五日目:残響
金曜日。
容赦のない直射日光が、アスファルトを白く焦がしている。
結衣はふらつく足取りで、見慣れたはずの東京の街を歩いていた。制服は汗と土埃で汚れ、唇はひび割れている。昨夜はどこかの公園のベンチで丸くなっていたはずだが、記憶はひどく曖昧だった。
公園の古びた水飲み場で、蛇口に直接口をつけてぬるい水をすする。
通りすがる親子連れも、ジョギング中の老人も、結衣の姿など微塵も視界に入っていない。結衣が蛇口の前に立っていても、彼らは「誰もいない」と認識して近づいてきそうになり、直前で結衣の身体をすり抜けるように不自然に軌道を変える。
まるで結衣という存在が、この世界のバグデータとして自動的に処理されているかのように。
「……あ、あ……」
声を出してみるが、自分の耳にすら、水の中にいるようにくぐもって聞こえた。
存在の輪郭が、風景に溶け出し始めている。
ポケットの中で、ひび割れた画面のスマホが熱を持っていた。バッテリー残量は「12%」。
結衣は震える指でLINEを開いた。誰でもいい。誰か一人でも、私というアカウントを認識してくれていれば。
しかし、画面に表示された光景に、結衣は息を呑んだ。
昨日まで虫食い状態になっていたトーク履歴すら、もう存在していなかった。
『友達』の欄の数字は、「0」。
麻衣も、クラスメイトも、家族も、全員消えている。いや、違う。彼らの端末の中から、結衣のアカウントが「最初から友達登録されていなかった」状態に修正されたのだ。
世界からの、完全なログアウト。
ふと、街の雑踏の奥底から、またあの音が聞こえた気がした。
――テン、ツク。
結衣は弾かれたように立ち上がり、歩き出した。
立ち止まれば、あの囃子の音に追いつかれる。追いつかれたら最後、完全に「あちら側」に連れ去られてしまう。そんな直感だけが、結衣の足を動かしていた。
逃げ込んだのは、駅前の区立図書館だった。
自動ドアは結衣に反応して開くことはなく、結衣は運良く通りかかった中学生の後ろに張り付くようにして、隙間から館内へと滑り込んだ。
冷房の効いた静謐な空間。インクと古い紙の匂い。
結衣はふらつきながら、郷土史のコーナーへと向かった。一昨日、ネットの文字化けしたサイトで見た言葉。
『よそ者を』
母の田舎である、東北のあの村の名前を探す。
分厚い背表紙が並ぶ棚を這うように探し、やがて一冊の古い文献を見つけ出した。表紙は色褪せ、タイトルには確かに母の故郷の村名が記されている。
結衣は床にへたり込み、すがるようにページをめくった。
目次をなぞる指先が、黒く汚れている。
『第三章 信仰と禁忌』
『――お盆の迷い子』
『――よそ者送り』
これだ。結衣の息が荒くなる。
記載されているページは、一五二ページ。
結衣は逸る心で、紙をめくった。一四八、一四九、一五〇、一五一。
次だ。ここに、この理不尽な呪いの正体と、助かる方法が書かれているはずだ。
結衣はめくった。
一五五ページだった。
「……え?」
結衣は瞬きをした。
一五二ページから、一五四ページまでがない。
よく見ると、本の喉の部分から、その数ページだけが乱暴に引きちぎられていた。紙の繊維が、無残に毛羽立っている。
誰かが破った? いつ?
いや、違う。結衣には直感でわかった。
『それ』は、決してルールを明かさない。対象が理由もわからず、ただ恐怖に怯え、すり減り、存在を削り取られていくことを望んでいるのだ。
バサリ、と。
結衣の手から本が滑り落ちた。
もう、調べる手段はない。解決策など、最初から用意されていなかったのだ。
――ピーヒョロロロ。
図書館の静寂の中で、甲高い笛の音が鳴った。
結衣は肩を跳ねさせ、顔を上げた。
書架の隙間。薄暗い通路の奥に、誰かが立っている。
ピントが合わない。輪郭がブレている。ただ、それが「こちら」を指差し、歪んだ口元で何かを囁いていることだけは分かった。
『だぁれ?』
「いやっ……!」
結衣は後ずさり、書架に背中を打ち付けた。ドスンという鈍い音が鳴り、何冊かの本が床に落ちたが、近くの席で読書をしている老人は全く顔を上げない。
このままでは消える。
今日か、明日か、数時間後か。
完全に「誰でもないモノ」にされて、あの気味の悪いお囃子の列に加わることになる。
「嫌だ……消えたくない、生きたい……!」
結衣はスマホを強く握りしめた。バッテリーは「8%」。
記憶だ。誰かの記憶に、私という存在を繋ぎ止めなければならない。
「誰か……誰でもいい。私を思い出して……!」
結衣は図書館のフリーWi-Fiに接続し、震える指でSNSのアプリを開いた。
見知らぬ人でもいい。かつての同級生でもいい。
私を認識できる、ただ一つの「生贄」を探すために。




