六日目:無意識の生贄
図書館の最奥、郷土史コーナーの暗がりで、結衣は床にうずくまっていた。
バッテリー残量、残り五パーセント。
震える指でSNSのアプリを開く。LINEの友達リストはすでに空っぽだが、こちらのアカウントはまだかろうじて存在しているようだった。
結衣は検索窓から、予備校の同級生、中学時代の友人、果ては数回しか話したことのない他クラスの生徒まで、手当たり次第にアカウントを検索し、ダイレクトメッセージを送り続けた。
『助けて』
『私、日高結衣です。覚えてる?』
『お願い、返事して』
『誰か、私を見て』
送信ボタンを連打する。
画面の上部には、「既読」の文字は一つもつかない。それどころか、メッセージを送った端から、相手のアカウント自体が「存在しないユーザーです」という無機質な表示に切り替わり、結衣との繋がりをシステム側から強制的に切断していく。
――テン、ツク。
本棚の裏側から、乾いた音がした。
結衣は息を呑んだ。
図書館の静寂の中で、あのお囃子の音が、すぐ数メートル先まで迫ってきている。姿は見えない。ただ、本棚の隙間から、ひどく冷たい「何か」の気配がじわじわと滲み出してくるのが分かった。
――テン、ツク、ピーヒョロロロ。
『……だぁれ?』
「嫌っ、来ないで……!」
結衣はスマホの画面にすがりついた。バッテリーは三パーセント。赤い表示が、結衣の命の残量を告げているようだった。
誰か。誰でもいい。私を認識して。私という存在を、この世界に繋ぎ止めて。
その時だった。
『ポンッ』
画面の上部に、小さな通知のポップアップが降りてきた。
『chika_04:結衣? どうしたの? 急に連投して』
結衣の心臓が、大きく跳ねた。
千佳だ。
クラスで一番大人しく、いつも分厚い前髪で顔を隠している底辺グループの女子。結衣が普段なら絶対に自分から話しかけないし、視界に入っていても「背景」として処理している相手。
しかし今の結衣にとって、その文字は神からの救済そのものだった。
「千佳……千佳……っ!」
結衣はボロボロと涙をこぼしながら、狂ったような速度でフリック入力をした。
『千佳! お願い、私のこと分かる!? 日高結衣だよ! 同じクラスの!』
『お願い、私のこと覚えてて! 絶対に忘れないで!』
数秒後。画面の向こうで「入力中…」のアイコンが揺れ、返信が届いた。
『え、何言ってるの? 当たり前じゃん。結衣は結衣でしょ。何かあった?』
その一文を目にした瞬間。
結衣の脳髄を直接揺らしていた爆音のお囃子が、プツン、と。
テレビの電源を抜いた時のように、唐突に鳴り止んだ。
「……え?」
結衣は顔を上げた。
静かだ。空調の低いモーター音が聞こえる。少し離れた閲覧席で、老人が新聞をめくるカサリという音が聞こえる。窓の外からは、微かに車の走行音が届いてくる。
世界の「ノイズ」が戻ってきた。
結衣は自分の手のひらを見た。透明に透けかけていた指先は、はっきりと血の通った肌色を取り戻し、確かな質量を持ってそこにあった。
助かった。
生き返った。
全身の力が抜け、結衣は本棚に背中を預けて、大きく、深い息を吐き出した。
途端に、強烈な喉の渇きと、空腹感が押し寄せてきた。自分が生きている、人間の肉体を取り戻したという何よりの証拠だった。
「あー……よかったぁ……」
結衣は涙を拭い、スマホの画面に視線を戻した。
トーク画面には、千佳からの『結衣は結衣でしょ。何かあった?』というメッセージが残っている。
返信をしなければ。心配をかけたのだから、何か適当な言い訳を打って、お礼を言わなくては。
結衣はキーボードに指を置いた。
しかし、その指はピタリと止まった。
……あれ?
結衣の頭の中に、ひどく冷ややかな、日常の「常識」が戻ってきた。
画面の上部にあるアイコンを見る。風景のフリー素材を使った、センスのない小さな丸い画像。
chika_04。千佳。
誰だっけ、これ。
恐怖から解放され、元の『安全圏にいる日高結衣』に戻った彼女の脳内では、すでに千佳という人間のデータが、不要なノイズとして弾かれようとしていた。
クラスの底辺。視界の隅にいるだけの、無価値な存在。
そんなやつと、私がこんな必死になってLINEをしている? 意味がわからない。
結衣は、ため息をついた。
なんだか、ひどく馬鹿馬鹿しい夢から覚めたような気分だった。なんで私、こんなよく知らない地味な子に、泣きつきそうになってるの? 麻衣が見たら絶対に笑われる。
結衣は無表情のまま、キーボードをタップし始めた。
それは、相手を傷つけようとする悪意など微塵もない、ただ単に「自分とは住む世界が違う」人間を切り捨てるための、無自覚で残酷な文字列だった。
『……えっと、ごめん。人違いだったかも』
『千佳って、誰だっけ? うちのクラスにいた?』
送信。
ポンッ、と軽い電子音が鳴り、緑色の吹き出しが画面に吸い込まれた。
その直後だった。
画面の向こう側の『chika_04』のアイコンが、一瞬だけ、ノイズが走ったように歪んだ。
そして次の瞬間、アイコンは灰色の初期画像(人型のシルエット)に変わり、アカウント名が『Unknown』に文字化けした。
これまでのやり取りが、シュワシュワと水に溶けるように消滅していく。
「……あれ、電波悪いな」
結衣は画面から目を離し、立ち上がった。
自分がたった今、何を送ったのか。画面の向こうにいたはずの「千佳」という少女がどうなったのか。結衣の記憶からは、すでにその存在が完全に抜け落ちていた。
図書館の冷房が、心地よく汗ばんだ肌を冷やしてくれる。
バッテリーはあと二パーセントしかない。早く家に帰って充電しよう。そういえば、お母さん、今日の夕飯なんだろう。カレーの残りがまだあった気がする。
結衣は鼻歌を交じりにスカートの埃を払い、明るい陽射しが差し込む図書館の出口へと向かって歩き出した。
自分が、最も恐ろしい「お囃子のバケモノ」に成り代わったことなど、露ほども知らずに。




