無垢が招く後悔
第5話をお届けします!
いつも読んでくださり、本当に励みになっています。
物語が少しずつ動き出しますので、今回も楽しんでいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ!
『社会の裏側』
第五章:錯綜する脚本
フレデリックは、席を立ちかけるザックを見送りながら、庭の木々を静かに揺らす夜風の囁きに耳を傾けていた。その威厳に満ちた声が、静寂の中に響く。
「レスター刑事……もしこの事件の渦中で道を見失い、己のなすべきことが分からなくなった時は、いつでも私を頼るといい。決して遠慮は無用だ」
ザックは真摯な感謝を込めて深く頷いた。
「ええ、必ず。ありがとうございます」
ザックはローレンとフレデリックに礼儀正しく別れを告げ、洗練された邸宅を後にした。外の空気は完全に闇に包まれ、夜の冷気が容赦なく街の通りを支配し始めていたが、ザックの脳内は新たな思考と推理の嵐で激しく脈打っていた。
同じ頃、街の反対側では、騒がしい光の洪水と耳を劈く音楽の底で、欲望の渦巻く巨大なカジノが混沌とした熱気に包まれていた。
『傲慢』──あのポニーテールの男は、いつもの不遜な態度と確信に満ちた足取りで人混みをかき分け、円卓の豪奢な椅子に深く腰掛けた。そして、隣に立つ相棒──背の低い禿げ頭の男に嘲笑を浮かべ、挑発的な口調で言い放った。
「おい、『勤勉』……お前がカードの勝負でもその名の通り勤勉なのか、それともその頭脳は退屈な任務の時しか役に立たないのか、見せてもらおうじゃないか」
しかし、『勤勉』は席に着くことを拒み、ただ冷徹な眼差しで周囲の様子を油断なく見張っていた。その声は乾き、容赦のない響きを孕んでいる。
「私は娯楽や時間の浪費のためにここへ来たのではない。私には完遂すべき明確な任務がある……お前のように、己の『傲慢』に溺れている暇はないのだ」
『傲慢』は鼻で笑い、近づいてきたウェイターに酒を注文すると、無関心に言い返した。
「好きにするがいい。とにかく、俺の邪魔だけはするな」
背の低い男は踵を返し、喧騒に満ちたホールの床を離れて上層階へと続く階段を上っていった。やがて、重厚な木製の総支配人室の前に辿り着く。
静かにノックをして中へ入ると、デスクの向こうに、上着を脱いだシャツ姿の男が座っていた。男は手元で『ウィンストン』の煙草に火を点けている。
『勤勉』は静かな足取りで近づき、その低い声を響かせた。
「──奴は、決断を下したか?」
男は緑色の瞳をまっすぐに向け、ゆっくりと紫煙をくゆらせながら、凍りつくような平穏さで答えた。
「ああ……明日、すべてが終わる」
『勤勉』は深く頷いた。
「上出来だ。明日になれば、我々は巨大な重荷から解放される」
彼は立ち去るべく身を翻し、何でもないことのように言葉を添えた。
「ともあれ……貴殿の貴重な時間を奪ってしまったな、──『フューズ(火口)』」
緑の瞳の男が、終わりを告げるように小さく一礼する。背の低い男は静かに部屋を後にし、闇の中へと消えていった。
ザックが疲れ切った身体と、疑問で煮えくり返る脳を引きずって自宅へ戻った時、夜はすでに深まっていた。散らかり放題の寝室に入り、ベッドに倒れ込んで眠りにつこうとしたその瞬間、彼の脳裏にある記憶が電撃のように走った。
ザックは跳ね起き、ベッドの背もたれに体を預けた。
「──どうして忘れていたんだ。あの赤い封筒を……! ジェルメインに渡さなければならなかったはずだ。だが、あいつはいつも不在で、会うことすら叶わないというのに」
彼は素早く立ち上がり、部屋の明かりを点けて闇を追い払うと、厳重に封をされた赤い封筒を取り出した。まるで古い秘密の箱を開けるかのように、慎重に、そして静かに。指先を震わせながら中の紙片を引き出すと、そこには力強く冷徹な英語の筆跡で、こう記されていた。
『You lost. Give up !(お前の負けだ。諦めろ!)』
ザックは不審そうに眉をひそめ、その言葉を凝視した。
「あの禿げ頭の男、一体どういうつもりでジェルメインにこんなメッセージを……? 不可解極まりない」
静まり返った部屋で、ザックは手紙を見つめたまま立ち尽くしていた。だがその時、脳の深淵から湧き上がった衝撃的な閃きが、彼の瞳を驚愕に見開かせた。
「まさか……いや、あり得ない。これは……俺に向けられた言葉なのか?」
「いや……それはないはずだ」
背筋に冷たい戦慄が走り、彼は怒りと焦燥を孕んだ声で呟いた。
「チッ、あの男の狙いは誰なんだ? もしこれが俺への警告だとしたら、奴がノートパソコンの盗難事件に関与し、俺を遠ざけようとしている証拠だ。だが、なぜ奴らは俺のような風来坊の刑事を排除するために、わざわざこんな真似をする? 糞っ、分からん!」
彼は後退りし、その最悪の仮定を打ち消すように首を振った。
「いや、やはりジェルメイン宛てと考えるのが自然だ。だが、その裏にある意図は何だ? 奴らはあいつに何を求めている?」
ザックは部屋の中を狂ったように行き来し、頭の中で疑問の嵐を爆発させていた。「どういう意味だ? どういう意味だ?」
その時、彼の瞳に、深海の中で失われた宝を見つけたかのような鋭い光が宿った。彼は強く拳を打ち鳴らした。
「……見えたぞ! そうだ、間違いない! ジェルメインはあのパソコンを盗んだ後、奴らを恐喝ったんだ! だからこそ、フレデリック氏の言う『C級犯罪者』である奴らは、あいつを包囲し、こうして脅迫している……。これでジェルメインの不可解な失踪の理由も完全に説明がつく。奴らから身を守るために逃亡したんだ! そうだ、これこそが唯一の、そして完璧な真実だ。俺の推理は間違っていない!」
ザックは滾る興奮を抑えきれず、この確信に満ちた手がかりを朝まで胸に秘めておくことなど不可能だった。彼はスマートフォンを引っ掴むと、コックス夫人の番号、いや、その夫であるフレデリックへ繋がるボタンを狂ったように押した。
数回の呼び出し音の後、受話器からフレデリックの静かで威厳ある声が響いた。だが、その背後からは微かなクラシック音楽の旋律と、温かな笑い声が漏れ聞こえていた。
ザックは興奮で声を震わせながら言った。
「フレデリック氏、こんな夜更けに本当に申し訳ありません! ですが、事件の核心に迫る、極めて重要な新しい糸口を見つけたんです!」
フレデリックは受話器の向こうで小さくため息をついたが、その声には明らかな包容力と苦笑が混じっていた。
「レスター刑事……君のその情熱は素晴らしい。だがね、今夜は妻のローレンとの二十回目の結婚記念日なのだ。この時間は、すべて家族のために捧げると決めていてね」
ザックは激しい決まずさに襲われ、赤面しながら声を詰まらせた。
「あ……それは、本当に失礼しました。知らなかったとはいえ……おめでとうございます」
フレデリックは穏やかで寛容な調子で言葉を返した。
「気にする必要はない、青年よ。明日、裁判所の私のオフィスに来なさい。君が手に入れたその詳細な推理を、じっくりと聞こうじゃないか。良い夜を」
通話が切れると、ザックはゆっくりとスマートフォンを下ろした。その顔には、つい数時間前まで新米刑事の手に負えないと思われていた難事件を、己の手で解き明かしたという深い誇りと高揚感が滲んでいた。
同じその瞬間、ロジャーは体を引きずるようにして、自宅の玄関の前に辿り着いていた。身体は激痛で絶え間なく震え、一歩を進めることすら奇跡のようだった。
震える指先で鍵穴に鍵を差し込み、極限の注意を払ってゆっくりとドアを押し開ける。己の悲惨な姿に誰の目も向けさせたくはなかった。右目は完全に腫れ上がり、赤黒い不気味な痣と化している。動く方の手で折れた腕を必死に庇うが、歩くたびに全身を苛烈な痛撃が駆け巡り、服は道路の土埃と、すでに乾き始めた血の塊で無惨に汚れていた。
家の中に足を踏み入れると、邸宅は深い闇に包まれていた。ただ一つ、両親の部屋のドアの隙間から漏れる温かな光と、そこから流れ出すかすかなクラシック音楽の旋律だけが、静寂を優しく拒んでいた。
その時、ロジャーの脳裏に忘れていた記憶が蘇った。──今日だった。二人の、二十回目の結婚記念日。
闇の中で立ち尽くすロジャーの喉を、強烈な悔恨と苦しみが締め付けた。父親のパソコンを独断で学校へ持ち出し、自分の盲目的な信頼のせいで、すべてを破滅させてしまった。その大罪への激しい後悔が胸を抉る。静まり返ったスマートフォンを見つめると、その絶望はさらに深まった。「ジェルメインが戻り、すべてを解決してくれる」という一縷の望みは完全に崩壊し、後に残されたのは、凍りつくような敗北感と圧倒的な孤独だけだった。
彼は最初、両親の前に進み出てすべてを告白し、己の過ちの報いを受ける覚悟を決めていた。しかし、あの光り輝く温かな扉を見つめ、それから暗い廊下の鏡に映る、傷だらけで変わり果てた己の惨めな姿を見た時、その決意は揺らいだ。
「──今じゃない……」
彼は苦々しく 囁いた。
このあまりにも幸福で特別な夜を、このような醜悪な姿で汚すわけにはいかなかった。この夜に、二人の心を粉々に砕くような秘密の箱を開けるわけにはいかない。彼は己の激痛と秘密を、もう一晩だけ、二人の幸福のために飲み込むことを選んだのだ。
ロジャーはボロボロの身体を奮い立たせ、闇に紛れる幽霊のように、極めて静かな足取りで自室へと這い進んだ。ドアを音もなく閉め、暗闇の中でその場に崩れ落ちる。ただ、夜の長い沈黙の中で、苦痛と後悔の涙だけが静かに、果てしなく流れ落ちていった。
第5話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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それでは、第6話でまたお会いしましょう!




