四日目:透明
木曜日の朝。
目を覚ますと、すでに日が高く昇っていた。
ひどい頭痛と倦怠感。昨夜は一睡もできず、ベッドの中で震えながら夜明けを待っていた。
恐る恐る部屋のドアを開ける。リビングからは、朝のニュース番組の音と、ベーコンを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
いつもと変わらない、平和な夏の朝。
結衣は大きく深呼吸をした。そうだ。きっと疲れていただけだ。昨日の学校での出来事も、幻聴も、全部悪い夢だったんだ。
すがるような思いで、結衣はリビングに足を踏み入れた。
「お母さん、おはよう」
キッチンでフライパンを握っていた母親が、ビクッと肩を震わせて振り返った。
ガチャン!
母親の手から菜箸が滑り落ち、床で嫌な音を立てた。
母親は目を限界まで見開き、顔面を蒼白にして、キッチンの壁際まで後ずさった。その目は、幽霊か、あるいは刃物を持った強盗でも見るかのような、純粋な『恐怖』に染まっていた。
「……え? どちら様、ですか?」
震える声。
結衣の顔から、表情がすっぽりと抜け落ちた。
「何、言って……私だよ、結衣だよ。冗談やめてよ」
「あなた、あなたっ!」
母親が悲鳴のような声を上げる。その声に驚き、洗面所から父親が血相を変えて飛び出してきた。片手には髭剃りを持ったままだ。
「おい、どうした!」
父親は結衣の姿を捉えるなり、サッと母親を背中にかばうように立ち塞がった。そして、低い、底冷えのするような声で結衣を威圧した。
「……誰だお前。どうやって入った」
「お父さんまで、何言ってるの!? 私だってば! この家の子でしょ!?」
「ふざけるな! 警察呼ぶぞ! 出て行け!!」
父親の怒鳴り声は、娘に向けるものではなかった。
見ず知らずの、気味の悪い侵入者を排除しようとする、絶対的な拒絶。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
麻衣に忘れられるのとはワケが違う。十七年間、毎日顔を合わせ、名前を呼び、ご飯を食べてきた両親だ。それが、たった一晩で、完全に「初対面の不審者」として結衣を見ている。
「あ……ああ……」
父親が本気でスマホを取り出し、一一〇番を押し始めたのを見て、結衣は弾かれたように玄関へ走った。
靴を突っ掛け、ドアを乱暴に開けて、夏の暴力的な日差しの中へ飛び出した。
背後で、「早く鍵を閉めろ!」という父親の緊迫した声が聞こえ、直後にガチャリと無情な金属音が響いた。
家から締め出された。
自分の帰る場所が、この世界から消滅した。
結衣は泣きながら、あてもなく駅の方へと走り続けた。
息が切れ、肺が焼け付くように痛む。汗が滝のように流れ落ち、制服のブラウスが肌に張り付く。
駅前のペデストリアンデッキに出ると、通勤ラッシュの波がうねるように交差していた。
結衣はその人混みのど真ん中で立ち止まり、震える手でスマホを取り出した。
確認しなければ。
写真フォルダを開き、麻衣と撮ったあの写真を表示する。
「……っ」
声にならない悲鳴が漏れた。
昨日まで「ぼやけて」いた結衣の顔は、もうそこにはなかった。
空間が不自然に歪み、背景の窓ガラスの景色が、結衣が立っていたはずの場所を不気味に埋め尽くしている。麻衣が一人で、何もない空間に向かってピースサインをして笑っている、異様な写真にすり替わっていた。
他の写真も同じだ。家族旅行の写真も、入学式の写真も。結衣の姿だけが、最初から存在しなかったかのように、きれいに切り取られている。
「誰か……」
結衣は顔を上げ、すれ違う人々に手を伸ばした。
「すみません、私、見えますか!? ねえ!」
目の前を歩くサラリーマンに叫ぶ。だが、彼は結衣を一瞥もせず、まるでそこにある空気を通り抜けるかのように、結衣の肩をすり抜けて歩き去った。
「お願い、誰か!」
無視されているのではない。
彼らの網膜に、結衣の姿は映っていない。鼓膜に、結衣の悲鳴は届いていない。
何百、何千という人間がひしめき合う駅前で、結衣だけが完全な「透明」になっていた。
強烈な孤独と恐怖が、結衣の正気をゴリゴリと削り取っていく。
助けて。誰でもいい、私を見て。
狂いそうなほどの静寂。いや、街はうるさいはずなのに、結衣にはもう自分以外のすべてが、自分とは無関係な別次元のノイズにしか感じられなかった。
耐えきれず、結衣はバッグからノイズキャンセリングイヤホンを取り出した。
耳を塞ぎたい。この、誰にも認識されない残酷な世界から、完全に自分を切り離してしまいたい。
震える指で、両耳にイヤホンを押し込む。
指で表面を長押しし、ノイズキャンセリング機能をオンにする。
――ピロリン。
電子音が鳴り、世界から「フッ」と音が消えた。
車のエンジン音も、人々の足音も、けたたましい蝉の声も。すべての環境音が、分厚いガラスの向こう側に追いやられたかのように無音になった。
静寂。
結衣は目を閉じ、安堵の息を吐き出そうとした。
その瞬間。
『――テン、ツク、テン、ツク』
鼓膜のすぐ裏側で。
いや、脳のど真ん中で。
あのお囃子の音が、爆音で鳴り響いた。
「ああああああっ!?」
結衣は耳を押さえ、その場にうずくまった。
外の音を遮断したことで、逃げ場を失ったその音が、結衣の頭蓋骨の中で反響し、増幅している。
『テン、ツク、テン、ツク、ピーヒョロロロ!』
狂ったようなリズム。
しゃがれた声の囁きが、脳内に直接こびりつく。
『だぁれ?』
『ねえ、だぁれ?』
外の世界からは完全に孤立し、内側からは名もなき狂気に侵食される。
行き交う無数の人々の足元で、結衣は一人、アスファルトに爪を立ててうめき声を上げ続けた。誰も、その姿を見る者はいない。




