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誰?  作者: 松原正一


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4/7

四日目:透明

木曜日の朝。

目を覚ますと、すでに日が高く昇っていた。

ひどい頭痛と倦怠感。昨夜は一睡もできず、ベッドの中で震えながら夜明けを待っていた。

恐る恐る部屋のドアを開ける。リビングからは、朝のニュース番組の音と、ベーコンを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。

いつもと変わらない、平和な夏の朝。

結衣は大きく深呼吸をした。そうだ。きっと疲れていただけだ。昨日の学校での出来事も、幻聴も、全部悪い夢だったんだ。


すがるような思いで、結衣はリビングに足を踏み入れた。

「お母さん、おはよう」

キッチンでフライパンを握っていた母親が、ビクッと肩を震わせて振り返った。


ガチャン!


母親の手から菜箸が滑り落ち、床で嫌な音を立てた。

母親は目を限界まで見開き、顔面を蒼白にして、キッチンの壁際まで後ずさった。その目は、幽霊か、あるいは刃物を持った強盗でも見るかのような、純粋な『恐怖』に染まっていた。


「……え? どちら様、ですか?」

震える声。

結衣の顔から、表情がすっぽりと抜け落ちた。

「何、言って……私だよ、結衣だよ。冗談やめてよ」

「あなた、あなたっ!」

母親が悲鳴のような声を上げる。その声に驚き、洗面所から父親が血相を変えて飛び出してきた。片手には髭剃りを持ったままだ。


「おい、どうした!」

父親は結衣の姿を捉えるなり、サッと母親を背中にかばうように立ち塞がった。そして、低い、底冷えのするような声で結衣を威圧した。

「……誰だお前。どうやって入った」

「お父さんまで、何言ってるの!? 私だってば! この家の子でしょ!?」

「ふざけるな! 警察呼ぶぞ! 出て行け!!」


父親の怒鳴り声は、娘に向けるものではなかった。

見ず知らずの、気味の悪い侵入者を排除しようとする、絶対的な拒絶。

嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。

麻衣に忘れられるのとはワケが違う。十七年間、毎日顔を合わせ、名前を呼び、ご飯を食べてきた両親だ。それが、たった一晩で、完全に「初対面の不審者」として結衣を見ている。


「あ……ああ……」

父親が本気でスマホを取り出し、一一〇番を押し始めたのを見て、結衣は弾かれたように玄関へ走った。

靴を突っ掛け、ドアを乱暴に開けて、夏の暴力的な日差しの中へ飛び出した。

背後で、「早く鍵を閉めろ!」という父親の緊迫した声が聞こえ、直後にガチャリと無情な金属音が響いた。


家から締め出された。

自分の帰る場所が、この世界から消滅した。


結衣は泣きながら、あてもなく駅の方へと走り続けた。

息が切れ、肺が焼け付くように痛む。汗が滝のように流れ落ち、制服のブラウスが肌に張り付く。

駅前のペデストリアンデッキに出ると、通勤ラッシュの波がうねるように交差していた。

結衣はその人混みのど真ん中で立ち止まり、震える手でスマホを取り出した。


確認しなければ。

写真フォルダを開き、麻衣と撮ったあの写真を表示する。

「……っ」

声にならない悲鳴が漏れた。

昨日まで「ぼやけて」いた結衣の顔は、もうそこにはなかった。

空間が不自然に歪み、背景の窓ガラスの景色が、結衣が立っていたはずの場所を不気味に埋め尽くしている。麻衣が一人で、何もない空間に向かってピースサインをして笑っている、異様な写真にすり替わっていた。

他の写真も同じだ。家族旅行の写真も、入学式の写真も。結衣の姿だけが、最初から存在しなかったかのように、きれいに切り取られている。


「誰か……」

結衣は顔を上げ、すれ違う人々に手を伸ばした。

「すみません、私、見えますか!? ねえ!」

目の前を歩くサラリーマンに叫ぶ。だが、彼は結衣を一瞥もせず、まるでそこにある空気を通り抜けるかのように、結衣の肩をすり抜けて歩き去った。

「お願い、誰か!」


無視されているのではない。

彼らの網膜に、結衣の姿は映っていない。鼓膜に、結衣の悲鳴は届いていない。

何百、何千という人間がひしめき合う駅前で、結衣だけが完全な「透明」になっていた。

強烈な孤独と恐怖が、結衣の正気をゴリゴリと削り取っていく。


助けて。誰でもいい、私を見て。

狂いそうなほどの静寂。いや、街はうるさいはずなのに、結衣にはもう自分以外のすべてが、自分とは無関係な別次元のノイズにしか感じられなかった。


耐えきれず、結衣はバッグからノイズキャンセリングイヤホンを取り出した。

耳を塞ぎたい。この、誰にも認識されない残酷な世界から、完全に自分を切り離してしまいたい。

震える指で、両耳にイヤホンを押し込む。

指で表面を長押しし、ノイズキャンセリング機能をオンにする。


――ピロリン。


電子音が鳴り、世界から「フッ」と音が消えた。

車のエンジン音も、人々の足音も、けたたましい蝉の声も。すべての環境音が、分厚いガラスの向こう側に追いやられたかのように無音になった。

静寂。

結衣は目を閉じ、安堵の息を吐き出そうとした。


その瞬間。


『――テン、ツク、テン、ツク』


鼓膜のすぐ裏側で。

いや、脳のど真ん中で。

あのお囃子の音が、爆音で鳴り響いた。


「ああああああっ!?」

結衣は耳を押さえ、その場にうずくまった。

外の音を遮断したことで、逃げ場を失ったその音が、結衣の頭蓋骨の中で反響し、増幅している。


『テン、ツク、テン、ツク、ピーヒョロロロ!』


狂ったようなリズム。

しゃがれた声の囁きが、脳内に直接こびりつく。


『だぁれ?』

『ねえ、だぁれ?』


外の世界からは完全に孤立し、内側からは名もなき狂気に侵食される。

行き交う無数の人々の足元で、結衣は一人、アスファルトに爪を立ててうめき声を上げ続けた。誰も、その姿を見る者はいない。

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