七日目:同化
日曜日。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、まぶたを柔らかく撫でた。
結衣はゆっくりと目を覚ました。冷房の効いた快適な自室。洗い立てのシーツの匂い。窓の外からは、どこか遠くでのどかなミンミンゼミの声が聞こえてくる。
ひどく長い、嫌な夢を見ていた気がする。けれど、どんな夢だったのかは、目覚めた瞬間に霧散してしまった。
伸びをしてベッドから起き上がり、リビングへのドアを開ける。
テレビからは日曜朝のバラエティ番組の明るい笑い声が流れていた。ダイニングテーブルには、ベーコンエッグとトーストが並べられている。
「あ、結衣。おはよう」
キッチンから顔を出した母親が、ごく自然な、いつもの穏やかな笑顔を向けた。
「おはよう」
結衣があくび混じりに返すと、新聞を読んでいた父親が「お前、昨日帰ってきてからずっと寝てたぞ。疲れてるんじゃないのか」と苦笑いした。
平和だ。
当たり前の日常が、寸分の狂いもなくそこにある。
結衣は自分の席に座り、スマートフォンを手に取った。画面右上のバッテリー表示は『100%』。
指紋認証でロックを解除し、無意識に写真フォルダを開く。
おとといの金曜日、スタバで撮った写真が最新のサムネイルになっていた。
画面いっぱいに表示させる。
そこには、フラペチーノを手にして、とびきりの笑顔でピースサインを作る結衣が写っていた。被写界深度は完璧で、結衣の顔の輪郭、まつ毛の一本一本までが、これ以上ないほど鮮明にピントが合っている。
結衣の隣には、親友の麻衣が写っているはずだった。だが、写真の中の結衣は『最初からそこに自分一人しかいなかった』かのように、画面の中央を独占して完璧な自撮りを完成させていた。
「うん、盛れてる」
結衣は満足げに呟き、次にLINEのアプリを開いた。
友達リストの数字は『135』。
麻衣からの未読メッセージが一件入っている。『明日からの夏期講習、席取っとくねー!』という、いつも通りの軽口だ。
結衣はスタンプを一つ返し、スマホをテーブルに置いた。
自分が昨日まで、世界から透明にされ、誰からも認識されない極限の恐怖を味わっていたこと。
そして、その恐怖から逃れるために、クラスの隅にいた一人の少女を『よそ者』として生贄に捧げたこと。
そのすべての記憶が、結衣の脳から綺麗に拭い去られていた。
今の結衣にあるのは、自分の輪郭が世界にくっきりと刻み込まれているという、絶対的な安心感と、不気味なほどの万能感だけだった。
結衣は席を立ち、洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。タオルで水気を拭き取り、ふと、鏡に映る自分の顔を見つめた。
血色の良い頬。潤った唇。
自分はここにいる。誰よりも確かに、この世界に存在している。
無意識のうちに、結衣の口元が吊り上がった。
それは十七歳の少女には似つかわしくない、ひどく傲慢で、醜い笑みだった。
そして結衣の唇は、誰に教わったわけでもないのに、ごく自然にひとつのメロディを口ずさみ始めていた。
――テン、ツク、テン、ツク。
――ピーヒョロロロ。
それは、世界から弾き出された『よそ者』を探す、あの不快なお囃子のリズム。
結衣は自分がそんな呪いの音色を口にしていることすら自覚しないまま、鏡の中の自分を見つめて微笑み続けている。
ふと、結衣の視線が動いた。
鏡の中の自分と目が合っていたはずの視線が、ゆっくりと、鏡の『奥』へと焦点が変わる。
まるで、鏡という薄いガラスの向こう側――つまり、今このスマートフォン(あるいは本)の画面を通して『結衣』の物語を覗き込んでいる、あなたの目と、真っ直ぐに視線が交差するように。
お囃子のメロディを口ずさむのをやめ、結衣は少し不思議そうに首を傾げた。
そして、ひどく無邪気な、甘えるような声で、画面の向こうのあなたに向かって囁いた。
「……ごめん。あなたの名前、なんだっけ?」
日常は続く。
誰かが、誰かのノイズとして消されるまで。
「ちゃんと思い出してね。あなたが、あなたであるうちに」




