バジディオの絶望
第26話へようこそ!
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それでは、第26話をお楽しみください!
曇り空の下、どこまでも広がる緑の草原。
ザックは仰向けに倒れたまま、全身から大量の汗を流していた。しかし、指一本動かすことができない。まるで四肢が完全に麻痺してしまったかのようだった。
彼の視線は、ただ一つの存在に釘付けになっていた。
大きく背を曲げたフレデリック氏。
そして、その隣には同じように背を曲げた一人の女性。
二人はゆっくりと、ゆっくりとザックへ近づいてくる。
フレデリックは感情のない奇妙な声で、同じ言葉を繰り返していた。
「君は本当に変わったな……。あの頃は、そんなふうに見ていなかった」
その言葉は不快な残響のように何度もザックの耳に響き続けた。
汗で濡れた身体を動かせないまま、彼はただ見つめることしかできない。
そしてフレデリックがすぐ目の前まで迫った、その瞬間――。
同じ頃。
コクサル家の温かなリビングでは――。
「うっ……あぁ……」
ソファに横たわるザックは苦しそうに身をよじり、途切れ途切れのうめき声を漏らしていた。
深く眠っているはずなのに、まるで悪夢に囚われているようだった。
そんな彼のもとへ、スマートフォンを手にしたロジャーが静かに近づく。
そしてスマホのスピーカーをザックの耳元へ近づけると――。
アラームを再生した。
耳をつんざくような大音量だった。
次の瞬間。
ザックは飛び起きた。
ほんの一瞬で身体を起こし、激しく脈打つ心臓を確かめるように左胸へ手を当てる。
そんな彼を見て、ロジャーは声を上げて笑った。
「はははっ! ごめんよ、友達! でも、どうやってでも起こさなきゃいけなかったからさ」
ザックは疲れたように息を整えながら答えた。
「いや、気にするな……ロジャー。でも……まさか……」
そこで彼の表情が変わる。
驚きと気恥ずかしさが入り混じった顔になった。
「……俺、ここで一晩中寝てたのか?」
ロジャーはさらに笑いながら手を振った。
「そうだよ! それがどうしたんだ? 疲れてそのまま寝ちゃっただけじゃないか。それに、ここは知らない家じゃない。自分の家だと思ってくれていいんだよ、友達」
ザックの口元に自然な笑みが浮かんだ。
「ありがとう……友達」
その時だった。
ローレン夫人が丁寧な刺繍の入ったトレイを持って部屋へ入ってくる。
トレイの上には温かいコーヒーが二杯。
砂糖入れ。
そして自家製のチェリーケーキが並んでいた。
ザックは少し申し訳なさそうに言う。
「わざわざこんなことまでしていただかなくても……。ちょうど帰ろうと思っていたんです」
するとロジャーが笑った。
「何言ってるんだよ。さっきも言っただろ? ここは君の家みたいなものなんだ。そんな遠慮は必要ないさ」
ローレン夫人も優しく微笑みながらテーブルへトレイを置いた。
「もちろんですよ、レスターさん。どうか本当に自分の家だと思ってください。それがフレディの望みでもありましたから」
その言葉に。
ザックとロジャーは同時に目を見開いた。
「えっ?」
ロジャーが首を傾げる。
「母さん、何言ってるんだ? 父さんが関係あるの?」
ローレン夫人は自信ありげに微笑んだ。
「お父さんはね、レスターさんと良い関係を築いてほしいと思っていたのよ。深く知っていたわけではないけれど、この人はきっとあなたの良き友人になるって信じていたの」
ザックは照れくさそうに後頭部を掻いたが、何も言えなかった。
ローレン夫人はそのまま部屋を出ようとする。
「それじゃあ私は失礼するわ。二人でゆっくり朝食を楽しんでね」
ザックは、少し考え込んでいるロジャーへ声をかけた。
「友達?」
ロジャーは我に返ると、ぱんっと一度手を叩いた。
「よしっ! それじゃあ食事の時間だ!」
ザックは目の前のチェリーケーキへ手を伸ばす。
艶やかな紫色のチェリージャムがたっぷりとかかったそれは、とても美味しそうだった。
ザックはロジャーと並んでソファに腰掛けながら朝食を取っていた。
部屋の隅に置かれた小さなテレビでは、ニュース番組が生放送で流れている。
その時だった。
画面に大勢の群衆が映し出された。
人々はプラカードを掲げながらデモ行進を行っている。
その内容を目にした瞬間、ザックは食べていた物を思わず吹き出した。
「なっ……何だこれは!?」
驚愕の声が部屋に響く。
ロジャーは不思議そうに彼を見た。
「どうしたんだ? 普段ニュースを見ないのか?」
ザックは目を見開いたまま画面を指差した。
「アスコ・マイコタって……!」
しかしロジャーは落ち着いた様子で言葉を引き継ぐ。
「……父さんを殺した容疑者だよ」
彼は少しだけ視線を落とした。
「こういう運動は前から続いてるんだ。君はあまりテレビを見ないみたいだね」
そして画面へ目を向ける。
「北アイルランドで死刑制度を復活させろって訴えてる人たちさ。もちろん法律的には不可能だけどね」
苦笑を浮かべながら続けた。
「それにしても人数は多いよな。正直、その大半は父さんのことなんて知らなかったと思うけど」
ザックは唖然としていた。
「いつから続いているんだ?」
ロジャーは肩をすくめる。
「さあ? 正確には知らないな。たぶん事件が起きた頃からじゃないか?」
そして気楽な口調で付け加えた。
「そんなことより朝食を済ませよう。僕が君を職場まで送るからさ。そのあとジェフとイサアクのところへ行く予定なんだ」
するとロジャーは何かに気付いたように笑い出した。
「あっ、今『ジェフ』って呼んだな!」
楽しそうに身を乗り出す。
「ほら見ろよ。もう親しい友達みたいな呼び方じゃないか。これは僕とジェフが仲良くなれる証拠だと思わないか?」
しかし返事はなかった。
「ザック?」
ロジャーは首を傾げる。
「おーい、ザック?」
その頃、ザックの意識は完全に別の場所にあった。
(まさか……。世論はアスコさんの処刑を望んでいるのか……)
彼は内心で乾いた笑いを漏らした。
(いや、落ち着け。議会がそんな要求を認めるはずがない。法律に真っ向から反しているんだからな……)
そして小さく安堵する。
(つまり、まだ時間はある……!)
「ザーーック!」
ロジャーの声でようやく現実へ引き戻された。
「うわっ!?」
ザックは肩を震わせる。
ロジャーは立ち上がりながら笑った。
「ほら、行こう! 早く出発しようぜ!」
ザックも慌てて立ち上がる。
「ああ、分かった。今行く」
二人はコクサル家を後にした。
長く細い道路の両側には、高い木々がどこまでも続いていた。
木々の影がアスファルトを覆い、辺りを薄暗くしている。
その道路脇に、バジディオは立っていた。
ウィンストンの煙草を吸いながら、苛立った様子で誰かを待っている。
かなり前からここで待機していたらしい。
やがて。
一台の黄色い車が遠くからゆっくりと近づいてきた。
そしてバジディオの前で静かに停車する。
運転席から降りてきたのは、丁寧に後ろへ撫で付けられた灰色の髪を持つ男だった。
冷たく厳しい眼差し。
クラトロスである。
車を降りた途端、彼は不機嫌そうに言った。
「バジディオ。最近のお前は本当に面倒だな」
冷たい視線を向ける。
「何度言えば分かる? 私の個人番号に電話をかけるな」
バジディオは慌てて弁解した。
「悪かった! だが今回は緊急なんだ! 本当に急を要する!」
そして声を強める。
「プレウロトゥスを始末してくれ! あいつのせいで計画が滅茶苦茶になってる!」
だがクラトロスはまったく興味を示さなかった。
「それはお前の問題だ」
冷淡に言い放つ。
「そんな下らない男に構っている暇はない。自分で何とかしろ」
バジディオの表情が焦りに染まった。
「だが、あいつに追い詰められてるんだ! フォミスを捕まえられた! あいつだって永遠に尋問に耐えられるわけじゃない!」
切羽詰まった声で訴える。
「今すぐ動かなければ――」
しかしクラトロスは容赦なく遮った。
「動くのは私じゃない」
氷のような目で見下ろす。
「お前だ」
そして続けた。
「問題を解決するのはお前の役目だ、バジディオ」
少しだけ眉をひそめた。
「なぜお前が『導火線』の異名を名乗っていると思う? いつまでも私に頼るためか?」
そう言うと、再び車へ乗り込もうとした。
「私は今、議会の説得で忙しい。もう個人番号にはかけてくるな」
エスパーの頬には、いつの間にか涙が伝っていた。
フォミスは必死にパンを頬張っている。まるで、この一口一口を逃すまいとするかのように。
その姿を見つめながら、エスパーは静かに呟いた。
「……まるで孤児院にいた頃みたいだな」
フォミスの肩がわずかに震えた。
エスパーは懐かしむように目を細める。
「あの頃も、お前はよく泣いてたよな。少し嫌なことがあるだけですぐ泣いて……」
フォミスは涙声のまま答えた。
「だって……怖かったんだよ……」
「知ってる」
エスパーは小さく笑った。
「だから俺とバジが、お前を守るって約束したんだろ」
フォミスの瞳から再び大粒の涙が零れ落ちる。
「兄さん……」
エスパーは優しく頭を撫でた。
「大丈夫だ。バジは絶対に諦めない」
そして、自分自身に言い聞かせるように続ける。
「俺たちは兄弟だからな」
フォミスは何度も頷いた。
「うん……」
しかし、その返事とは裏腹に、彼の身体は恐怖で震え続けていた。
この場所にいる限り、次に何が起こるのか分からない。
プレウロトゥスが再び現れれば、また地獄のような尋問が始まるかもしれない。
それでもエスパーは笑顔を崩さなかった。
弟を安心させるために。
そして、自分自身が折れてしまわないために。
薄暗い部屋の中には、フォミスが食事をする小さな音だけが静かに響いていた。
そう言い残すと、クラトロスは黄色い車へ乗り込んだ。
だが、ドアが閉まる寸前――
バジディオは慌てて駆け寄り、片手をドアの隙間へ差し込んだ。
「待ってくれ、兄さん! 頼む、助けてくれ!」
クラトロスはその手を一瞥した。
その視線に迷いはなかった。
次の瞬間――
バンッ!
彼は容赦なくドアを閉めた。
「うああっ……! いっ……ああっ!」
バジディオは慌てて手を引っ込め、その場で痛みに顔を歪める。
クラトロスは気にも留めない。
黄色い車はそのまま走り去り、あっという間に姿を消した。
後には、痛む手を押さえながら立ち尽くすバジディオだけが残された。
その頃――
エスパーは不安げな足取りで薄暗い廊下を歩いていた。
緊張のあまり、無意識に爪を噛んでいる。
やがて廊下の奥へ辿り着き、一つの狭い部屋へ入った。
部屋の中では、フォミスが苦しそうに身をよじっていた。
全身を頑丈な縄で縛られ、自由に動かせるのは傷だらけの両目だけだった。
エスパーが入ってきたことに気付くと、フォミスは叫ぶのをやめた。
そして必死に身体を動かし、何かを伝えようとする。
エスパーはゆっくりと近づき、口に巻かれていた布を外した。
長い沈黙の末、フォミスはかすれた声を絞り出した。
「兄さん……無事……だよな?」
そして震える声で続ける。
「エスパー兄さん……バジは……? 俺たち……ここから出られるのか?」
エスパーは重いため息をついた。
目には涙が滲んでいる。
それでも弟を安心させるように言った。
「まだだ……。でも、バジならきっと方法を見つける」
優しく語りかける。
「だからもう少しだけ耐えるんだ。心配するな。それに――約束を忘れるな」
その言葉を聞いた瞬間、フォミスの目から大量の涙が溢れ出した。
「兄さん……もう無理だよ……」
声が震える。
「もう耐えられない……お願いだ……助けてくれ……」
エスパーは思わず目を見開いた。
ここまで弱り切ったフォミスを見るのは初めてだった。
彼は慌てて話題を変える。
「大丈夫だ。ほら、食べ物を持ってきたぞ」
そう言うと、コートの内側からサラダ入りのパンを取り出した。
そして一口ずつ、丁寧にフォミスへ食べさせていく。
フォミスは夢中でそれを口にした。
まるで何日も何も食べていなかったかのように。
そんな様子を見つめながら、エスパーの顔には少しずつ穏やかな笑みが浮かんでいく。
そして懐かしそうに呟いた。
「……まるで孤児院にいた頃みたいだな」
第26話を読んでいただき、ありがとうございました!
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それでは、また次の話でお会いしましょう!




