12.嫌いじゃない
広間で知り合いと言葉を交わし、お酒を飲みながらひととおりの挨拶を済ませた。
笑顔を張りつけて、誰かの期待どおりに振る舞い続ける時間は、気を紛らわすにはちょうどいい。けれどその分だけ、あとからどっと疲れが押し寄せてくる。
――少し、風に当たりたい。
杯を重ねたせいで、頭もぼんやりとしていた。
私はひとりで静かに休みたくなって、人混みを抜け出した。
夜の庭園はひっそりと静まり返っていて、広間の喧騒が嘘のようだった。整えられた花々が淡い灯りに照らされ、ほのかに香りを漂わせている。
人の気配がないことにほっと息をつき、私は近くのベンチに腰を下ろした。ここなら、少しくらい気を抜いてもいいだろう。
そう思った矢先だった。
「げー。酔ってんの」
聞き慣れた遠慮のない声が降ってきて、私は顔を上げた。そこに立っていたのは、パーティー用の正装に身を包んだユドリムだった。
「せっかく気が紛れていたのに……」
武闘会で見たあの目が、ふと脳裏に浮かぶ。背筋に嫌な感覚が戻ってきてしまい、思わず小さく吐き出した。
ユドリムは聞き取れなかったのか「なんて?」と聞き返しつつ、眉根を寄せた。
「お前、一応いいとこのお嬢様なんだから、気をつけろよ」
ちらりと、ユドリムが目配せする。私もそちらに目を向けると、私たちから目をそらしてそそくさと逃げる、どこかの令息の姿があった。
「酔っぱらいを狙って声かけようなんて、ろくな男じゃねぇな」
わざと相手に聞かせるように声を大きくしたユドリムに、私は大袈裟よと首を振った。
「別に、ここは王城だし。何もされないわよ」
「王城にこそ性根の腐った姑息な悪いやつがいるんだろうが」
ユドリムの主張は正当だ。あまりに直球だけど、殿下に仕える最側近だからこそ、日々その理不尽さの中で目を光らせているのだろう。
改めて言われずとも、私だってそんなことはわかっている。
「ご忠告どうも。それで、私になんの用なの?」
せっかくのひとり時間だったのに。
今は一番会いたくなかったユドリムに会ってしまい、それも見知らぬ令息を追い払ってもらう形となって、私は素っ気なく話題を変えた。
「殿下がお前を探してるんだよ」
「そういえば、殿下は?」
「お前の兄様に捕まってる」
「ふぅん」
だったら、そのうち兄と一緒にここにくるだろう。わざわざこちらから向かう必要もないと、私はゆるく座り直した。
「……おい、なにくつろいでんだよ。殿下のとこに行くぞ」
「いやよ。動きたくない」
「嫌って……」
私はつい反射で答えてしまい、ユドリムが驚いている。殿下絡みのことで、私が拒否したことなんて一度もなかったはずだから。
「私だってそんな時もあるのよ。もう、疲れちゃった」
兄のこととか、アーチでの告白とか。どんなに感情を取り繕っても、いっぱいいっぱいで、疲れ果ててしまう。
ずっと誰かに振り回されていて、それを忘れたくてお酒を飲んで、一人で静かに過ごしたくてここにきたんだから。
「ここは人が来ないし、お花も綺麗だし。酔い覚ましにぴったりだと思ったのに……」
愚痴るようにつぶやくと、ユドリムはいつもどおりの小生意気な調子で返してきた。
「そりゃ、人来ねぇだろうよ。姫様のつくったカップルの告白アーチを、おひとり様で占領してんだから」
言われてみて、ふと周りを見回す。庭園の端にあるベンチに座っていたつもりだったけど、私がいるのは姫様のアーチが置かれた真下のベンチだった。いつのまにここにベンチを置いたんだろう。
どうりで、みんな避けてたのねと、少し我に返った。
「私、すごく酔ってるみたい」
「今ごろ自覚したのかよ」
「頭が重くなってきたわ……」
「おい、ここで吐くなよ?」
「吐かないわよ。あなた、もっとオブラートに包んで物を言えないの?」
「酔っぱらい相手に遠回しな物言いしても伝わらねぇだろ」
不真面目なユドリムに二度目の正論をぶつけられ、言い返すことができずにカチンときた。普段の私なら、こんな失態はしないしここで言い返すこともない。また話題を変えればよかったのに、お酒のせいで気が大きくなり、私は口調を強めてユドリムに言い返してしまった。
「本当に、うるさい男ね。私のことが嫌いなら、絡んでこずにほっといてちょうだい」
「なんだよ、いきなり」
「私に関わらないでって言ってるの。幼女趣味の変態のくせに」
「はぁ?」
ユドリムが素っ頓狂な声をあげた。
「私、図書館で見たのよ。あなたが令嬢の女の子と一緒にいるところ。マーシャル様にもいい顔して、たぶらかして。最低にもほどがあるわ!」
言い切った私を、ユドリムは冷静に見つめた。怒るでも狼狽えるでもなく、ユドリムはしばらく考えていた。
「図書館って、雨が続いた日?」
「そうよ。見間違いなんかじゃないわ」
「なんだ、お前もいたのかよ」
「いたわよ」
言い逃れはできないわよ、とユドリムの視線をまっすぐに受けると、ユドリムから驚きの答えが返ってきた。
「あれは妹だ。血は繋がってないけど」
「妹? ごまかしたって……」
「俺と妹は孤児院で育ったんだよ。縁あって、あの子は男爵家に養子に迎えられたんだ」
ユドリムが平民だということは知っている。孤児院育ちまでは知らなかったけれど、ユドリムが私にそんな嘘をつくメリットもない。ユドリムと一緒にいた女の子が男爵家に迎えられた養子だというなら、私が調べればすぐにわかってしまうのだから。
「じゃあ、マーシャル様は」
「あれはどう見たって俺をからかってるだけだろ」
「からかってる?」
「どう見ても」
「あなたを好いてるんじゃなくて?」
「姫様は俺を当て馬にしてお遊び中なんだよ」
ど、どういうこと……?
理解が追いつかないと首を傾げると、ユドリムは周囲を気にして声を潜めた。腰をかがめ、私のそばに寄る。
「姫様は他に好きなやつがいるんだよ。あと、ついでに言っとくけど、俺はお前を嫌っちゃいないよ」
私は思わず顔を上げた。ユドリムの顔が近く、驚いたユドリムが私から離れた。
ずっと重く暗かった心が軽やかになり、「なんだよ」と皮肉めいたユドリムの顔がおかしくてたまらなくなった。
「ごめんなさい。私、ずっとあなたに失礼な勘違いをしていたのね」
一緒にいた女の子のことだったり、マーシャル様のことだったり、幼女趣味のことだったり。懸念はすべて解決したけれど、私の胸に残ったのはユドリムの「嫌いじゃない」という言葉だった。たったそれだけなのに、不思議と胸の奥がほどけていく。ついでに言われたその一言が、私にとっては大事だったらしい。
「お前、謝る気ねぇだろ。笑ってんじゃねぇか」
「ふふ、ごめんなさい。あなたが変態じゃなくてよかったわ」
「どういう勘違いをしてんだか……」
ふーっと深く息を吐き、ユドリムはくすくすと笑い続ける私に静かに目を向けた。
「……お前さ、なんも思わないの? 俺のこと、見下したりしねぇの」
声音を落としたユドリムを察して、私は笑いを収める。ユドリムの言いたいことは、私にはよくわかっていた。
「私の母はね、平民だったの。だから私は、差別を好まないわ」
差別に否定的な根本の理由は、本当は母ではない。父が私に選ぶこと、決定することを任せて育ててくれたからこそ、私は他者のことをよく見て理解してきたつもりだ。その結果、身分による差別は必要のないことだと結論づけたわけだけれど……母を理由に使ってしまったほうが、信用や理解は大きかったりする。
ユドリムは私の母が平民だったことを知らなかったらしく、目を丸くしていた。
「意外だった? 差別の点で言えば、父や兄もそうだと思うけど」
「たしかに……」
納得したらしいユドリムに、私はまた笑ってしまう。
「あなた、無礼で不遜で怠惰なのに、そんなこと考えるのね」
「悪口ばっかじゃね?」
「可愛らしいところもあるじゃない」
「うるせぇな」
私はひとしきり笑って、肩の力が抜けていった。
「……今日、あなたのこと、ちょっと怖いと思ってたの。気のせいみたいで、よかった」
「怖い? 今までのお前の態度からは想像もつかないんですけど?」
ユドリムが盛大に眉を顰めた。私は取り合わずに続ける。
「武闘会で――あなた、私のことを見てたでしょう?」
「あぁ。見てたけど」
「その時のあなたの目が、怖かったの」
でも、どうしてだろう。殿下絡みの私利私欲にまみれた悪意のある目には、何も思わないのに。ユドリムの目だけが怖く感じたのは、不思議だった。
ユドリムは一拍置いて、静かに答えた。
「絡まれてんなーって、見てた。なんかあったら、剣投げつけてやろうかなと思って」
「え、そういう意味だったの?」
「他にどんな意味があんだよ」
「殿下がいるのにって、咎めてるのかと思って……」
「別に、お前と殿下はまだそんな仲じゃねぇんだろ」
私はさらに肩の力が抜けた。だって、なんだか、とても安心したから。
私の殿下に対するこの晴れないもやもやを、わかってくれてる人がいたんだと知って。
「ふふっ、あれは兄の同僚よ。助けてくれるのはありがたいけど、剣を投げるのはやめて」
「まだ笑うの? お前、水飲んだほうがいいよ」
私の相手をするのが煩わしくなってきたのか、ユドリムはどこかへ行こうとする。私はユドリムの袖を掴んで引き留めて、そこに頭を落とした。力が抜けたせいで、すごく、甘えたい気分になってしまった。
「……ねぇ。私、どうしたらいいと思う?」
「今度はなんなんだよ」
「なんかね、ものすごい勢いで外堀が埋められていってる気がするの」
殿下によく誘われていることは元より、アーチでの告白のことも。兄殿下がたの挨拶は社交辞令にしろ、人の目が多いところで言われてしまっては、勘ぐる者だって少なくないだろう。マーシャル様のけしかけも、どこまで本気なのか。
「決めるのは、私なのに」
ユドリムがそっと私の手を掴み、袖から外す。顔を上げると「座っていい?」と聞かれ、隣に腰掛けた。
「……前から聞きたかったんだけど。何を悩んでんの? あんな素敵な王子様に言い寄られて、お前だって顔赤くしてんじゃん」
「だ、だって、それは……! 殿下は、みんなの理想の王子様のようだもの。あんなふうに言い寄られたら、誰だってどきっとするわ」
ユドリムは「ふーん」と相づちをうった。
「ときめくなら、いいんじゃねぇの。さっさと殿下のモノになっちまえば」
「ちょっと、下品な物言いしないで」
「バカみたいに考え込んで俺に嘆いてないで、お姫様らしく守ってもらえばいいだろって言ってんの」
「守ってもらうと言っても、あなたにでしょ」
「なんで俺。殿下も剣の腕はちゃんとあるよ」
「あんまり、想像できないのよね」
守ってもらうとか、背中に隠されるとか。信頼がないわけではないのに、危険の最前線に立ってほしくないと思う。王子だから怪我をされてほしくないと思うのは当たり前だけど、なんだか、そうではなくて。なんだか、不安に思ってしまう。
「――結局、守ってくれるのはあなたじゃない」
「もしかして、俺に惚れちゃった?」
「……」
私が無言で見つめると、ユドリムはぎょっとした。
「え、嘘だろ」
「冗談よ」
「おいふざけんな。なんだよ今の間は」
「いやね、自惚れちゃって」
「いい度胸してんなお前」
「度胸があるのは父譲りなの」
ユドリムが乗りだす。私の顎を捕まえて、顔を近づけてきた。
「なめんなよお嬢様。手付きにしてやろうか」
「本当に下品ね」
「育ちが違うんで」
「やれるもんならやってみなさい」
上目遣いで睨むように見上げる。
すると、ユドリムの黒い瞳にうっすらと光彩を見つけた。真っ黒な瞳だと思っていたのに、意外と透き通っていて綺麗、と覗き込もうとすると、ユドリムが眉根を寄せて体を引いた。
「うおー、やっべ……お前の言ってること、わかったかも……」
「は?」
顎を離され、さらに距離を取られる。私から目をそらしたユドリムは、少し気まずそうだった。
「お前さ、その顔でそういうのやめたほうがいいよ」
「その顔って?」
「相手が相手なら本当に食われちまうよ。殿下だけにやっときな」
「その顔って何よ」
「それとも俺の首を飛ばす気なのか」
「それは見たいわね」
「物理だよ。殺す気か」
「……それは見たくないわ」
盛大なため息を吐いて、ユドリムは立ち上がった。
「ほら、もういいだろ。水もらいにいくぞ」
ユドリムに手を取られる。無理やりではないのに、逆らえない力で引かれて、私も腰を上げた。
「話を聞いてくれてありがとう。ユドリム」
「ん」
庭園を歩き出した私たちの後ろで、風に揺れた銀のベルが夜に溶けるように細く音を鳴らした。
まるで、先ほどまでの私の中のざわめきが、静かにほどけていくみたいに。




