三日目:欠落
水曜日の朝。ホームルームの教室には、窓外のけたたましい蝉時雨と、担任の教師が名簿を読み上げる単調な声だけが響いていた。
「……中村」
「はい」
「西田」
「はい」
「……長谷川」
「はい」
結衣は姿勢を正し、小さく息を吸い込んだ。次は自分の番だ。日高結衣。出席番号二十四番。
しかし、教師の視線は名簿に落ちたまま、微塵も止まることなく次の行へと滑った。
「……平野」
「はい」
「藤井」
「はい」
結衣の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「あの、先生」
結衣は思わず立ち上がり、少し大きめの声を出した。
「飛ばされてます。日高です」
だが、教師は顔を上げない。名簿にペンでチェックを入れながら、抑揚のない声で締めくくった。
「よし、全員揃ってるな。じゃあ一時間目の準備しろ。日直、号令」
「起立、気をつけ、礼」
周囲の生徒たちが一斉に立ち上がり、気怠そうにお辞儀をする。結衣だけが、机の横に立ったまま硬直していた。
冗談だろ。誰も、結衣が声を上げたことに気づいていない。隣の席の男子すら、結衣の存在など初めからそこに無いかのように、あくびをしながら数学の教科書を広げている。
まるで、結衣の声だけがこの空間の周波数から外されてしまったかのように。
結衣は逃げるように教室を飛び出した。
廊下を早足で歩く。心臓の音がうるさい。呼吸が浅い。
向かいから、プリントの束を抱えた別のクラスの男子生徒が歩いてきた。結衣は道を譲ろうと肩を引いたが、間に合わなかった。
――ドンッ!
激しく肩がぶつかり、結衣は無様に床に尻餅をついた。膝を強く打ち、ビリッとした痛みが走る。
「痛っ……」
結衣が顔をしかめて見上げると、その男子生徒はプリントを落としそうになりながらも、軽く体勢を立て直した。
しかし、彼は結衣を見ようともしなかった。それどころか、「なんだ今の、床が歪んでたのか?」とでも言いたげな、ただの物理的な障害物につまずいた時のような怪訝な顔をして、舌打ち一つ残さずに歩き去ってしまった。
謝られないことよりも、彼にとって自分が「人間として認識されていなかった」という事実が、強烈な吐き気となって結衣を襲った。
痛い。膝は確かに痛む。私はここにいる。質量も、体温もあるのに。
結衣はふらつく足で女子トイレに駆け込み、一番奥の個室に鍵をかけた。
便座に座り込み、震える指でスマホの画面を叩く。
LINEのアプリを開き、麻衣のトーク画面を呼び出した。
『麻衣、助けて。なんかおかしい』
『無視されてる、学校で』
送信。
しかし、一分待っても、三分待っても、文字の横に『既読』の二文字はつかない。
結衣は息を荒らげながら、過去のトーク履歴を上にスクロールした。麻衣の態度がおかしくなる前、確かに交わしていたはずの会話を確かめるために。
画面を見た瞬間、結衣の全身からスッと血の気が引いた。
消えている。
結衣が送ったはずの「緑色の吹き出し」が、ところどころ虫食いのように消失していた。
そのせいで、履歴の中の麻衣は、まるで誰もいない虚空に向かって一人で相槌を打ち続けている、不気味な狂人のようになっていた。
会話が成立していない。結衣が書き込んだ言葉だけが、システム上から「初めから存在しなかったもの」として間引かれている。
「なんなの、これ……」
デジタル上の自分の痕跡が、溶けるように消えていく。世界から自分というアカウントが削除されようとしている。
震える手でブラウザを立ち上げ、検索窓に単語を打ち込んだ。
『幻聴 お囃子 存在が消える』
『周り 忘れられる 病気』
検索結果には、統合失調症や離人症といった精神疾患の解説サイトばかりが並ぶ。
違う、私が頭がおかしくなったんじゃない。世界がおかしいんだ。
焦燥感に駆られながらページをめくり続けると、検索結果の五ページ目に、不自然なリンクが一つだけ紛れ込んでいるのを見つけた。
タイトルはない。ただのURLの羅列。
タップすると、画面が切り替わり、黒い背景に白抜きの文字が並ぶ、ひどく古いデザインのテキストサイトが表示された。民俗学かオカルトの備忘録のようだ。
『――夏に鳴るはずのない囃子が聞こえたら、決して振り返ってはいけない』
『村落共同体において、歪みを正すためには余剰を削る必要がある。それは生贄という直接的な形ではなく、社会的な【忘却】という手順を踏む』
『選ばれるのは常に、境界を越えて入ってきた――』
結衣は画面に顔を近づけた。ここだ。核心だ。
『その場合、対象の存在は周囲の記憶から――』
『縺ゅ↑縺溘邨カ蟇セ縺ォ縺阪∴縺ヲよそ者を縺輔l縺縺』
『縺ョ縺ァ縺吶i繧後※縺医□縺れ■』
「……え?」
文字化けだった。
古いサイトのエンコード形式が合っていないのか、肝心な部分が奇妙な記号と漢字の羅列に崩れてしまっている。
しかし、その文字化けのノイズの中に、かろうじて『よそ者を』という文字だけが、嫌に生々しく読めた。
よそ者。
お盆に東北の母の実家へ帰り、そして東京に戻ってきた自分。境界を越えてきた、よそ者。
結衣がさらに画面をスクロールしようとしたその時――スマホの画面がフリーズした。
タップしても、スワイプしても反応しない。
静まり返ったトイレの個室。換気扇の回る低いモーター音だけが響いている。
――テン、ツク。
結衣は、ビクッと肩を震わせた。
天井の換気扇の奥から。
あるいは、足元の排水溝の暗がりから。
――テン、ツク、テン、ツク。
聞こえる。
イヤホンなどしていないのに。
あの不気味な祭り囃子が、昨日よりもずっと鮮明に、すぐ近くから結衣を探すように鳴り響いていた。




