9
横井音。彼女と公園で話した。小雨が降る中だったので、二人とも傘を差していた。彼女の、短い髪の毛は白のマフラーの上にあった。今日も靴下は濡れている。
雨音が小さく鳴る。それを聞いていると、さっき聞いたことの衝撃が少しだけ和らぐような気がした。俺は、その音を、ひたすらに聞いていたいと思うのだった。
彼女からは、真実を突きつける際に間違いなく使える、決定的な証拠を貰うことができた。それは、上田令、とされている人物が、都会の歓楽街の、いかがわしいホテルから男女で出てくる姿だ。カップルには年の差があり、金銭の臭いがした。
夜の歓楽街の、暗い明かりの中で、背の高い男性の、そして、その顔と、背が小さくて若い女性が、恋人のように寄り添っている写真が俺に、彼女から手渡された。
俺は、上田令の顔をあまり覚えていない。だから、それが本当に彼なのかはわからないが、それでも、横井音、そして、春野和樹曰く、それは上田令なのだという。
俺の記憶の中にわずかに残っている彼の顔も、その写真の人物が上田令であると言っていた。ということは、これは彼の、犯人の写真ということで問題がない。
どのようにしてその写真を撮ったのか。もっと言えば、どのような執着心で上田令のその姿を追うことができたのか、それは、今の俺にはわからない。それは、俺が理解できるような軽い気持ちではないのだと思う。信じられない気持ちがあった。
もしかすると、探偵でも雇ったのかもしれないが、もし仮にそうではないとしたら、どれだけの執念でそれを、彼の浮気の証拠を見つけることができたのだろう。
もし仮に春野和樹が探偵を雇っていたとしても、そこには明確に異常な執念がある。田舎の高校生が都会の探偵に何をどのようにしてそれを依頼したというのか。
俺には、その思いが理解できなかった。俺自身、自分が狂気的になっている自覚はあったが、俺のすぐ近くに、俺よりも狂気的に真実を追い求めている男がいた。
彼はどんな気持ちで、上田令のことを追いかけていたのだろう。そして、その証拠を手に入れることができた時には、どんな気持ちになることができたのだろう。
納得したはずだ。自身をイジメている人間の親が、くだらないことをしている人間だとわかった時、きっと、彼は、全てに合点が行ったはずだ。事態を把握した。
とにかく、俺は、上田令が浮気をしている証拠写真を手に入れることができた。これは、彼が上田家に投函したものと同じものだ。これは俺にとっても武器になる。これを使えば、不完全にしかできなかったようなことが完全にできるようになる。
春野和樹は横井音のことを信頼している。だから、彼は彼女相手には心を開き、自分の隠すべき秘密をさらけ出すことができた。自分の狂気を見せることができた。
できれば、俺も話してみたかったが、そんな中途半端な気持ちで向き合っていい相手ではないことは明白だ。彼は、自分の人生をかけて何かをしようとしている。
彼は、何を考えて生きているのだろうか。どのような思考をすれば、このような行動に、結果に至れるのだろうか。単なる思い込みではない。単に思い込んでいるだけの、何もできないのになんでもできると考えているくだらない人間ではない。
ちゃんと成果が出ているのだ。それを考えれば、彼の行動は正しく行われたということだ。踏むべき手順を踏み、しっかりと行われた異常な行動がそこにはあった。
俺は、それを異常であるとだけ認識することはしない。そこには彼なりの思いや背景があったことを否定しない。が、そうだったとしても、それが異常な行動であることは間違いがない。こんなことを普通の人間がするはずが、できるはずがない。
目の前にいる横井音も、その話をしている時は半信半疑だった。嘘か本当かはわからないような話をする時と同じように、俺に疑われるかもしれないと思いながら、彼についての話をするのであった。それは、見知らぬ人間のことを紹介しているような姿だった。見知らぬ人間の、狂気的な行動を説明しているような姿であった。
奥平米はいつものネズミ色のダウンジャケットを身に付けていた。そして、いつもとは違う思考になっていた。自分の異常性を肯定したはずの彼は、本当の、真に迫るような異常性を目の当たりにして、どうすればいいのかわからなくなっていた。
その異常性とは、環境が作り上げたものだ。探偵を雇ったのか、本人がそこまで出向いたのか、それは彼にはわからなかったが、こんな田舎でそんなことをする人間がいることが信じられなかった。できるはずがないことを春野和樹はしている。
ここから都会までは車で一時間半もかかる。それなのに、春野和樹は、それだけの時間的な問題を何かしらの手段で乗り越えて、歓楽街のホテルから出てくる上田令を写真に収めた。さらにはその写真を、上田家のポストに投函した。その一連の行動は、どう考えても異常でしかなく、狂気の沙汰だ。奥平も、それを聞いて驚く。
狂気を許容しようとしていたはずが、それを拒絶しそうになる奥平。彼が持っていた狂気は、狂気の中でも位が低い、普通の人でも持ち得るようなものでしかない。
普通かどうかは相対的に決まる。春野和樹という特異点が存在したことで、奥平米がやろうとしていることが普通になった。おかしなことではなくなってしまった。
春野和樹は、追い詰められていた。その結果、自分でも信じられないような行動力を手に入れた。それは病的なものであって、元に戻るのかはわからないものだ。
その反動は必ずやってくる。信じられないような行動力を発揮すると、今度はその反対の方向に力が働く。春野和樹が部屋に閉じこもっている一番の理由は、やる気を使い果たしたからだった。それはやはり病的なものであって、名前のある病だ。
真実に辿り着けば全てが元に戻るはずだった。が、そんなに物事が上手く進むわけがなかった。もはや、春野和樹は、精神的な病院に通わなければ治らないような病とともにある。この、何もないような田舎にはそんな病院など町のどこにもない。
現実を突き付けられた気持ちになった奥平米は、全身から汗が吹き出していた。どう考えてもおかしなことが現実に起こってしまったということで、認知が歪んでしまいそうだった。普通の軸がズレ、また新しい普通が目の前に、転がってくる。
俺はこれをどう受け止めればいい? 春野和樹が背負っていた荷物を、俺はどのようにして持てばいい? 俺にはわからなくなった。何もかもがわからなくなり、自分がどこに立っていたのか、わからなくなった。よるべきよる辺が消えた気分だ。
本当に犯人に真実を、俺が手にしている証拠を突き付けるのかすらわからなくなってしまった。俺はそんなことをしていい人間なのか? 果たしてそんなことをする権利が俺にあるのだろうか。その顛末はどうなる。最後の俺はどうなっている?
迷いが発生する。俺は、ハッキリと言ってしまえば、春野和樹のようになりたくない。春野和樹のような、何かに囚われたような狂気を自分のものにはしたくない。彼が獲得したのが異常性であるとするならば、俺は彼のような異常性を獲得したくない。例え、何もできなくても、普通でありたい。そんなことを考えてしまう。
異常。できることならば、それから離れたい。その場所から離れるためには、この事件から手を引く必要がある。やがて警察が、裁判が全てを明らかにするであろうこの事件から手を引きたい。が、ここまで捜査を続けてきた俺はそれでいいのか?
それでいいわけはなかった。それでいいわけがないから、相変わらず、やらないといけないことに変わりはなかった。当然の話だ。が、それが俺には難しいのだ。
誰でもいいから、俺の代わりに上田令の前で、この写真を持って、これまでの推理の全てを話してくれないだろうか、と、考えたところで、俺以外にそんな人間がいるはずもないことを再度確認し、やはり俺自身がやらなければならないと思う。
これまで、俺が、俺自身に感じていたのは狂気でもなんでもなかった。それは、当たり前の動きでしかなかった。それだけでしかなく、何か特別なものが宿った行いなどではなかった。あくまでも普通の延長線上にある、普通の感情の動きだった。
一度向き合う必要がある。春野和樹が犯人かどうか、春野和樹が人殺しをするような人間かどうかについて悩んでいた時のように、また、このことについて悩む必要がある。悩まなければ、犯人の目の前で動揺してしまう。自分がブレてしまう。
思えば、彼らが言っていた、春野和樹が殺人をしていない前提条件は、彼が優しいからというものだった。しかしながら、俺は、今渡された写真を見て、彼のことを優しいと思うことはできない。が、だからといって、人を殺すような人間であるとも思えない。そんなことをするような人間ではないことだけは確かだ。確信した。
人を殺すような人間は、愚かな人間だ。社会の中で、人を殺してしまう人間は、頭がしっかりと働いていない、愚かしい、可哀想な人間だ。普通の人間ではない。
俺は全く別の理由で、春野和樹は犯人ではないと思う。それは、『春野和樹は、異常なまでに賢い人間だ。』という理由だ。彼は普通の人間とは比べ物にならないほどに賢い人間だった。そうであると、俺は思った。普通の人間ではないのは確実だ。
その賢さが復讐に回った。その結果として、上田令は自らの子供を殺すことになった。元々虐待していたとはいえ、そこまでするつもりはなかったはずだ。が、自らの弱みをさらけ出されることになった彼は、それを覆い隠すように人を殺した。
上田令も、上田優も、愚かな可哀想な人間だ。俺はそれを本人に伝えなければならない。彼らは、自分の愚かさと向き合う必要がある。本来であれば、そこに上田優もいるべきだったのだが、死んでしまっている以上は仕方がない。死人に話しかけても返事はない。どこまでも可哀想な犯人は、この先、どうなってしまうのか。
「ありがとう。参考になった」
「それならよかったです」
「警察の捜査はどこまで進んでいるだろうか」
「え? どうでしょうかね」
「これから先は俺が全てをやるつもりだ。だから、君たちはなんにも考えずに待っていればいい」
「なんにも考えずにっていうのは、難しいかもしれないです」
「それはそうかもしれない」
俺はまだ曖昧だった。だから、会話がどうしてもぎこちなくなってしまうのだった。本当に俺が犯人の前に行くのか、今回の証拠を使うことがあるのか、それがわからないのだった。が、このまま終わらせるというわけにもいかないのは事実だ。
「事件が終わったら、春野和樹とも話がしたいな」
「そうですか。でも、私の力でどうにかできる問題でもないかもしれないです」
「それもそうだ。それはそうかもしれない」
「頑張ってくださいね。私たちの代わりに、彼の気持ちを晴らしてあげてください」
「彼というのは?」
「和樹くんのことです」
俺は気持ちを晴らす相手を上田優と勘違いした。友人だったわけだから、そういう気持ちを持っていたとしてもおかしくはないと思ったが、そうではなかった。
「それはそうか」
「では、本日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。終わって、報告できるようなことがあったら、また話すことになるかもしれない」
「その時はまたよろしくお願いします」
そうして、小雨が降っていた公園から、横井音は去っていく。俺はしばらくここに居るだろう。さっき貰ったばかりの浮気の証拠写真を眺めながら、思考するのだ。
しかしながら、瞬間の思考だけでは、答えは出ない。そこまで俺は知っている。それでもこれをする。俺は、考えることでしか、現実と向き合うことができない。
向き合わなければならないそれは、自分が悪い存在になってしまうことを示唆していた。当然のように、そんなものにはなりたくない俺がここには居るのだった。
だからといって、春野和樹のことを悪い存在だと思うわけではない。そういうわけでなく、純粋に自己保身に走っているだけだ。俺は俺のことが大事で大事で仕方がないのだ。それが純然たる事実だろう。であるがゆえに、逃げる道も俺にはある。
逃げてしまえば楽になれる。そんなわけもないことを知りつつも、行動できない理由が狂気であることを思い出すと、その先が暗闇であると思えてしまう。上田令の前で、この写真を持って、真実とやらを突き付けに行く俺のそれからはどうなる? 妥協の先にある俺の想像はできるが、それをしてしまった俺はどうなる?
やがて、雨が強くなってくると、帰宅することにした奥平。彼の中には迷いが生じていた。自分の人生の全てを変えることになる出来事に向き合うかを考えていた。
それに向き合うと言うことは、今まで話を聞いてきた全ての人間と向き合うということでもあった。自然と、彼らの、この町の人の顔が頭に浮かんでくるのだった。
そんな状態で歩いていると、自販機を見つけたので、横井音と話した時と同じように缶コーヒーを買った彼。開けるわけでもなく、ずっとそれを左手に持っていた。
それを持ちながら思うのは、温かみのありがたさだった。人と人との触れ合いに対して消極的な彼は、缶コーヒーの擬似的な触れ合いに心を癒されているのだった。
前は虚無的だった心。それが、今ではカオスになっている。虚無も、カオスもどちらもいい状態ではないので、それはどうにかして解決しなければならないものだ。
他人には他人の感情などわからないのだから、それはあくまでも自分で解決する必要がある。前に進むのか、それとも戻るのか、それは自分で考えないといけないことなのだった。それでも、ここまで進んできてしまっているのは確かだった。
足跡は消えない。なので、それの先を続ける今と未来は、その足取りの先に、足跡を残さなければならない。当然のように、過去があるから今と未来があるのだ。
証拠は浮気の証拠だった。上田令の個人的な問題の証拠だった。当たり前ではあるが、殺人事件の決定的な証拠ではなかった。となると、そうなってしまうと、奥平米には度胸が必要になる。そして、やはり、どこかおかしな狂気が必要になる。
幸いなことに、彼は、普通の人間ではない。なので、今はどちらの選択も取れる状態にある。彼が缶コーヒーを持ちながらしている思案は、する価値がある思案であって、結果ありきのそれではない。行動のために論理を組んでいるわけではない。
これ以上、彼は誰かに話を聞く必要はない。もし仮にそんな人物がいるとしたら、それは唯一上田令だけだ。上田令以外の話は、もう彼にとっては聞く価値がない。このままだと、警察などの大きな力が全てを終わらせてしまうという結末になる。
本当の、本当の話をすれば、別にそれでもいいのだ。彼にとってはそれでもいいから、行動しないというのはそこまで奇妙なことでもなかった。が、どうしても、このままジッとしていることに違和感を感じてしまう普通ではない人間が一人いた。




