28.それでも、お前のそばに(ユドリム視点)
その後の仕事には身が入らなかった。
気づけば上の空で、通り過ぎる楽しそうなやつらをなんの感情もなく眺めて。
問題ごとが起きれば少し気はまぎれるけど、手持ち無沙汰になるとあのお嬢様の姿を空見してしまって。
まだ明るさの残る夕刻に、ランタンの火入れを合図に俺は夜の担当者へと仕事を交代した。
「あー……情けねぇー……」
心ここに在らずな俺は、足が向くままにやってきた花畑に座り込む。
お嬢様に言葉をぶつけられてから、あんなに荒ぶっていた俺の気持ちは嘘のように平坦になっていた。
『僕にとってお前は恋敵だが、大事な友人でも、騎士でもある。ブランカほど簡単に、お前を諦めたりしないよ』
殿下の手紙に書かれていたこと。深刻になりすぎず冗談めいて書いたのだろうが、あれは殿下の本心だ。人のいい殿下だからこそ、俺がどれだけ悩んだところであっさりと見透かして受け入れちまう。あの懐の広さには、敵わない。
「簡単に許しちゃいけないんですよ、そういうのは……」
殿下の初恋の相手。長年片想いをして、やっと近づけたお嬢様。ぎこちなくて初々しい二人の姿を思い返して、胸が痛くなる。
——俺が邪魔しちゃダメだろ。俺とは比べものにならない尊き血筋の二人が、くっつくべきだったんだ。
「情けねぇなぁ、本当に」
お嬢様の意識が俺に向いていることには気づいていた。軽蔑の目を向けてくるから、安心していたんだ。あぁ、他の令嬢とは違うなって。
それが、いつから変わった? 好意を向けはじめたのはいつだ? お嬢様が……俺が、目で追うようになったのは。
ふと頭に浮かんでは胸が苦しくなって、触れられる理由をいつでも探すようになって。
押さえきれない想いが、俺を惑わそうとした。わざわざ捕まりにくるから、何度も捕まえてしまいそうになった。
そのたびに、俺は理性で自分を押し殺してきたんだ。
「俺は自分のことばっか考えてたっていうのに……」
平民で孤児の俺と、国の第三王子。比べるまでもない。お嬢様を幸せにできるのは、絶対に殿下だった。
二人が結ばれることを、誰もが期待していたんだ。俺がそばにいることでお嬢様の気持ちが揺らぐことも、殿下が察して身を引くことも絶対にあってはならなかった。だから俺は、これ以上近づきすぎる前に離れたんだ。
なのに。
「あいつら、俺のこと好きすぎだろ」
殿下を振ったお嬢様も、長年の恋を終わらせた殿下も。どうしたって、俺のことは諦めてくれないらしい。
公爵令嬢なのに、こんな辺鄙な小さな町にまで追いかけてきて。殿下にしたって、騎士を辞めた平民の俺にあんな手紙を書いてまで。俺たちの関係が、こじれるかもしれないとわかっていても。
「あの二人は、ちゃんと答えを出したんだよな……」
その上で、俺が戻ることを望んでくれる。
それがどんなに嬉しいことか。心のままに自分も動いてしまいたいと、心が揺らぐ。
「……いや、ダメだろ。相手は貴族だぞ」
考えを振り切るようにして俺は首を振った。そして、自分にわざと現実を突きつけて戒める。
触れることを許してくれるお嬢様に、欲に駆られて俺がうっかり手を伸ばしてしまわないように。
——とはいえ。
『ユドリムは自分の気持ちをまったく隠そうとしないわよね』
お嬢様の言葉を思い出して、俺は自己嫌悪で倒れ込んだ。
「バカじゃねぇの、俺。かっこわる……」
どんなに押し殺しても出てきてしまう。どうにかしてそばにいたいという、奥底にしまい込めない本心が。
ズボンのポケットから折り畳んだハンカチを取り出す。ハンカチには、お嬢様に押しつけられた青い花を挟んでいた。布が水気を吸い取り、花の形が壊れていないことにホッとする。青い花を、わざわざ選ぶなんて……。
と、そんな些細なひとつひとつのことを気にする自分に、「ぐぅ」と唸る。
「俺らしくねぇー……」
ごろごろと転がって羞恥に悶えていると、草を踏み締める音が地面を伝って耳に届いた。
ここは王都じゃないし、俺はもう殿下の騎士でもない。けれど、体に染み付いた癖というのはなかなか抜けないもので。
すぐさま体を起こした俺は、覚えのある足音に声をかけた。
「母さん?」
杖をついて歩く養母が、「あらあら」とゆっくりと俺に歩み寄った。
「ユドリム、警備の仕事は終わったんでしょう? 着替えないのかい?」
「あ。忘れてた」
制服のままで、そんなに考え事に耽っていたのかと気恥ずかしくなる。
隣に座ろうとする養母に手を貸すと、記憶していた手よりしわが増えていた。
「こんなとこに来るなんて、どうした?」
「ちょっと風にあたりにね。お前こそ……」
養母は言いかけて、ふふっと笑った。
「何をずっと悩んでいるのかと思えば、恋煩いだったのね」
「えっ」
「ユドリムをそんな風にしてしまうなんて、ブランカ様はすごいお方だわ」
そう言って、養母は俺の手にある花を優しく見つめる。その眼差しから隠すように、俺はハンカチを丁寧にしまいこんだ。
「違う。……お嬢様が、俺のことを諦めてくれなくて困ってるんだよ」
まるで、思春期を迎えた子供の言い訳のようだ。養母に目を合わせられず、思わずそらしてしまったことも。
そんな俺に、養母はくすくすと笑いを収めようとしない。
「本当に迷惑なら、はっきり断ればいいのよ。いつものユドリムならそうしているわ」
「断っても聞いてくれないんだ」
「それだけブランカ様も本気なのね。ありがたいことね」
「ありがたくねぇよ……」
ぼそりとつぶやく。それが本心じゃないことなど、養母にはお見通しだろう。
「護衛を連れてないから、ほっとけもしねぇし」
「そんなこと言って、興味がなければとっくに切り捨ててるだろうに。でも、お前はそれをしないじゃない」
やっぱりお見通しだった。痛いところを突かれて、俺はまた「ぐぅ」と唸る。
「それだけ思い悩むくらいなんだから、好意を受け取って差し上げたらいいのに」
「無理だよ。相手は貴族だって」
「貴族だろうと、お前は気にしないでしょう」
「いや、さすがに気にするけど……」
「あら、そんなことないわよ」
そんなことなかったら問題じゃねぇか……?
俺のことをなんだと思ってるんだと養母を見れば、養母は沈みゆく夕刻の空を見上げていた。
「迷うくらいなら、飛び込んでいく。私がずっと見てきたお前は、そうだったよ」
……そうだ。これまでの俺なら、そうだった。養母の負担を減らしたかった俺は、養母が止めるのも聞かずに早くに孤児院を出て仕事を探した。傭兵は危険がともなったし、殿下の騎士選抜も怪しい書き出しに尻込みするやつが多かったけど、迷いはいつも二の次で飛び込んでいった。
俺は、俺が自分で決めたことに一直線だったから。
養母はまぶしい空を見るように、目を細めた。
「でも、それができないほどに、ブランカ様はお前にとって大切な方なんだね」
養母の優しい声音に、俺も本音を漏らす。
「……俺とは、住む世界が違うんだよ」
「住む世界ねぇ」
静かに考えて、養母は口を開く。
「何もせずに後悔するより、死ぬ気で足掻いたあとに後悔するほうが絶対にいいわ。お前の性格なら、なおさらに」
「でも……」
「だって、好きになってしまったなら、もうどうしようもないじゃない」
はっきり「好き」と言葉にされて、俺の胸がどきっと跳ねた。
「お前は、実力で王子殿下の騎士になったんだから。ブランカ様とのことも、きっとうまくいくよ」
しわくちゃの手で、頭を撫でられる。幼い頃はよく撫でてもらっていた、懐かしい感触。
「大丈夫よ、ユドリム」
にっこりと笑って、養母は杖を頼りに立ち上がった。
「さ、私は家に戻りましょうかね」
養母がゆっくりと歩き出すと、夜の湿り気を含んだ風が吹いた。花が揺れて、俺の中の雑念を少しずつ押し流していく。
『私たちは、私たちの答えを出していいのよ』
本当に、いいのかよ。
こんなにも誰かを欲したことはない。こんなにも胸が苦しいと思ったことはない。どんなにお膳立てされても、迷いや不安も消えない。なのに、どうしても。
——それでも、お前のそばにいたい。
「母さん」
俺は、杖をついて歩く養母を呼び止めた。
「俺、王都に戻るよ」
振り返った養母は、俺の答えをわかっていたようだった。
「いってらっしゃい、ユドリム」
見上げた空には藍色が広がりつつあって、月は少しずつ高く昇っていく。今はまだ白い月は、やがて真っ暗な空を煌々と照らすだろう。
太陽とは真逆の月に急き立てられて、俺はようやく動き出した。




