22.雨の宿
「部屋が空いてないって、なんでだよ。今朝までガラガラだったじゃねーか」
「だから、二日後には花祭りがあるだろ? お前だってそれ目当てで帰ってきたんじゃないのかよ」
案内された宿のカウンターで、ユドリムと宿の店主が話し込む。店主とは馴染みらしく、二人の間には気安い言葉が飛び交っていた。
「お前の連れなら、お前のとこに泊めればいいだろ」
「布団がねぇよ、バカが」
「いや、布団って……」
店主が私に目を向ける。なんだか、値踏みされるような視線を受けた。ユドリムが店主の顔の前に手を出し、すぐに遮断されたけれど。
「こいつはそういうんじゃない」
「ふーん……」
よくない誤解をされていることは、よくわかった。
「とにかく、今は空きがないぞ。いくら金を積まれても、ないもんはねぇんだ」
店主がはっきりと断り、ユドリムは舌打ちをした。ガラの悪さが殿下の騎士をしていたとき以上に出ている。ただ、ここではそんな態度のほうが普通なのだろう。店主はユドリムに目もくれなかった。
ユドリムは、仕方ないといった様子で私を振り返る。
「……こっち」
店主の私に向ける好奇心を遮りながら、ユドリムは二階の部屋に私を案内した。
「部屋は空いてないんじゃなかったの?」
「ここは俺が借りてるとこ」
ユドリムの背丈ほどの扉を開けると、部屋からはユドリムの使っている香水の匂いがほのかに香った。
「ベッドが一つしかなけれど……」
「そりゃ、一人部屋だから」
部屋の中には備え付けのベッドとテーブル椅子が一組あるだけで、とても簡素な作りをしていた。椅子の背もたれに掛けられた服や、あちこちに置かれた荷物がユドリムの生活感を出している。店主の誤解もあり、そんな、なんでもないことに私の胸が騒ぎだした。
ちらりとユドリムを見上げると、ユドリムは私の視線から逃げるように部屋の中の私物をまとめ始めた。
「俺は出てくから、この部屋はお前が使え」
「え? ユドリムはどうするの?」
「俺は外でもどこでも寝れるよ」
荷物を乱雑に詰め込んだ布バッグを背負って、ユドリムは部屋を出ていこうとする。
「待って、そんなの……」
ユドリムを引き止めようとしたところで、階下から男たちのがさつな笑い声が響いた。外出していた宿泊客が戻ってきたようだ。階段を上がってくる足音に、私の体は自然と強張っていく。男性に対する恐怖心はかろうじて植え付けられなかったものの、粗暴な男には萎縮してしまうようになってしまった。
男たちが部屋の前を通り過ぎるまで、ユドリムは私を背中に隠してくれた。
「ここは王都じゃない。みんながみんな悪いやつじゃねぇけど、ああいうやつらはそのへんにいるぞ」
「……わかってるわ」
「帰ったほうがいいんじゃねぇの?」
「それは嫌」
私は、ユドリムを諦めないと決意してきたのだから。
私の即答に、ユドリムは「あ、そう」と離れていった。
「鍵、ちゃんと掛けろよ」
「ちょっと、ユドリム……!」
「じゃあな」
階段を下りていくユドリムは、私の呼びかけに足を止めることはなかった。
それから少しして、外は雨が降り始めた。雷が鳴り始めた途端、バケツをひっくり返したかのような豪雨。
薄い屋根のせいか、雨の音が近くて私の中に不安が増す。窓から差し込む雷光も、夜空に轟く雷鳴も、そんな天気など意に返さない男たちの盛り上がる声も。
私の中に、恐怖心が募っていく。知らない場所に一人だという、孤独の恐怖心が。
薄っぺらい枕を抱きしめて、私はひたすらその時間に耐えていた。就寝には早いけどもうベッドに入ってしまって、こんな夜をやり過ごそうかと考えたところだった。
突然、部屋にノック音が響いた。
——誰?
雨と雷のせいで、足音が聞こえなかった。一階から上がってきたのか、それとも二階にいる宿泊客なのか。町にやってきたばかりの私を訪れる誰かなんているはずがなく、もしあの男たちだったらどうしようと血の気が引いていく。私が返事をできずに固まっているとノックが繰り返されて、明らかに私がいるのをわかって叩いているようだった。
どうしよう……。抱きしめている枕が心許なくて、涙がにじんできた。
すると。
「おい、鍵開けろ」
聞き慣れた声に、私は顔を上げた。
「ユドリム……?」
「そうだよ。ちょっと、本当に早く開けてくれ」
私が鍵を開けると、ユドリムは騒がしく部屋に入ってきた。
「だーっ、もう、最悪だ。急に降ってくんじゃねぇ!」
ユドリムの髪は濡れ、服も荷物も湿っているようで。うまく雨をかわして歩いたとしても、この降りようなら濡れないのは不可能だ。
孤独だと思っていた空間にユドリムが入ってきて、私の中の恐怖心は綺麗に消えてしまった。ほっと安堵した私に、ユドリムは驚いて目を向けた。
「どうした? なんで泣いてる?」
「な、なんでもないわ」
「何かあったのか?」
「何もないわ! それより、髪を拭きなさいよ」
後ろを向いて、私はこっそりと涙をぬぐう。私の荷物からタオルを出してユドリムに手渡すと、怪訝そうにしながらも素直に受け取った。
「雨が降ったから戻ってきたの?」
「お嬢様の夕食を忘れてたから持ってきたんだよ」
頭にタオルをかぶったユドリムは、荷物とは別の包みをテーブルに置いた。
「スープとパンが入ってる」
「……あなたって、なんだかんだ面倒見がいいわよね」
「うるせー」
「ユドリムは食べたの?」
「食ってきた。だから、それはお前の分」
お腹も空いていなかったし、夕食のことなんて私が忘れていたくらいなのに。包みをひらくと、スープもパンもまだあたたかかった。ふんわりと美味しそうな匂いがただよって、私のお腹が刺激された。
「ありがとう。いただくわ」
「おう」
スープは塩のみの味付けのようだ。ただ、野菜がふんだんに入っていてよく煮込まれている。旨みが詰まった、シンプルで素朴な味わいだ。パンは硬いが、スープにつけるとほどよくほぐれてちょうどいい。小麦もちゃんと香った。あたたかくて、今の私によく沁みた。
「美味しい」
「そりゃよかった」
髪を拭くユドリムは、窓の外を眺めていた。
「通り雨かと思ったら、しっかり降ってやがんな」
雨は変わらず宿の屋根を激しく叩きつけている。雷は通り過ぎていったようだが、それでも遠くで不機嫌そうにうなり声を上げていた。
「まだ外で寝る気でいるの?」
「この雨の中で外はきついな……」
そう漏らしながら、ユドリムはちらりと私を見た。「なんで泣いていた?」という、ユドリムの鋭い観察の気配を感じる。なんだか居た堪れなくなって、私は食事の手を止めた。
「あ、あのね、ユドリム」
おずおずと切り出すと、ユドリムは静かに私の言葉を待った。
「……実は私、雷が怖くて。ユドリムが一緒にいてくれると、心強いのだけれど……」
当たり障りがないだろう理由の一つを白状すると、ユドリムは目を瞬いた。
「雷?」
「うん」
「怖いのか?」
「……うん」
間を置いて、ユドリムは拍子抜けしたように小さく笑った。
「ふ、なんだそれ」
「こ、怖いものは仕方ないでしょ」
「あー、はいはい、わかったよ。布団借りて、着替えてくるわ」
「ここにいてくれるの?」
「雷に震えて泣いてるお嬢様を、こんな部屋に一人にしておけねぇだろ」
「うっ……」
なんだか幼くなってしまった引き留めの理由に、気恥ずかしくなる。口ごもった私の頭に、ユドリムの手が置かれた。
「何度も俺を引き留めるほど怖いんだろ? ちゃんと、護衛してやるよ」
まるで、それがようやく見つけられた大義名分のように。私がそんなことを思ってしまうほどにユドリムは軽い足取りで、着替えを持って部屋を出ていった。




