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上田令。どうやら、俺の大した証拠もないのに断定的だった推理は当たっていたようだ。今、俺は、上田家のシックな色合いをしたソファに座りながら、どこかへ行ってしまった彼が戻ってくるのを静かに待っていた。近くには上田日和もいた。
休日の正午過ぎ。なんでもないはずの、上田家の日常は、俺という人間によって壊されてしまった。が、そもそも、壊れていたものなので、壊しても問題などない。
上田家は、外観だけで言えばこの町に良くある、人を信頼している、和風の造りの家だったが、その内側は、どちらかと言えば西洋的で、全体的にヨーロッパ風の家具や壁紙で揃えられていた。建物の外側と内側で全く別の世界が広がっていた。
それを見ると、彼らがここに居たくはなかったことがわかる。そして、堀野琴音が上田優に惹かれている理由もなんとなくわかった。普通の人間が好きそうな家だ。
西洋的なお洒落が詰まったこの家には、何か特別な魅力があるようだった。和の家には中々ないような魅力がここにはあった。しかし、それはこの町には合わなかったのだろう。どこかで不和が発生し、それが生活を狂気にしてしまったのだろう。
俺は、この家のインターフォンを鳴らし、中から出てきた上田日和という、気が弱そうで、どこか性格が悪そうな――性格が悪そうだと思ったのは先入観からかもしれない。人物と話をした。彼女は俺を見た瞬間に怯えた顔をしていた、気がした。
その中で、家に入れてほしかった俺は、残酷にも上田令の浮気の証拠写真を彼女に突き付けた。動揺していながらも、どこか冷静だった彼女は俺を家の中に招き入れた。俺がここにやってきた時点で、そうなることを予感していたのかもしれない。
俺という異物が部屋に入ってきて、事態が飲み込めない上田令がリビングに居た。が、彼は俺の顔をしばらく見ると、なぜか納得したような顔になり、目に見えるほどの冷や汗をかいた。それは額を伝って、首筋にまで伸びていく。不安そうだ。
この町で起こった事件の捜査を奥平米がしている。それは、この町ではとても有名な話だったので、俺の顔をじっくりと見て、その人物であるとわかった彼は、ここに俺が来た理由に納得しながらも、それが意味することに、動揺したのだろう。
その時に、俺は安心したことを覚えている。安堵感に包まれ、『やはり俺の推理は間違っていなかったのだ』と確信することができた。そこからの俺は自由だった。
上田令は立ち上がって俺を見下ろした。浮気の証拠写真からもわかっていたが、彼はかなり身長が高い。この様子だと、上田優の身長もそれなりにあったのかもしれない。それもまた、上田優の、普通の人なら惹かれる魅力の一つであると思った。
彼の、その顔には焦燥感があった。俺のことを睨んでいるようにも、俺に対して助けを乞うているようにも見えるその瞳は普段は凛としていそうな雰囲気があった。
全体的に濃い顔をした上田令。それが歪みそうになっている中で、俺は軽くだけここに来た事情を話す。すると、観念したような、諦めたような彼は、意気消沈といった感じで、またさっきまで座っていたシックな色合いのソファに座り直した。
そんな彼に向かって俺は、これまでの推理を突き付ける。心配していたよりもそれは当たっていたようで、俺が何かを言う度に、図星を突かれたような表情に変わっていく上田令。ハッキリと言ってしまえば、それに面白さを感じてしまう俺がいた。やはり、単なるくだらない理由からこれをしていたのかもしれないと思った。
さっきまでも感じていた安堵感がまた、胸の中に、縦横無尽に広がる。俺は、最終的には、『虐待の末に上田優を殺してしまったのではないか?』と、彼に言った。
すると、上田令は静かに頷くだけで、何も言わなかった。それでもう、俺がやるべきだったことは終わってしまった。肯定された瞬間に俺は心の底からホッとした。
思ったよりも呆気なく、何事もなく終わったそれ。そんな状態に置かれて、もうやることもなくなった俺は、帰宅しようとすると、彼に引き止められることになる。
そして、彼はソファに座るように言いながら、立ち上がり、どこかへと歩いていった。そんな感じで去ってしまった。これから何が起こるのかは俺にはわからない。
上田日和はさっきまでの話を聞いて絶望している様子だった。彼女は巻き込まれただけと言えば巻き込まれただけだ。哀れに思う気持ちもあったが、どこか自業自得だとも思うのだった。本当は、彼女が虐待を止めなければならなかったのだと思う。それが大人としての、というよりも人としての責任なのだと、俺は、思った。
警察にでも連絡すればよかったのだ。それで全てが解決するわけでもないだろうが、少なくとも、何かしらの形で動かなければならなかったのは、間違いない。
しばらくソファに座りながら待っていると、何かの写真を持った上田令が帰ってきた。そして、当たり前のような顔で、俺の横に座ると、その写真を見せてきた。
そこに写されていたのは、おそらく、幼少期の上田優だった。それを見た時に、彼も自分のしたことを後悔しているのだとわかった。後悔しているからなんだという話でもあったが、俺は単に部外者でしかなかったので、善悪の判断はできない。
彼らにも、子供に対する愛情はあったらしい。虐待をしていた反面、そこに愛情も存在していた、大事に思っていただなんて、歪でしかないように、俺には思えた。
上田令の、取り留めのない話を静かに聞いている奥平米。それは、彼の慈悲でもあった。可哀想だと思った相手から離れることができなかったというだけの話だ。
奥平は、彼のことを怖いとは思っていなかった。殺人を犯したことを知ってもなお、それを恐れることはなかった。ただ、哀れだと、可哀想だと思うだけだった。
上田令は、自らの息子がどのように成長していったのか、その過程でどんな出来事があったのかを話す。その姿は、まだ自分の子供が生きているかのようだった。
彼は現実逃避をしていた。自分が上田優を殺したという現実を受け入れきれずに、ひたすらにどこか遠くを見ているのだった。それをすることで、狂気から正気に戻ろうとしていたが、それ自体が狂気的な行動であり、戻れないことを示していた。
現実から目を反らして、どこか遠くの夢を見ているのだった。それは、やがて時間がきたら消えてしまうような夢だ。いつかは終わる、儚くて短いくだらない夢だ。
奥平は、そんな彼の姿を見て、なおさら可哀想だと思った。人を殺すことでしか、問題に向き合うことができなかった哀れな存在に対しては、そうとしか思えない。
どう考えても、彼の生き方は愚かだった。最愛の息子を虐待し、その結果、殺してしまった。それが愚かな人間でなければ、この世界に愚かな人間など存在しない。
可哀想だった。そもそも生まれた瞬間から、可哀想になることを宿命付けられているようでもあった。そういう運命が彼には待っていたというだけの話でしかない。
ずっと話を聞いていただけの奥平。子供がいない彼はその話に共感できないのだった。そして、何よりも殺人を犯した人間の思考など、根本的な部分で理解できないところがあるのだった。途中から、話はバランスを失い、方向性が無くなってしまった。つまりは、何を話しているのかわからないことを、上田令は話していた。
俺はそろそろ終わらせたいと思っていた。こんな可哀想な人間の話など聞いていても、なんにもならない。そう思っているから、早くここから去りたいと思った。
が、向こうはそんなことを全く思っていないようだ。自分の全てを話すことができる相手を見つけたことで、それに粘着しようとしていた。俺にはわからない話だ。
殺人を犯したという事実を隠して生きるのは彼にとって苦しいことだったのだろう。だから、それを隠さなくてもいい相手を見つけたことで、自分の全てを打ち明けたいと思った。そうすることでしか、もうバランスを保つことができないのだ。
もうすでに崩れ去りそうな精神を保つためには、俺というたたき台が必要だった。それを用いて、自分の人格の器を成形しようとしていた。消えそうなそれを、ハンドメイドで作っていた。これからもっと崩壊することになるそれを作っていた。
そんなものの相手にされては困る。俺は、上田令に共感することなどできないわけだから、それを考えると、これまでの話は全部無駄な話だ。俺にとっては、彼の精神がどうなろうと関係ないのだ。そんなことのために犯人を捜したわけでもない。
それでも、純粋無垢な、子供のような表情に変わってしまった上田令を止めることはできない。これが終わるのを祈ることしかできなくなった。俺は止められない。
しかし、もしかするとこれも俺の責任なのかもしれない。本当は、俺は、犯人を救うために殺人事件の犯人を捜していたのかもしれない。逆に言えば、それ以外に何も、俺には役割がなかった。彼に触れたことで俺は部外者から、関係者になった。
今回の影響で、俺すらも警察から話を聞かれることになる可能性がある。警察が俺の家までやってきて、兄ではなく俺に話を、上田令のことを聞こうとするのだ。
唯一与えられた役割がこれなのであれば、俺はそれを全うするしかない。俺は、この、人殺しの話をしばらく聞いてみることにした。それをすることが俺の役割だ。
数日後にはなんにも覚えていないだろうが、それでも話を聞いてみることにした。それをするのが、俺がここにやってきたことの理由であり、責任であるからだ。
仕方がない、と現実を受け入れても、目の前の人間が殺人犯であることは変わらない。彼の話は傾聴するに値しないわけだから、やはり苦行は苦行のままで何も変わらない。こうしていなければならない、ということがわかっただけでしかない。
「これまで話を聞いてくれてありがとう」
「お気になさらず」
「俺にとっては大事な息子だったんだ。大事だったからこそ、こんなことになってしまったんだ」
「そうですか」
「子供がいない君にはわからないだろうね」
「わからないかもしれないですね」
「子供とは、時に殺したくなるほど憎いものなんだよ。それでも、それを何度も何度も乗り越えて、ようやく一人前の大人が育つんだ。それは、子供だけじゃなくて、俺たち、親たちもそうなんだよ」
「なるほど」
「俺はそれを乗り越えることができなかった。殺したくなった思いそのままに動いて、本当に子供を殺してしまった。こんなの、親失格だよな」
「そうかもしれません」
「もしも時間が巻き戻せるなら、絶対にこんなことはしないんだけどな。なくさないとわからないこともたくさんあるようだ」
「はい」
「どうするべきだったんだろうか。俺にはもうわからないよ」
「難しいですね」
「子供と一緒に都会で生活するつもりだったんだ。みんなで一緒に、家族仲睦まじく、どこにでもいるような家族のように振る舞うつもりだったんだ。が、全部ダメになってしまった」
「そうですか」
「家族が恋しいよ。きっと、捕まったとしても、そして、外に出てきたとしても、ずっと俺の中でこの痛みは続いていくんだろうな」
そんなことを話していると、上田令はまた立ち上がった。そして、もう帰って来なくなった。しばらくの間、俺はそこに座っているだけだった。何をしているのか。
どうすることもできなくなった俺は、上田日和に一声かけて、この場から去ることにした。もう、向こうからしても、何も話すことがないのだと思うことにした。
彼女は、俺の、その言葉に驚いたような素振りを見せた。おかしなことなど何も言っていないのに、そんな対応をしたということは、もしかすると、上田令と二人っきりになりたくなかったのかもしれない。そうなると、彼女にも、悪いことが起こるのかもしれない。息子への虐待は、妻への暴力になっているのかもしれない。
全ては可能性でしかない。本当のことはなんにもわからないのだ。俺が、上田令のことを悪魔のような人間だと勘違いしているだけで、彼は優しいのかもしれない。
深い部分で、彼の人格を理解することはできない。殺人を犯した人間の心理など俺には理解できない。そこには、何か、底知れぬ気持ちの悪いものがあるのだろう。
彼女にも何かしらの罪があるのだろうか。殺人犯を知りながら、それを秘密にしていることは何かの罪になるのだろうか。だとしたら、俺も動かなければならない。
俺も、警察に自ら出向いた方がいいのかもしれない。自白を聞いてしまった以上は、何もしないというわけにもいかないだろう。それが俺の責任というやつだ。
動揺している上田日和を置いて、家の外に出る。そこにあったのは、この町に相応しいような、どこか牧歌的な雰囲気まである、なんでもない、安心安全の建物だ。
しかし、その中身はそうではない。この家には安心などない。西洋風の家具が悪いというわけではなくて、この場所に適していない中身があることが問題だ。この場所に馴染むことができていないそれは、この場所にいるだけで崩れそうになる。
その、自己矛盾的な状況は、どこかで歪みを発生させる。その歪みの中に飲み込まれた上田家は、悲惨な結末を迎えた家族は、考えられる限りで最も最悪の形で崩壊してしまった。まだ過程にあるそれは、もっと壊滅的な状態にまで追いやられる。
愛する息子を殺してしまった父親は、どんなことを思いながら、これからの日々を過ごしていくのだろう。そんな男と結婚してしまった母親は、どんな日々の中に飛び込んでいくのだろう。彼女は離婚をするのだろうか。逃げることはできるのか。
そんなことは、俺には関係ない。ここまできたら、俺にはもう関係などないのだ。俺がどうこうできる世界でもなければ、救える相手でも、救いたい存在でもない。
とりあえず、俺は警察に連絡をすることにした。『上田令が、犯人である』と、伝えなければならない。向こうも、もうすでにその事実を知っているかもしれないが、黙っておくわけにもいかないので、そうすることにした。それでもう終わりだ。
歩きながら、抱えていた荷物を下ろしたことに気付く。これでやっと、日常に戻ることができる。もう、前の日常とは姿形が変わってしまっているかもしれないそれに、俺は戻っていく。俺は、俺がやったことが正しいのか、それとも間違っているのかの判断をすることができない。それゆえに、審判を待たなければならない。
俺には俺の背負うべき責任がある。彼らは殺人にまつわる責任を負わなければいけないわけだが、俺には、関係がないのに首を突っ込んでいったことの責任がある。
それに向き合う覚悟が俺にはあった。もうすでに、全てを終わらせたことで晴れやかになった俺は、多少の問題ならば立ち向かえる、そんな気持ちができていた。
俺は、これから先も、この町で、日常を生きていたいと思っている。が、それが、俺には許されないというのであれば、それを受け入れることしかできないのだ。




