあえずここはとっととバックれた方がいいな。───っ!?」
自分の乗って来たボートの方に身を乗り出して眼を剥く。銃火器で武装した一味の乗る別のボートが老朽船へ向かっているではないか。連中の目的は皆目判らぬが、彼らの横暴に対し一般人である漁師達が一溜まりも無い事は明らか。今からボートで必死に追い掛けたとて彼らの接触まで到底間に合わない。
「↑クっっっソがあぁあぁあぁあぁあぁあっ!!」
(洞として仕事を頼んだ以上、大将達の身の安全は俺様が保障しなきゃなんねえっ。反故にしたとあっちゃ洞は素より、繰り鉤の通り名に瑕が付くってもんだぜ!どうする……~どーすんだよっ俺様?←→」
忙しなく周囲を見回す、懐中を探る。有るのは鉤縄とせいぜい毒を詰めた小瓶くらい、投げ付けた所で届くはずもない。冷静を欠く、焦燥に駆られる。こんな事ならさっき飛び道具をカツアゲすりゃ良かった、もう遅えけど俺様が何とかせにゃどうにかせにゃ、こうなりゃヤケだちきしょうめい。
波に乗って宙返り、繰り鉤は半狂乱でモンキー3周目に突入する。
「↑↑ぶぅううえええええ!!」
今度は縄を放さない、4周目。
「↑↑るるるぁあああああ×!」
5周目、更にスイングバイ。
「↑×ぶぉおぉおぉおぉお@!」
6周の終盤で縄を放した。
「←←めぇええええへええええ!!卍×」
水平線目掛けてスポーンと飛んで行く、傍から見ると何だか楽しそう。この勢いなら敵のボートに追い付けようが、よくよく考えれば火器を持った連中相手に海の上で抗う術が無い。それ以前に連中を余裕で飛び越えてしまいそうである。海猿ギギシは何だかもう泣きそうだった。
「←←@★!×!!△▼?〒!卍卍×★~~~!!」
「起爆。」
真下のボートが盛大にズドーン。上がる水柱に追いやられ繰り鉤の進路は上方修正、優雅な弧を描き老朽船の手前で錐揉みしながら無情にボチャーン。隠し持つ得物が重たくて繰り鉤の身体は自然に浮かない。暗い海面で必死にバチャバチャあばばばしていると、漁師達が洞の手先の奇行を呆れて観ている事に気付いた。大将が渋い顔を見せる。
「………なぁあに遊んでやがんでぇ×、」
「↑@てやんでべらぼうめ!てやんでべらぼうめ!てやんでべらぼうめ!★ンがぶがぶがぶ××↓」
そこから釣り針に引っ掛けられ大きな玉網で何とかすくわれた。狭い甲板に水揚げされてぐったりする繰り鉤はさながらチョウチンアンコウ、漁師達の無言の視線を無言で威嚇してから濡れ鼠のまま所持品のチェックに取り掛かる。あれが無いこれが無いなどするうち別の船影が近くまで迫っているとの大将の掛け声、息つく間も無く繰り鉤は構えた。タフで間違いない。
暗色で塗装された中型船が電灯の光で信号を送って来る。送り主の顔をよく見て繰り鉤は頓狂な声を上げ確信した。
ロマンチック夜間飛行をさせてくれたのは取引先の用心棒「爆弾」だった。
乗船目的が猛烈抗議に刷り変わる。相手の商い人と書類や金銭の受け渡しを速攻で済ませて荷物の運び出しは漁師らに任せる。自身は船尾で襟の高いマントをはためかせながら独り黄昏れる爆弾野郎の所へ足を運んだ。足元にボートの撃破に用られたと思しき円筒形の火器が寝かせられている。シナモン色のボサボサ頭は些か白髪が増えたような、頬も一層こけて見えた。痩せたかコイツ、
「~~手前ぇか。」
「何を遊んでいた、」
「←手を出せたんならとっととヤれや!今まで何処ほっつき歩いてやがった!」
「海軍の工作船を迂回していたのだ。」
「ケッ、やっぱりな。あの感じブラスバンドの海兵かよ。船自体扱い馴れてねえクセに何処の国の物とも知れねえ船なんか使ってヘボい奴らだ。@上等に待ち伏せされたぜー?中途半端な仕込みしやがって、ヤる気あんのか??~奴ら何が目的だ?」
「軍の装備を横流ししている不逞な輩の正体を突き止めようとしていたらしい。」
「×手前ぇらの事じゃねーか、」
「陸軍は外貨が欲しいようだ。」
「他人事みたいに言うな。」
「他人事だからな。」
「古巣に戻ったんじゃねーのかよ、」
「俺は雇われたに過ぎん。今回の仕事で契約は切れる、軍とはこれでおさらばだ。」
爆弾の飄々とした態度が繰り鉤は気に食わない、これまでの鬱憤をぶち撒けた。
「~おうおう↑先月も地下洞で世話になったなぁ~あ。手前ぇら身内同士のケンカのせいでこちとら危うく生き埋めになる所だったんだぜ!?」
「生き埋めになってないだろう。俺はそのために抜擢された。」
「ぁあ?」
「あの閉鎖空間で模型屋を奴のオモチャごと余人に触れられぬよう迅速に始末するには、空間そのものを瓦礫で埋め尽くしてしまうのが最も効率的。しかし普通に爆薬を仕掛けようものなら自分達はおろか直上に在る国立美術館をも破壊しかねん。下手は打てない、故に俺が裏方へ回された訳だ。」
爆発物のエキスパート「爆弾」、闇社会でその通り名を知らぬ者など居ない。繰り鉤も一目置いていた。
「…軍の中で模型屋を獲り合ってたみてえだな、軍閥ってやつか。工場町のドンパチもそれだな?~こっちはいいとばっちりだぜっ。その時もそうだが、何だって奴は美術館なんぞに隠れてやがった?」
「工場町では事情が少し違うが…美術館の件について経緯は知らされていない。軍の極秘事項との事だ。」
「食人は美術館で模型屋の居る事に気が付いたんだぜ、」
船体が上下に大きく揺れる。波飛沫が甲板にまで上がって来た。
「─ほう、目聡いな。」
「まぁ、仕掛ける前に不意討ち食らって身動きが取れなくなっちまったらしいが。」
「どうなった?」
「手垢を付けられる前に『ブラック・ドゥーが模型屋をあの世送り』にしてる。最悪、奴のオモチャにされず済んだんだとよ。あん時ゃ上の美術館がガキだらけだったからな、アイツなら仕事着さえ無けりゃただのガキで誤魔化せるし。───←だいたいよぉ、」
繰り鉤は船の縁の爆弾に並び手擦りへもたれた。
「アイツの事を心配するぐれーなら…何故途中でアイツと手を切った?──────────」
何処となく語気が強い。爆弾は変わらない。
「己の不甲斐無さに収支が見合わなかっただけだ。あくまで原因は俺自身の問題にある。」
「アテにしてた『あの爆弾に見切られた』ってんでアイツの株は落ちまくりよ。借金背負わされて、調子崩して、失敗続きの怪我だらけ。すっかりケチが付いちまったんだぜー?
──手前ぇが他に雇われたのは別にいいぜ、でも獲物はアイツと同じ模型屋だったんだろ?ならせめてアイツに声を掛けてやるなり何なりしてやれたんじゃねえのか?オイっ、」
「本人に代わって恨み言か?そこまで想うのなら、──貴様があの娘を支えてやれば良かろう、」
「→俺様は当事者じゃねえっ。当事者なら筋を通して最後まで面倒見ろってんだよっ。」
「硬派か軟派か分からんな貴様は。」
「ケッ→。」
「災難だったが今なら気持ちを改められよう。食人が目の敵にしていた模型屋はもうこの世の者でなくなった。貴様も見たんだろう?」
「遠目にな。…あの『夜魔の爪』でド頭を鷲掴みに串刺されちゃさしもの殺人鬼も敵うめえよ、奴ぁ霧魔なんかじゃなくて所詮はキ印だからな。爆発の拍子に竪穴の下へ落ちちまったから、奴のくたばった面を直接拝めなかったが───見てもしゃあねえか@、長居も出来なかったし。」
「食人に会うなら伝えてくれ、」
「あ?」
「恨み言なら見えた時に直接聞いてやる、とな。」
「~↑手前ぇから見えて直接聞いてやれっての。」
「ぉおおい兄ちゃん、積み込みが済んだぞおおおおぉ。」
「!←おおしっ、今行くぜ!───あ?兄ちゃんだぁあ?」
「フッ、」
「~何だあ手前ぇ?」
「いや、何でもない。」
月夜の沖で愉快なサーカスジャンプと言う渾身のギャグを披露した結果か、はたまた積み荷が言葉通り奴隷などではなく戦用糧食であったためか、繰り鉤に対する漁師らの当たり方は多少軟化していた。不遇の食人の事を気に掛けている辺り、普段は危険な悪者を気取っているようだが根は普通にいい奴なのかも知れない。爆弾ことイグナーツ・クリューガーはその事について何か言ってやろうなどと思いもしたが、そんな軽口が大して意味の無い事に気を留め、隣でイラつくずぶ濡れのいい奴から視線を水平線へ戻した。
風が吹いている。三日月を頂く星空だけは静かだった。
☆☆☆
新興国トランプの片田舎、古くからメリーベル家が土地を丸々治めるジェムブルームは山に囲まれたいわゆる盆地である。昼夜の寒暖の差が大きく、日中すこぶる暑いこの時期でも夜中は寝苦しいと言う事がない。毛布一枚あれば快適な睡眠を得られるのだ。
それなのに寝床で快適になれず悶々と寝転がっている者が居た。酒蔵メリーベルの使用人、ジェズことジェズワユト・ウ・ナパンティである。
(───大事なお務めを果たした。新しいお客が増えて、旦那様方もお嬢様達も生き生きされてらっしゃる。いいご奉公が出来たんだ、それはいい。でも──妙な所で失敗した↓。
なんで「あんな処に僕の呪珠があった」んだぁ……それを「横取りされた」だなんてっ××~~~。)
暗い室内で悔しさに身悶えする。失敗とは黒ワイン初の標的、模型屋を辛くも下した直後の出来事にある。件の殺人鬼が長い年月を掛けて創り上げた悍ましきモニュメントの登頂部には如何なる経緯か、ジェズの追い求める彼の所有物「呪珠」と呼ばれる翡翠に似た宝玉が飾られていたのだ。彼がそれに気付いたのは略奪者本人より受領の旨を高らかに浴びせ掛けられたから。
夜な夜な粗末な自分の寝床に就くたび思い返される、手の届かぬ頂きで呪珠を握り締めた白鉄の斥候の哄笑が。
「↑ハーーーッハッハッハ☆!苦労が偲ばれるな、ブラック・ドゥー!!」
「★×!?───~おっ…お前はっっ!」
夜の工場町で手を煩わされた荒事師、鋼の鞭使いビアリス・レズリ・メズリだった。
彼女は美術館の不摂生職員に言葉巧みに取り入って建屋へ入り込むと、相手が鼻の下を伸ばし惚けている隙を突き、体良く一般の立ち入り禁止区域への潜入に成功していたのだ。その際に同区域を警官とは思えぬ仰々しさを醸す警官らが突入して来たため慌てて様子を窺っていると、まさかの地下洞でお望みの品にありつく事が出来た次第である。
「この呪珠さえ手に入れられれば第二王子は目的を達成出来る!←貴様らが何者かなど今更どうでもいい!せいぜいその辺りの脆灰共とじゃれ合っているが良いわっ!↑ハーーーハッハッハ☆!」
「★×?!…~~~ぉお×っ…↑おっっのっっれええええぇえぇえっ↑↑、」
何故こんな地下に自分の探し物が、何故第二王子の手の者がと言う疑問より、それを奪わせない術の残されていない事が悔しくて悔しくて仕方なかった。家臣と共に身も心も散々すり減らし多大な犠牲を払って追い求めた唯一の拠り所が、目の前で仇敵の手にまんまと奪われてしまう。普通の人間が持ち得ない様々な異能を体得していながら今はそれを行使出来ない、それは叶わぬと本能が告げていた。
不可能なものか。死に物狂いで夜魔の爪の力を揮おうと身体中の生命資源を今一度かき集めようとする。しかしその時一層大きい爆発が地下洞全体を震わせ、波動が衝撃となって彼らを激しく揺さぶった。
「★★★→×!?~~~っ!?×!!」
───地面へ叩き付けられたガラス細工のように『夜魔の爪は砕け散ってしまった』。──────
限界などとうの前に超えていたのだ。厭わなかった過負荷の代償が恐ろしい激痛となって全身を駆け巡る。
戒めより解き放たれた模型屋の長い身体が打ち捨てられたオモチャのように竪穴の闇の底へと墜ちて行く。
「?!~~っ、★ぐっ………!!がああああああああっ××、」
「↑ハーーーッハッハッハ☆!いいザマだ!こんな愉快な気分は久しいぞ☆、ハーーーッハッハッハ♪!!
@ハーァ、存分に笑わせてもらった。私はそろそろ撤収させていただこうかっ、さらばだ!→→」
「★×待てええええええっ!!×××」
振り絞った雄叫びは続け様の爆発音に掻き消された。悔しさのあまり潰れんばかりに歯を食い縛る。ぜえぜえと言う荒い息が堪え切れず咳のように喉から吐き出された。
嚥下して自らの使命を思い出す、彼には最後の大仕事「人目を避けてリュアラお嬢様を地上世界まで無事に連れ帰る」と言う大切な役目が残っていた。その完遂のためには略奪者の追撃など出来ようはずもない、第二王子の手先の高笑いに腸が煮えくり返る想いだった。
狭いベッドの上で横に転げて被った毛布ごと頭を揉みくちゃ。うーうーと小動物みたいに呻いた。
(~~あれが第二王子の手に渡ったなら今度は無傷で済まされないっ、絶っっっ……対に壊されてしまう!
…呪珠が無ければ、僕は「第四王子である事の証を示せない」っ!!×~~~
ぃ……言えない↓↓↓。こんな事、ナスカ達に言える訳が無い××。「緑」と言うだけで不当な扱いを受けている民草のため生命を捧げた人達にお詫びのしようが無いっ×!!あぁ僕はっ……僕はぁあぁぁ×~~)
体力的に回復し余裕も出て来たのだが、夜中で一人きりになるとジェズは大体こんな有り様だった。酒蔵では使用人として、学園では付き人として何かと慌ただしい一日の中、ゆっくり身体を休められる貴重なひと時がこれでは勿体ない。当人も寝不足気味の自覚は有り、独りで地味に焦る今日この頃である。
(~今の季節は朝の仕事が早いからとっとと眠らなきゃいけないのに、全っ然眠れないや×。暗礁密林に居た頃はこんな事なかったんだけどなあ↓………
……───
────────────────────────)
などと散々悩みまくっていた彼だが、あっさりすんなり寝息を立て始めたではないか。平素より目的達成のため図太くあろうとする嫌いはあるが、今夜の寝付きの速さはそれと恐らく異なる。いつもなら先程のストリームが計7セット程続けられ、いい感じにむさ苦しく疲れ果てて休みに就くはずだった。
何はともあれ、住人のモヤモヤジタバタが収まった室内は漸く落ち着きを取り戻した。カーテン越しの月の淡い光が狭い窓から降り注ぐだけで、部屋の中は深夜に相応しくひっそりと静まり返る。
それからどれほど時が経ったろうか、暗い静寂な部屋のドアが音も無く動き出した。
僅かばかりに生じた外界との境界を越え、得体の知れない何かが室内へ侵入して来る。微かな環境光に映し出されるのは白い薄布を被った何か。それを床に引き摺らせながらゆっくり進み入ると、部屋の中央で立ち止まり直ぐ傍のベッドの方を向いた。絹擦れの気配どころか周囲には空気の流れすら起きていない、この世のモノとはとても思えない。
白い何かは微動だにしない。この部屋の中に有るモノ全てを巻き込み時が止まったかの如く不動を貫く。
ベッドの上で堆くなっている毛布を見下ろすように存在したまま無であり続ける、空虚のままでいる。
カーテンを沁み通る仄かな月の光は静粛に、ただただ静粛に照らし出す領域を部屋の奥へと移ろう。
その光も外で雲が出て来たのか、徐々に薄らいで闇は一段と濃くなりつつある。白が融けて行く。
黒と白との曖昧が席巻する虚ろいの間隙、まるで動かなかった白い何かは緩々と動きを見せた。
重なる薄布の陰から細長く伸びた白い腕がベッドの上の毛布を捲る。剥けて現れたのは背中を丸め身を横たえるジェズの寝姿、呼吸はしているものの眠りが深いのか微かな寝息も聞こえない。白い腕は毛布を手放したまま暫く宙に浮いていたが、やがて元来た懐へと戻って行く。一呼吸の間を置いてから、薄布がするりと脱げて床の上で皺くちゃになった。
その中心には幽鬼のような小さな白装束が佇んでいた。
人の形をしたその体躯に比べ白い着衣は随分と丈が短く、袖や裾から生える白い手足は頼りない程か細い。全身は真っ白だが、口許から上が先割れて周囲の闇と同化し真っ黒で何も見えない。
「──────────────────」
空をすり抜けベッドの上へ掌を伸ばす。右、左。同様に膝も付いて行く。右、左。ジェズの曲げた腰から下を跨いで四つん這いに、そしてゆっくり身体を沈めると土の中からしがみ付く亡者のような格好になった。項垂れた頭部から下へ靡く真っ黒がジェズの身体を侵食する、黒と白の曖昧へと誘う。俯せたまま彼の上をよじ登り、体温や湿り気、生気までも余さず自らの身体に馴染ませながら這いずり上がって行く。
真っ黒が彼の寝顔のすぐ下まで辿り着いた。白装束の肩は微かに上下していた。
「───…、───…、───…、」
腰を捩り半身で彼の肩を押し退ける感じで仰向けに倒すと、そのまま身を預け胸元へ頭を埋める。こんな状態になってもジェズが目を覚ます気配は一切無い。そんな彼に白装束は腕と言わず足と言わず頭も胴も自らのありとあらゆる部分を擦り付け始めた。肉身を癒着し一体化でも図ろうとするかの呪術的で狂おしい何かが激しさとなって儀式に顕れていた。
半身を起こして立てた両腕の間に彼の頭を挟み込む。いつの間にか白い何かは息を荒げていた。
「───ハアァ…、───ハアァ…、───ハアァ…@#、」
シーツも寝間着もぐっちゃぐちゃ、それでもジェズは全く目覚めなかった。身辺の異常には野性的な本能の働く彼だが今夜は野性も本能も仕事をしない、眠りがとても深いなどと言う単純な理由ではなさそうだ。白装束は真っ黒の内側から彼の安らかな寝顔を中てられたように眺めていたが、口許に黒い裂け目を横切らせ、中から軟体動物の如き物体を垂らし始めた。
糸を引く光の筋は粘性のある滴り、蠢く物の正体は「舌」だった。どうやって口内に収められていたものか、か細い手足とは対照的で体躯に不釣り合いなほど太くて長い。両肘をゆっくり曲げて彼の顔のすぐ傍まで迫ると、そのごん太を彼の鼻先で右へ左へくゆらせる。振舞いが殆ど「生贄を前にして悦に浸る妖怪」のそれである。
最早頭へ覆い被さらんと腰を浮かせ馬乗りになった。辛抱堪らぬ勢いで彼の顔を左右から鷲掴みにする。
「…っハアアァハ#、…っハアアァハ@、…っハアアァハ卍卍」
不気味な舌で彼の口を貪るように嘗め回すと少しだけ仰け反り身震いした。
白装束は顎を下ろし唾液に塗れたその箇所へいよいよ切っ先を圧し当てる。
「#っ!←←←」
「~そこまでだ。化け物めっ、」
「★っっ───────────────
───……~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっ卍卍卍!!」
怒りの込められた険のある言葉が化け舌の侵入を留めさせる。実と虚の錯綜する異常空間の結界を一声で破り、静寂だった元の現実世界を取り戻した声の主が室内に踏み込んで来た。
手元のランプに明かりを灯して現れたのは虹族第四王子の忠臣、ユーディー・ナスカだった。
「何かしら殿下に仕掛けて来るとは思ってたんだ。にしたって…一体何をするつもりだった?気持ち悪い×。
←とっとと殿下から離れろ!」
「…張っていた下忍か。~~~無粋…無粋、無粋っ、無粋卍っっ。下衆が。」
翳された小さな明かりに化け物の白と黒とが晒される。
反射的に眼元を覆いジェズから自らを引き剥がして下衆と対峙したのは、白い肌小袖を着たタタリだった。
闇と同化していた伸び放題の黒髪の内側から私怨の渦巻く視線を向け、慌てた様子も無く着衣の乱れを静かに正す。長い舌はいつの間にか小さな口の中へ収められていた。嗄れた高い声は見た目の幼さ不気味さと裏腹に言い回しが理知的で、普段の拙い素振りは猫を被っていたのかと勘繰らざるを得ない。
ユーディーが斜に構える。赤いセパレートの民族衣装が明かりの中で大きな胸を殊さら威圧的に見せた。
「私は殿下が治療を受けてた病院とやらでお前を見た事があるんだ。
初めっから患者が変な子供ばかりでそもそもおかしいなとは思ったんだ。それでも何か妙だ妙だと探っていたら『お前』だった、──他の子供に紛れてお前だけが『飛び抜けて異様』だったんだ!…と言っても妙な土地の妙な場所だし、あの時はこっちも色々忙しかったから構ってられなかったけどね。でも、そのお前がこの酒蔵に押し掛けて来たと分かってからずっ~~~っっと警戒してたんだっ。ご覧の通りの案の定だ×!
…さあ白状しろ、↑お前の目的は一体何だ!?」
心の臓を突き刺すような凶悪な目付きで妖怪を睨む。顔立ちこそ人懐っこく愛嬌はあるが、表情だけで生命を奪えそうな凄みがあった。褐色の体表には尾を引く白い六芒星の紋様が揺らぐ明かりに映し出されている。暗礁密林の虹族の異能、ヤドリ「煌闇精」。ユーディーは殺る気なのだ。
殺気を孕んだ糾弾を受けてもタタリは身動き一つしない、手足を弛緩させたまま猫背で詰問に応じる。
「殿は近ごろ眠りが浅くて困るとお悩みのご様子だった。」
「…との?」
「だから私が殿のご就寝のお手伝いに参じた次第じゃ。」
「?───そのお手伝いが★@あのベロベロお??↑フザけるな!子供のやる事などと騙されるもんか!
××あぁもーぉ。←殿下、そろそろいいですよ、起きて下さいっ。」
シーン。呼び掛けにジェズは無反応だった。寝ているフリで狼藉者を欺いているとの忠臣の読みは大外れ、我が君は穏やかな表情のままぴくりともしない。口の周りはべちゃべちゃだが。
「───殿下、──殿下?ちょっと…殿下ってば×、」
「殿はお休みじゃ。今宵はご緩りとさせて差し上げるが良い。」
「★?」
(殿下が───眠らされた??いやいやいやそんな事って×。毒……薬?そんな物が殿下に効く訳ないし……あ、でも前に変な薬飲んじゃって鼻血が酷かったとか言ってたかな?それにしたって×……気絶だって簡単にさせられるはずもないし……これって一体?!)
「お前っ←、殿下に何をした!?」
「『ご就寝のお手伝い』をしたまで。案ずるな、──私に仇なす気などこれっぽっちも無いわ。殿なら日の昇る時分には自ずとお目覚めになられよう。」
「あのベロベロで、そんな事が……」
「?味見をしようとしただけじゃ。」
何のじゃ。前傾姿勢のユーディーが三白眼で黙りこくる。タタリは口惜しげに不服を申し立てた。
「興が乗っていよいよこれからと良い感じに昂ったと言うのに、~無粋なお邪魔虫のせいで折角の心地好い気分が藻屑の泡だわ×。──覚えておれ。機会は改めてからの。」
「★改めんでいいいっ。×全く、何が味…───」
注意を逸らしたほんの一瞬、初見の時と同じ違和感を抱き横目に捉えようとするが、そこにタタリの姿はもう無かった。妖怪の立っていた場所を真正面に見据えユーディーは愕然とする。何が起きたのか全く分からない。隠密を得意とし、気配には鋭敏で自信もあるだけに、出し抜かれた事がとても信じ難かった。
しかし、そんなタタリの言葉を鵜呑みにする訳ではないが、主に危害を加える事は無かろうとも察した。これだけの能力の持ち主なら害する気があればとうの昔に実行していたろう。
(キモくてヤバい奴↓。でも、…付け入る隙はまだあるっ。───殿下に変な事なんてさせない!)
この後、主が目覚めないのを良い事に味見と称してユーディーがおいしい主の血をこっそり頂戴しようとしたり、見張りの交代で駆け付けたザクレアの嫉妬と怒りのゲンコツが不届き者の脳天に直撃したり、寝汗にしては生臭くジューシーな主の寝間着を取り換えようとする痴女二人が当直の家政婦長に見付かってお裁きを受けたり、酒蔵の夏の夜はイベントが目白押し。寝不足に悩んでいたジェズは図らずも良い睡眠を得られたものの、図太く寝坊をしてミーシャの真空飛び膝蹴りで強制起床させられるなど朝になってもドタバタが収まらなかった。
夏服の学生達でごった返すダウジングロッドまでの汽車の中、車窓の横でミーシャはいつも通りに参考書に目を通す。ふと視線を上げれば正面に座る姉のリュアラがいつもの通り小説を読み耽っていた。左肩に圧を感じて真横を見遣ればジェズがいつもの通りプチ寝でもたれ掛かって来ていた。朝寝坊したくせにと呆れて息をつくが、今はこの「いつもの通り」がとても喜ばしい事なのだとミーシャは切に感じていた。
(───何だろ、♪変なの。)
そして。決して視界から外していた訳ではなかった新たないつもの通りを知覚してしまい、彼女は自らの認識を改める。姉の右隣、ジェズの正面、夏の前まで誰も座らなかった席に、今は小さなメイド服がか細い足をプラプラさせつつ鎮座していた。そうか、そうだね、居たんだよね、
「………」
「──@、──♪、──…、───。」
口だけオバケがこちらに気付いて嗤ったように見えた。恐らく気のせいだけど絶対に錯覚ではない。??
(ぁああもうっ、何がどうしてこうなった??)
彼女達の熱い夏は白昼夢のようにまだまだつづく。
こちらの投稿後、過去回を微修正します。
登場人物が多くなって来たので後書きに少し纏めようかな。




