二日目:ズレ
翌朝、目を覚ますと、ひどく寝汗をかいていた。
まとわりつくシーツを蹴り飛ばし、重い頭を振ってリビングへと向かう。両親はすでに仕事へ出た後で、ダイニングテーブルにはラップをかけられたトーストがぽつんと置かれていた。
冷蔵庫を開けると、タッパーに入った昨晩の夏野菜カレーが鎮座している。ゴロゴロとしたナスが、濁ったルーの中で不気味な光沢を放っていた。
「……あり得ない」
呟いた自分の声が、やけに響いた。
十七年間、絶対に食卓に出ることのなかった食材。それを「うっかり」忘れるなんてことが、本当に起こるのだろうか。更年期の物忘れ? それとも、ただの勘違い?
必死に合理的な理由を探しながら、結衣は冷たい麦茶を喉に流し込んだ。胃の腑に落ちる冷たさが、昨夜から続く得体の知れない不安を少しだけ薄めてくれる気がした。
そうだ、たまたまだ。深く考えるのはやめよう。余計なストレスは思考のノイズになるだけだ。
逃げるように身支度を整え、結衣は夏の痛いほどの日差しの中へ飛び出した。
予備校の冷房がガンガンに効いた自習室。
結衣は自分の指定席に向かいながら、前方に座っている親友の背中を見つけた。
「麻衣、おはよ」
背後から声をかける。麻衣はシャープペンシルを置き、ゆっくりと振り返った。
「あ……おはよう」
麻衣の顔には、昨日と同じような、うっすらとした戸惑いが張り付いていた。
結衣は気にしないふりをして、隣の空席に自分のトートバッグを置こうとした。
「あ、ごめん」
麻衣が、すっと手でその席を遮った。
「ここ、里奈が来るから」
「え?」
結衣は動きを止めた。
「昨日、一緒に自習室並ぼうってLINEしたじゃん。既読スルーだったけど」
「LINE……?」
麻衣はスマホを取り出し、画面を数秒見つめた。そして、ひどく申し訳なさそうな、けれどどこか「他人の距離感」を含んだ愛想笑いを浮かべた。
「ごめん、来てないかも。っていうか、私、結衣ちゃんとそんなに頻繁にLINEする仲じゃなかった……よね?」
「は?」
結衣の口から、間の抜けた声が漏れた。
「何言ってんの。おとといスタバ行ったじゃん。フラペチーノ飲んで」
「スタバ……ああ、うん。クラスの子何人かで行った時のことかな。結衣ちゃんもいたっけ。ごめんね、私、人の顔覚えるの苦手で」
結衣ちゃん。
いつから、そんな他人行儀な呼び方になった? 高校に入学した直後のような、薄い膜が一枚隔てられたような響き。麻衣の目は、冗談を言っているようには見えなかった。本当に、「クラスの顔見知り程度の女子」に向ける、親切だが温度のない目をしていた。
「……あ、そう。わかった」
結衣はバッグを引き寄せ、足早に教室の最後列の空席へと移動した。
心臓が、嫌なリズムで跳ねている。
何かがおかしい。麻衣に嫌われるようなことをした記憶はない。そもそも、あんなに距離を置かれた「冷たい目」を向けられる筋合いがない。
結衣は震える指でスマホのロックを解除し、メッセージアプリを開いた。
クラスのグループトークに、赤い通知マークがついている。
開くと、クラスの底辺グループにいる大人しい女子――千佳が、『明日の登校日、提出する課題って数学のプリントだけでしたっけ?』とメッセージを送っていた。
既読数は『32』。
しかし、誰一人として返信していない。誰もが千佳のメッセージを「見なかったこと」にして、その直後に別の男子が送ったくだらないYouTubeのリンクで盛り上がり始めている。
いつもなら、結衣もその無言の同調圧力に加わり、千佳をノイズとして視界から消す。
「……バカみたい。空気読めばいいのに」
結衣は小さく毒づき、画面を閉じた。
自分は千佳とは違う。あんな風に、クラスの全員から存在を無視されるような惨めな立ち位置にはいない。私にはちゃんと居場所がある。
そう自分に言い聞かせるために、結衣は写真フォルダを開いた。
おととい、駅前のスターバックスで麻衣と一緒に撮ったツーショット写真。
それを見れば、麻衣がただの冗談を言っているのだと安心できるはずだった。
画面に映し出された写真を見て、結衣の呼吸がピタリと止まった。
写真は、確かに麻衣と結衣の二人を写していた。
麻衣はカメラに向かってピースサインを作り、鮮明な笑顔を浮かべている。フラペチーノのカップのロゴも、背景のガラス窓の文字も、くっきりとピントが合っている。
しかし。
隣に並んでいる『結衣の顔』だけが、ほんの少し、ぼやけていた。
手ブレではない。麻衣は完璧に静止して写っているのに、結衣の顔の輪郭だけが、水に滲んだ水彩画のように、あるいは被写体がブレた時のように、奇妙にピントが外れているのだ。
デジタル的なエラー(モザイクやグリッチ)ではない。ただ、カメラという機械が、結衣の存在を「フォーカスするに足らないもの」として認識しなかったかのような、生々しいピンボケ。
結衣は親指で画面を拡大した。
ぼやけた自分の顔。目はどこを見ているのか分からず、口元はうっすらと開いている。こんな表情をした記憶はない。
スクロールして、数日前の別の写真を見る。
これも。これもだ。
結衣が一人で写っている風景写真は普通だが、誰かと一緒に写っている写真の結衣はすべて、徐々に輪郭が溶け出すようにピントが甘くなっている。
まるで、世界から結衣という存在の「濃度」が、少しずつ間引かれているかのように。
「……っ」
気持ち悪い。
結衣はスマホを裏返しにして机に叩きつけた。周囲の生徒が何人か振り返ったが、麻衣は前を向いたまま、ピクリとも動かなかった。
予備校の帰り道。
時刻は午後七時を回っていたが、アスファルトにはまだ昼間の熱がこびりついており、ぬるい夜風が結衣の首筋を撫でた。
結衣は制服のポケットから、白いワイヤレスイヤホンを取り出した。
早く、この気持ち悪い現実から耳を塞ぎたい。音楽の重低音で、頭の中にこびりついた麻衣の冷たい目と、ぼやけた自分の写真を洗い流してしまいたい。
しかし。
右耳にイヤホンを近づけた瞬間、昨日の電車での記憶がフラッシュバックした。
『――だぁれ?』
あのしゃがれた声。乾いた拍子木の音。
もし、今これをつけて、またあの音が聞こえたら。
結衣の指が震え、イヤホンを耳に押し込むことができなかった。彼女は逃げるようにイヤホンをケースにしまい、バッグの奥底に突っ込んだ。
大丈夫だ。イヤホンさえつけなければ、外界を遮断さえしなければ、ただの日常だ。
行き交う車のエンジン音。サラリーマンたちの足音。遠くで鳴り続けるミンミンゼミの死に物狂いの声。
東京の街は、ありふれたノイズで満ち溢れている。結衣はその雑踏の音に、生まれて初めて安心感を覚えた。自分は世界と繋がっている。孤立などしていない。
信号待ちで、駅前の交差点に立ち止まった時だった。
――テン。
背筋に、冷水のような悪寒が走った。
結衣はハッとして、周囲を見回した。
イヤホンはしていない。バッグの中だ。
――テン、ツク。
聞こえる。
車のクラクションや、行き交う人々の話し声の、その隙間を縫うようにして。
遠くの路地の奥から、あの湿った拍子木の音が聞こえてくる。
――テン、ツク、テン、ツク。ピーヒョロロロ。
細く、甲高い笛の音が混ざる。
夏祭りのお囃子だ。
しかし、結衣の住むこの街の周辺で、今日祭りが開催されているなんて話は聞いたことがない。それに、そのリズムは日本のどこの祭りとも違う、内臓を直接撫で回されるような、ひどく不快で不規則なテンポだった。
「どこから……」
結衣は横断歩道を渡るのをやめ、音の鳴る方角――駅の裏手にある、暗い路地の方へと顔を向けた。
周囲の人々は、誰もその音に気づいていない。サラリーマンも、カップルも、皆一様に前を見て歩き去っていく。
この異常な祭り囃子が聞こえているのは、どうやら自分一人だけのようだった。
――テン、ツク。
音が、少し大きくなった。
路地の奥から、ゆっくりと、こちらに向かって近づいてきている。
幻聴じゃない。
バグでもない。
何かが、私を探している。
『――だぁれ?』
人混みの中で、ふと、真後ろから声がした。
振り返っても、そこには見知らぬ他人の背中があるだけだった。
結衣は両手で自分の腕を抱きしめ、逃げるように走り出した。
アスファルトを蹴る自分の足音すらも、どこかピントが外れたように、軽く、空虚に響いていた。




