3.王子の下心
花は控えめに、緑が広がる爽やかな湖畔。
日差しは柔らかに風も優しく、大きな木の下にシートを敷いて持参したバスケットを広げる。
どうぞ、と言う間もなくバスケットに伸びた手が、サンドイッチを掴み大きく頬張った。
「うめー。何これ」
がさつな感想は、殿下ではなくユドリムのものだ。
お忍びで訪れた殿下お気に入りの湖で、私たちはピクニックをしている。
ひょいと残りも口に放り込んだユドリムの、無骨な手がまたバスケットに伸びた。その手を私は叩き落とした。
「ちょっと。まだ食べる気なの?」
「毒味ですよ、お嬢様」
それはユドリムの立場上、そして殿下の立場上では仕方ないことだと理解している。いくら友人だという私が持参した、父が抱える自慢の料理長のサンドイッチだとしても、だ。「すまない」と謝る殿下の立場では、免れることのできない確認行為なのだ。
一番は譲り、しかし納得できないのはその図々しさである。
「わきまえることをご存知ないのかしら」
「こっちには毒が入ってるかも」
「入ってないわよ!」
「確かめないと」
「ちょっと!」
私の制止は聞かず、ユドリムはふたつ目を同じように大きく頬張った。
「うんま。殿下、毒は入ってないようです」
「当たり前でしょ!?」
憤る私に、殿下が気をそらすようにユドリムを真似てサンドイッチを口にした。普段はそんなマナーを逸した食べ方などしないのだろう。口の端にソースつけた殿下が、頬を膨らせたままもごもごと笑顔を向けた。
「美味しいな。ブランカはいつも、こんなに美味しいものを食べているのか」
「王室の食事と比べたら劣りますよ」
そっとハンカチを取り出し、殿下の口元を拭う。
気づいた殿下は、顔を伏せて恥ずかしそうに手のひらで顔を覆った。
「……ユドリムが、あんまり美味しそうに食べるから。だけど、慣れないことはするものじゃないね」
口の中のものを飲み込んで、はぁと息を吐いた。
私はそんな殿下が可愛らしく、くすくすと笑う。
「アルヴィン殿下はあんなマナーのなっていない食べ方を真似しないでください。いつも通り美しい作法で召し上がっていただいた方が、美味しく見えて私は嬉しいです」
まだ、少し。隠されていた口元に残りのソースを見つけて、優しく拭い取る。
今度は大人しく私に任せてくれた殿下の、深い碧の瞳が優しく熱を持った。至近距離で空気をかわせない私は、思わずその視線を受け取ってしまう。
私たちの間を流れる風に、冷たさを感じるほどに眼差しが熱くなって。
「マナーの悪い汚ねぇ食べ方ですみませんね」
ユドリムが、ぶち壊す。
「……アルヴィン殿下、取れました」
「あ、……あぁ、ありがとう」
そそくさと離れた私たちは、お互いに顔を背けて居住まいを正す。顔が熱い。
殿下をちらっと見れば、そちらもそちらで熱を冷ますのに必死そうだった。
木の葉が揺れる音に潜めて、ユドリムが「ウブすぎじゃね」とあくびを噛み締めた。
雲は高く、空はどこまでも澄んでいる。
水面は降り注ぐ太陽の光を反射してきらきらと揺らめき、たまに小魚がぱちゃんっと音を立てて跳ねた。
持参したバスケットをすっかりからっぽにした私たちは、ゆったりとした時の流れの中で湖のほとりを歩く。
「ここはいつ来ても穏やかでいい。ブランカは、どうだろう。暇ではないか?」
「とても静かで、日常の音を忘れそうなくらいに心地良い場所ですね。アルヴィン殿下のお気に入りの場を教えてくださり、ありがとうございます」
「この間、君がそう言ってくれたからね」
殿下は嬉しそうに足取りを軽くした。
人の気配がなく自然の広がる湖は、街中で殿下と並ぶよりも心が開放的だった。それは第三王子と連れ立つ女性は誰かという好奇や妬みの目がないからということもあるが、一番は、殿下への奇襲を人の多さの中で疑心暗鬼しなくてもいいという安心感からだ。必ず護衛騎士たちが守ってくれるとはいえ、だからといって襲われることに恐怖を感じないわけではない。
――すでに何度も、乱雑ではあるけれどユドリムに守られている。
「あっ」
そんなわけで、いつもより気を抜いていたせいだろう。
人の気配がない自然というのは、つまり、人の手があまり入っていないということだ。整えられていない水辺のほとりは背の高い草が多く、何も考えず殿下について歩いていた私の足は見事に取られて後ろにひっくり返りそうになった。
「……何してんの」
私の背中が微動だにしない壁に当たった。否、ユドリムの胸板によって転倒を免れ、支えられた。「ごめんなさい」と慌てて離れようとして、ひねってしまったらしい足の痛みに耐えられずまたユドリムにもたれかかった。
「ブランカ?」
殿下も気づき、すぐにはっとして申し訳ないという面持ちになった。
「す、すまない。君の手を握っておくべきだった。いや、そうじゃなくとも、こんなところを君に歩かせるべきではなかった」
「私が勝手に足を滑らせただけですから。アルヴィン殿下のせいではありません」
「いや……いや、あまり、君に軽々しく触れるべきではないと……エスコートではないからと、躊躇してしまっていたから……」
「それは殿下のお心遣いでしょう? お気になさらないで……」
「し、下心になってしまうと、思ったんだ」
「したごころ……?」
萎んでいく殿下の言葉を、私は目を丸くして繰り返した。した、ごころ。……したごころ……下心……!
さらりとストレートに私を揺さぶってくる、いつもの殿下ではない。堂々さはなくて後ろめたそうな、そんな、殿下の下心。
駆け上がる羞恥心に口をはくはくとさせた私を見て、殿下は早口になった。
「ば、馬車を近くに呼んでくる。足が痛むだろう、ここで待っていてくれ」
「え。殿下、そういうのは俺が」
「ユドリムはブランカのそばにいてくれ」
「え。……はーい」
駆けていく殿下に、待機を命じられた私とユドリム。
安定感抜群の胸板にもたれっぱなしだったことに今さら気づき、再度離れようとしてまた痛みに顔を顰める。ユドリムが煩わしそうに息を吐いた。
「ちょっと抱えるけど、騒ぐなよ」
「え?」
ユドリムの片腕が腰に回され、言葉通り固定するように私を抱えた。
空いた片手では器用にペリースを外し、足元に広げて放る。
「ほら、座っとけ」
ひょいと、殿下に抱き上げられた時よりも軽く、そして難なく広げられたペリースの上におろされた。
「あ、りがとう……」
「ドウイタシマシテ。ずっとくっつかれてても困るんで」
「それはごめんなさい。不可抗力よ」
「殿下もお前も、俺のこと許容しすぎじゃない?」
お前……?
ユドリムの本性を見た時から、いえ、それ以前からバカにされていたことには気づいていた。本性を知った日を境に、私に対して敬語が薄くなってきたわね……とは思っていた。思っていたけれど、殿下の手前なにも言わずに受け流していたのだけれど。
「お前……?」
よく俺の目の前で二人の世界に浸れるよな、とか。俺マジで空気かよ、とか。
軽口を叩くユドリムは私の様子には気づいておらず、というか本当に私のことを気にしていない。
あまり生まれ育ちをひけらかすことはしたくないけれど、ここまで適当で、丁寧に見せかけて徹底的にぞんざいな扱いもはじめてだった。
たかが「お前」呼ばわりで、私に興味のない輩に説教をかます労力を割くのも馬鹿らしい。ぐっと怒りを堪えて、目の前にすらりと立つ二本足を私は睨みつけた。
「いって! なんで蹴るんだよ、元気じゃねぇか!」
殿下が戻ってくるまでに、私はもう片方の足も痛めた。




