一日目:ノイズ
八月も最終週に差し掛かっているというのに、東京の空気を支配する暴力的な熱と湿気は、少しも和らぐ気配を見せなかった。
東京駅。新幹線の改札を抜け、在来線のホームへと向かう人波の中で、結衣は肺の奥に溜まっていた息を細く吐き出した。冷房の効いた車内から一歩外に出ただけで、アスファルトの照り返しと無数の人間たちが発する生ぬるい体温が、透明な粘膜のように全身へへばりついてくる。
三泊四日の東北帰省。父方の祖父母が住むその村は、山と田んぼに囲まれた限界集落だった。夜になれば街灯すらまばらで、虫の鳴き声だけが耳鳴りのように鼓膜を打ち続ける。
親戚の集まり特有の、あの遠慮のない距離感。誰がどこの大学に入っただの、誰の家の娘がどうしただの。狭い村の中で、他人の噂話だけを娯楽にして生きている大人たちの粘着質な視線と、家中に染み付いた線香の匂いは、東京のマンションという密室で育った結衣にとって息が詰まるほど窮屈だった。
だからこそ、誰も他人に干渉しない東京の雑踏に戻ってくると、ひどく安心する。
行き交う人々は皆、スマホの画面に目を落とすか、虚空を見て歩いている。誰かと肩がぶつかっても一瞥もくれない。ここには「結衣ちゃん」を知る人間は誰もいない。ただの風景の一部として存在できるこの冷たい匿名性こそが、結衣にとっての正常な日常だった。
自宅のある駅へ向かうため、山手線に乗り換える。
車内は人で溢れていた。結衣はドア横のスペースに身を滑り込ませ、バッグから白いワイヤレスイヤホンを取り出した。
結衣にとって、このノイズキャンセリングイヤホンは、単なる音楽を聴くための道具ではない。外界の不快な要素――他人の会話、電車の走行音、見知らぬ人間の息遣い――それらすべてを物理的に『遮断』してくれる防具だ。
耳の穴にシリコンを押し込み、柄の部分を指の腹で長押しする。
『ポンッ』という短い電子音。
その瞬間、世界から不純物が抜け落ちた。
まるで分厚い水槽の底に沈んだかのように、車内のあらゆる騒音が膜の向こう側へと遠のく。サラリーマンの咳払いも、車輪がレールを軋ませる金属音も、すべてが無音の真空パックに閉じ込められた。
結衣はスマホの画面をタップし、お気に入りのプレイリストを再生する。洗練されたベースの重低音が、頭蓋骨を心地よく揺らす。自分以外の人間が全員、音の出ないホログラムになったような錯覚。自分にとって都合の悪いものを「ノイズ」として切り捨てることは、結衣にとって息をするのと同じくらい自然な自衛手段だった。
画面をスワイプし、メッセージアプリを立ち上げる。
親友の『麻衣』のトークルーム。出発する前日、駅前のカフェで「お盆は田舎に強制連行されるから最悪」と愚痴をこぼし合ったばかりだ。
『やっと東京戻ってきたー。田舎マジで電波ないし暇すぎた。明日からの講習だるい』
手早く打ち込み、送信する。
数十秒後、画面の端に小さく『既読』の文字がつき、スタンプと共に返信が送られてきた。
『おかえり! 講習サボって静岡のばあちゃん家とか羨ましすぎ。こっちはずっと自習室だよー』
画面を見つめたまま、結衣の親指がピタリと止まった。
静岡。
文字を見間違えたわけではない。しかし、結衣の祖父母の家は東北だ。前日にカフェで直接話した時も、「東北は虫が多くて無理」と散々こぼしたはずだ。
『え、東北だよ笑 静岡なんて言ってないじゃん笑』
軽い絵文字を添えて送る。麻衣は時々、こういう適当なところがある。人の話を半分しか聞いていないというか、自分に興味のないことはすぐに忘れてしまうのだ。
結衣は返信を待ったが、一分経っても既読はつかなかった。
「……ま、いっか」
結衣は小さく息を吐き、スマホをポケットに滑り込ませた。他人の些細な勘違いにいちいち苛立っていても仕方がない。それこそ余計なノイズだ。
電車がカーブを曲がり、車体が大きく揺れる。
目を閉じて音楽に意識を委ねようとした、その時だった。
――テン。
右耳のイヤホンから、微かな音が鳴った。
滑らかな洋楽のメロディに混じる、硬い木と木を打ち合わせたような、乾いた高い音。
結衣は閉じていた目を開けた。
毎日聴いている曲だが、あんな拍子木のようなサンプリング音が入っていた記憶はない。
――テン、ツク。
まただ。
今度は、ベースの音に隠れるように、しかしはっきりと輪郭を持って鼓膜を叩いた。ひどく不規則で、どこか湿り気を帯びたリズム。
ふと、数日前に田舎の村で嗅いだ線香の匂いと、遠くの山から風に乗って聞こえてきた不気味なお囃子のリズムがフラッシュバックする。
(……Bluetoothの混線?)
結衣は右耳のイヤホンを外し、指先でコンコンと軽く叩いてみた。
途端に、遮断されていた現実の音が、暴力的なボリュームで押し寄せてくる。電車の走行音。誰かの鼻をすする音。むわっとした他人の体臭。
不快感に顔をしかめ、もう一度耳に押し込む。再び世界が真空パックに閉じ込められ、流れてくるのはいつものクリアな洋楽だけになった。あの乾いたノイズは、もうどこにも混ざっていない。
「なんだ、ただのバグか」
結衣は安堵し、再び目を閉じた。
たかが機械の不具合だ。
だから彼女は、気にも留めなかった。ノイズキャンセリングが切れ、車内の雑多な環境音が押し寄せていた、ほんの数秒間。
サラリーマンの咳払いや走行音に紛れ、すぐ真後ろに立つ『誰か』の口元から、ひどく乾燥した声が漏れていたことに。
『――だぁれ?』
それは、他人の発するありふれた生活音の隙間に潜り込み、結衣の無防備な耳の奥へと確かに注ぎ込まれていた。
夜。
玄関のドアを開けると、エアコンの効いた涼しい空気と、夕食のカレーの匂いが出迎えてくれた。
「ただいま」
「おかえりなさい。疲れたでしょう」
キッチンからエプロン姿の母親が顔を出す。その見慣れた日常の風景に、結衣は張り詰めていた肩の力を抜いた。
洗面所で手洗いうがいを済ませ、部屋着に着替えてダイニングテーブルに向かう。
テーブルの上には、すでにカレーライスとサラダが並べられていた。
結衣は自分の席に座り、スプーンを手に取ろうとして――不意に動きを止めた。
結衣の目の前に置かれたカレー。
ルーの中に、乱切りにされた大きな『ナス』が大量に沈んでいた。
「……お母さん」
「ん? なあに? お父さん、もう少しで帰るって言うから先に食べちゃいましょう」
「これ、なに」
結衣がスプーンの先でナスを指すと、母親は不思議そうに首を傾げた。
「なにって、夏野菜カレーだけど。ナスがたくさん安かったから」
結衣の背筋を、冷たいものがツーッと滑り落ちた。
「私、ナスのアレルギーだよね」
「……え?」
「幼稚園の時にナス食べてアナフィラキシー起こして、救急車乗ったじゃん。それからずっと、うちのカレーにナスなんて一回も入れたことないよね?」
結衣の声は、自分でも驚くほど冷たく、強張っていた。
母親は目を瞬かせ、結衣の顔と、カレーの皿を交互に見た。
「あら……そうだったかしら?」
母親は、まるで『隣の家の住人の好き嫌い』でも忘れていたかのように、あっけらかんと言った。
「ごめんなさいね、お母さん、すっかり忘れてたわ。ナスだけ除けて食べてちょうだい」
除けて食べる、などというレベルではない。
命に関わることだ。十七年間、一度だって食卓に出たことのない食材を、よりによって母親が「うっかり忘れる」などということがあるだろうか。
母親は軽く笑いながら、自分のカレーを口に運んでいる。
その横顔を見て、結衣は心臓が冷水に浸されたような感覚に陥った。
母親の顔は、結衣の知っている母親の顔だった。しかし、その内側にある何かが、決定的に欠落しているように見えた。
麻衣と同じだ。私に対する『記憶の核』のようなものが、すっぽりと抜け落ちている。
「……いらない。疲れてるから、もう寝る」
結衣は席を立った。
「あらそう? もったいないわねえ」
背後からかけられた声には、夕飯を食べない娘を心配する温度は一切なかった。
自室に戻り、鍵をかける。
ベッドに倒れ込み、シーツを頭から被った。
おかしい。絶対に何かがおかしい。世界が、私という存在の輪郭を少しずつ『間違え』始めている。
暗闇の中で、目を閉じる。
マンションの防音性は高く、外の車の音すら聞こえない。
その完全な静寂の中で。
――テン、ツク。
また、鳴った。
今度は、イヤホンからのバグではない。
耳から聞こえているのではない。結衣自身の喉の奥、あるいは胃袋の底あたりから、その音が湧き上がってきているのだ。
――テン、ツク、テン。
東京の蒸し暑い夜は、まだ始まったばかりだった。




