18.私が選ぶのは
カルミラ様の一件は、私の意向もあり内々で処理が進められた。
聴取の結果エトワル様は何も知らず、ロゼンベルク侯爵夫妻も関与がなかったことが判明。カルミラ様のアルヴィン殿下に対する拗れた執着が、あの事件を引き起こしたことがわかった。
そんな理由で、と兄は激怒した。関与しなかったエトワル様にも失望し、ロゼンベルク家の爵位を剥奪するべきだと息を巻いた。
けれど。
「あまり、事を大きくしたくありません」
男たちに拘束され、ドレスを破られ、襲われそうになって。私は、自分で思うよりも心が塞いでいた。未遂に終わったそれがトラウマになったわけじゃない。私の心の中には、もっと複雑な感情が渦巻いていた。
――だって、第三王子の婚約者が襲われたと、世間は騒ぐんでしょう?
本当に婚約者だったらいい。殿下の謝罪も素直に受け入れられるし、あなたのせいではないと私以上に傷心しているだろう殿下を心から励ますことができるから。
でも、違うの。私は殿下の婚約者でも、恋人でもない。世間が望む私たちの姿に一線を引いて、殿下の優しさに甘えた、ただの友人でしかない。これから婚約者になるのだろう、なんて期待を込めた考えも、今の私には否定したくてたまらないの。
――だって、私は……。
「私は、アルヴィン殿下の友人にすぎませんから」
私の静かな発言に、兄は黙り、父は深く頷いた。
その後、ロゼンベルク家からカルミラ様だけが地方の教会へ送られて、この件は終わった。
エトワル様からは兄を伝って謝罪を受けたが、私は許すも許さないも、特に返事をしなかった。
それから、数日後。
「ブランカ、こっちへ」
「はい」
殿下の手を取って、以前訪れた湖畔を二人で歩く。
楽しい思い出のあるこの場所は、今日は夕陽がさしてやけに寂しく感じた。広がる緑も、小魚の跳ねた透き通る水面も、一日の終わりのオレンジを浴びている。爽やかに吹いていた風も今はなくて、草を踏む音だけがやけに大きく耳に届いた。
「また君が足を滑らせてしまわないように、手を入れたんだ」
人の手が入っていなかった湖のほとりは、草が刈り取られてすっかり整えられてしまっていた。
「お気遣いをありがとうございます」
人気がなく、自然の広がるこの場所を殿下は気に入っていたはずなのに。私を思ってやってくれたことなのに、私の心は浮かないままだった。
静かな水面を背にした殿下は私を振り返ると、私の両手を優しく包み込んだ。
「今回の件は、本当にすまなかった」
苦しそうな表情。傷つけられた私以上に、傷を負って痛みを得たような。
私はそんな殿下に、ゆるやかに首を振った。
「殿下が謝ることじゃないんですよ」
私の言葉に、殿下は食い下がってくると思った。けれど殿下は、瞳に哀しみを抱えて私の傷を見つめた。
「痛かっただろう。……触れても?」
「……はい」
首筋に、殿下の指先が触れる。ナイフの切り傷は浅くて、もううっすらと痕が残っているだけだった。頬に伸びた手には、ほんの少し抵抗を感じた。まだ赤みの残る頬を優しくなでられて、殿下の瞳はさらに哀しみに沈んだ。
「君に、こんな怪我をさせてしまって……」
殿下が言い切る前に、私は殿下の手を掴んで頬から離した。
「大丈夫です。ぶたれた時は、頭に血がのぼっていましたから」
「だが……」
「あまりに勝手な物言いをされて、つい、私も言い返してしまったんです」
「……」
「頭突きして、やり返したんですよ?」
笑いを得る雰囲気じゃない。でも、そうでもしないと私にはこの空気が重すぎた。私はやられっぱなで終わった、か弱いだけの被害者じゃないのだから。
殿下はくすりともせず、ただただ自分を責めている。
「君に、そんなことをさせてしまって……」
「殿下」
思い詰める殿下の言葉を、私は鋭く切った。殿下からの謝罪はもう、聞きたくなかった。
「殿下は、何も悪くありません。私は大丈夫です」
やっと吹いた風は、私たちを突き放すように冷たいものだった。夕陽のあたたかなオレンジは寂しく、太陽だと感じていた殿下の髪も、今となってはこの夕陽のようで。私を見つめる殿下の瞳が、聡く私を察して細められた。
「ごめん、ブランカ」
この謝罪は、私の気持ちに寄り添ったものだろう。
殿下は私から視線を外して、湖を眺めた。
「近く……王城で、父がダンスパーティーを企画しているんだ」
「そうなんですね」
「君を誘ってもいいかな」
陛下を出されたら、私は断ることができない。その誘い方は、殿下に悪気がないとしてもずるい。
殿下はこちらを見ない。声のトーンも硬い。私も繕う気持ちがなくて、同じく湖を見やった。
「はい」
「では、招待状を送るよ」
「わかりました」
「……帰ろうか」
ようやくこちらを向いた殿下に手を差し出され、私も重ねる。これまで幾度となくやってくれたエスコート。それが、今は気まずくて。
冷たい風に背中を押され、戻った先に待つユドリムの姿に、私は思わずホッとしてしまった。冷え切った体に、ささやかに熱を与えられたように。目が合ったユドリムには、すぐに顔をそらされてしまったけれど。
「今日は僕に付き合わせて、すまな……いや。付き合ってくれて、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、私にお時間を割いていただいて」
馬車に乗り、殿下が向かいに座る。
私の目線はずっと窓の外で、また、馬で並走するユドリムと目が合った。
どうしよう。殿下が、私に何度も話しかけようとしている雰囲気には気づいてる。でも、私はその雰囲気に気がつかないフリをしていたい。
――私の心は、あなたにはないことに気がついてしまったから。
いつからだろう。
こんなに、目で追うようになってしまったのは。私に対する態度がぞんざいで、お互いに嫌い合ってるとさえ思っていたのに。
いつの間に、こんなにも胸が苦しくなるほどに、私の中に入りこんできたの?
「ブランカ――」
「ごめんなさい、殿下。疲れてしまったので、休みたいです」
これ以上、口を開いたら涙があふれてしまいそう。
治りきらないあなたの頬に触れたくて、あなたにも私の頬に触れてほしくて。ここにいるのが殿下じゃなくて、あなただったらいいのにと、最低なことを思ってしまうほどに。言葉は悪くても、あなたと悪態をつきあっている時間が、私にはかけがえのないものだった。
――私は、ユドリムが好き。
あの日のあなたの温もりを、どうしても忘れられない。
あなたの雑で不器用な優しさに触れたくて、求めてしまうの。
こちらに一切目を向けなくなったユドリムの夕陽に染まる横顔を、私はそっと眺め続けた。
それからしばらく、私の頬がすっかり治った頃合いに。
殿下から、王城ダンスパーティーの招待状が届いた。招待以外の私的な手紙は見当たらず、代わりに翡翠のピアスが同封されて。
贈られた髪飾りとピアスを、私は不思議なほど穏やかな気持ちでアクセサリーケースにしまいこんだ。




