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社会の裏側  作者: トビー
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26/59

バジディオの絶望

第26話へようこそ!


いつも『社会の裏側』を読んでくださり、本当にありがとうございます。


皆様の応援や感想が大きな励みになっています。


それでは、第26話をお楽しみください!

曇り空の下、どこまでも広がる緑の草原。


 ザックは仰向けに倒れたまま、全身から大量の汗を流していた。しかし、指一本動かすことができない。まるで四肢が完全に麻痺してしまったかのようだった。


 彼の視線は、ただ一つの存在に釘付けになっていた。


 大きく背を曲げたフレデリック氏。


 そして、その隣には同じように背を曲げた一人の女性。


 二人はゆっくりと、ゆっくりとザックへ近づいてくる。


 フレデリックは感情のない奇妙な声で、同じ言葉を繰り返していた。


「君は本当に変わったな……。あの頃は、そんなふうに見ていなかった」


 その言葉は不快な残響のように何度もザックの耳に響き続けた。


 汗で濡れた身体を動かせないまま、彼はただ見つめることしかできない。


 そしてフレデリックがすぐ目の前まで迫った、その瞬間――。


 同じ頃。


 コクサル家の温かなリビングでは――。


「うっ……あぁ……」


 ソファに横たわるザックは苦しそうに身をよじり、途切れ途切れのうめき声を漏らしていた。


 深く眠っているはずなのに、まるで悪夢に囚われているようだった。


 そんな彼のもとへ、スマートフォンを手にしたロジャーが静かに近づく。


 そしてスマホのスピーカーをザックの耳元へ近づけると――。


 アラームを再生した。


 耳をつんざくような大音量だった。


 次の瞬間。


 ザックは飛び起きた。


 ほんの一瞬で身体を起こし、激しく脈打つ心臓を確かめるように左胸へ手を当てる。


 そんな彼を見て、ロジャーは声を上げて笑った。


「はははっ! ごめんよ、友達! でも、どうやってでも起こさなきゃいけなかったからさ」


 ザックは疲れたように息を整えながら答えた。


「いや、気にするな……ロジャー。でも……まさか……」


 そこで彼の表情が変わる。


 驚きと気恥ずかしさが入り混じった顔になった。


「……俺、ここで一晩中寝てたのか?」


 ロジャーはさらに笑いながら手を振った。


「そうだよ! それがどうしたんだ? 疲れてそのまま寝ちゃっただけじゃないか。それに、ここは知らない家じゃない。自分の家だと思ってくれていいんだよ、友達」


 ザックの口元に自然な笑みが浮かんだ。


「ありがとう……友達」


 その時だった。


 ローレン夫人が丁寧な刺繍の入ったトレイを持って部屋へ入ってくる。


 トレイの上には温かいコーヒーが二杯。


 砂糖入れ。


 そして自家製のチェリーケーキが並んでいた。


 ザックは少し申し訳なさそうに言う。


「わざわざこんなことまでしていただかなくても……。ちょうど帰ろうと思っていたんです」


 するとロジャーが笑った。


「何言ってるんだよ。さっきも言っただろ? ここは君の家みたいなものなんだ。そんな遠慮は必要ないさ」


 ローレン夫人も優しく微笑みながらテーブルへトレイを置いた。


「もちろんですよ、レスターさん。どうか本当に自分の家だと思ってください。それがフレディの望みでもありましたから」


 その言葉に。


 ザックとロジャーは同時に目を見開いた。


「えっ?」


 ロジャーが首を傾げる。


「母さん、何言ってるんだ? 父さんが関係あるの?」


 ローレン夫人は自信ありげに微笑んだ。


「お父さんはね、レスターさんと良い関係を築いてほしいと思っていたのよ。深く知っていたわけではないけれど、この人はきっとあなたの良き友人になるって信じていたの」


 ザックは照れくさそうに後頭部を掻いたが、何も言えなかった。


 ローレン夫人はそのまま部屋を出ようとする。


「それじゃあ私は失礼するわ。二人でゆっくり朝食を楽しんでね」


 ザックは、少し考え込んでいるロジャーへ声をかけた。


「友達?」


 ロジャーは我に返ると、ぱんっと一度手を叩いた。


「よしっ! それじゃあ食事の時間だ!」


 ザックは目の前のチェリーケーキへ手を伸ばす。


 艶やかな紫色のチェリージャムがたっぷりとかかったそれは、とても美味しそうだった。


ザックはロジャーと並んでソファに腰掛けながら朝食を取っていた。


 部屋の隅に置かれた小さなテレビでは、ニュース番組が生放送で流れている。


 その時だった。


 画面に大勢の群衆が映し出された。


 人々はプラカードを掲げながらデモ行進を行っている。


 その内容を目にした瞬間、ザックは食べていた物を思わず吹き出した。


「なっ……何だこれは!?」


 驚愕の声が部屋に響く。


 ロジャーは不思議そうに彼を見た。


「どうしたんだ? 普段ニュースを見ないのか?」


 ザックは目を見開いたまま画面を指差した。


「アスコ・マイコタって……!」


 しかしロジャーは落ち着いた様子で言葉を引き継ぐ。


「……父さんを殺した容疑者だよ」


 彼は少しだけ視線を落とした。


「こういう運動は前から続いてるんだ。君はあまりテレビを見ないみたいだね」


 そして画面へ目を向ける。


「北アイルランドで死刑制度を復活させろって訴えてる人たちさ。もちろん法律的には不可能だけどね」


 苦笑を浮かべながら続けた。


「それにしても人数は多いよな。正直、その大半は父さんのことなんて知らなかったと思うけど」


 ザックは唖然としていた。


「いつから続いているんだ?」


 ロジャーは肩をすくめる。


「さあ? 正確には知らないな。たぶん事件が起きた頃からじゃないか?」


 そして気楽な口調で付け加えた。


「そんなことより朝食を済ませよう。僕が君を職場まで送るからさ。そのあとジェフとイサアクのところへ行く予定なんだ」


 するとロジャーは何かに気付いたように笑い出した。


「あっ、今『ジェフ』って呼んだな!」


 楽しそうに身を乗り出す。


「ほら見ろよ。もう親しい友達みたいな呼び方じゃないか。これは僕とジェフが仲良くなれる証拠だと思わないか?」


 しかし返事はなかった。


「ザック?」


 ロジャーは首を傾げる。


「おーい、ザック?」


 その頃、ザックの意識は完全に別の場所にあった。


(まさか……。世論はアスコさんの処刑を望んでいるのか……)


 彼は内心で乾いた笑いを漏らした。


(いや、落ち着け。議会がそんな要求を認めるはずがない。法律に真っ向から反しているんだからな……)


 そして小さく安堵する。


(つまり、まだ時間はある……!)


「ザーーック!」


 ロジャーの声でようやく現実へ引き戻された。


「うわっ!?」


 ザックは肩を震わせる。


 ロジャーは立ち上がりながら笑った。


「ほら、行こう! 早く出発しようぜ!」


 ザックも慌てて立ち上がる。


「ああ、分かった。今行く」


  二人はコクサル家を後にした。


 長く細い道路の両側には、高い木々がどこまでも続いていた。


 木々の影がアスファルトを覆い、辺りを薄暗くしている。


 その道路脇に、バジディオは立っていた。


 ウィンストンの煙草を吸いながら、苛立った様子で誰かを待っている。


 かなり前からここで待機していたらしい。


 やがて。


 一台の黄色い車が遠くからゆっくりと近づいてきた。


 そしてバジディオの前で静かに停車する。


 運転席から降りてきたのは、丁寧に後ろへ撫で付けられた灰色の髪を持つ男だった。


 冷たく厳しい眼差し。


 クラトロスである。


 車を降りた途端、彼は不機嫌そうに言った。


「バジディオ。最近のお前は本当に面倒だな」


 冷たい視線を向ける。


「何度言えば分かる? 私の個人番号に電話をかけるな」


 バジディオは慌てて弁解した。


「悪かった! だが今回は緊急なんだ! 本当に急を要する!」


 そして声を強める。


「プレウロトゥスを始末してくれ! あいつのせいで計画が滅茶苦茶になってる!」


 だがクラトロスはまったく興味を示さなかった。


「それはお前の問題だ」


 冷淡に言い放つ。


「そんな下らない男に構っている暇はない。自分で何とかしろ」


 バジディオの表情が焦りに染まった。


「だが、あいつに追い詰められてるんだ! フォミスを捕まえられた! あいつだって永遠に尋問に耐えられるわけじゃない!」


 切羽詰まった声で訴える。


「今すぐ動かなければ――」


 しかしクラトロスは容赦なく遮った。


「動くのは私じゃない」


 氷のような目で見下ろす。


「お前だ」


 そして続けた。


「問題を解決するのはお前の役目だ、バジディオ」


 少しだけ眉をひそめた。


「なぜお前が『導火線』の異名を名乗っていると思う? いつまでも私に頼るためか?」


 そう言うと、再び車へ乗り込もうとした。


「私は今、議会の説得で忙しい。もう個人番号にはかけてくるな」


エスパーの頬には、いつの間にか涙が伝っていた。


 フォミスは必死にパンを頬張っている。まるで、この一口一口を逃すまいとするかのように。


 その姿を見つめながら、エスパーは静かに呟いた。


「……まるで孤児院にいた頃みたいだな」


 フォミスの肩がわずかに震えた。


 エスパーは懐かしむように目を細める。


「あの頃も、お前はよく泣いてたよな。少し嫌なことがあるだけですぐ泣いて……」


 フォミスは涙声のまま答えた。


「だって……怖かったんだよ……」


「知ってる」


 エスパーは小さく笑った。


「だから俺とバジが、お前を守るって約束したんだろ」


 フォミスの瞳から再び大粒の涙が零れ落ちる。


「兄さん……」


 エスパーは優しく頭を撫でた。


「大丈夫だ。バジは絶対に諦めない」


 そして、自分自身に言い聞かせるように続ける。


「俺たちは兄弟だからな」


 フォミスは何度も頷いた。


「うん……」


 しかし、その返事とは裏腹に、彼の身体は恐怖で震え続けていた。


 この場所にいる限り、次に何が起こるのか分からない。


 プレウロトゥスが再び現れれば、また地獄のような尋問が始まるかもしれない。


 それでもエスパーは笑顔を崩さなかった。


 弟を安心させるために。


 そして、自分自身が折れてしまわないために。


 薄暗い部屋の中には、フォミスが食事をする小さな音だけが静かに響いていた。


そう言い残すと、クラトロスは黄色い車へ乗り込んだ。


 だが、ドアが閉まる寸前――


 バジディオは慌てて駆け寄り、片手をドアの隙間へ差し込んだ。


「待ってくれ、兄さん! 頼む、助けてくれ!」


 クラトロスはその手を一瞥した。


 その視線に迷いはなかった。


 次の瞬間――


 バンッ!


 彼は容赦なくドアを閉めた。


「うああっ……! いっ……ああっ!」


 バジディオは慌てて手を引っ込め、その場で痛みに顔を歪める。


 クラトロスは気にも留めない。


 黄色い車はそのまま走り去り、あっという間に姿を消した。


 後には、痛む手を押さえながら立ち尽くすバジディオだけが残された。


 その頃――


 エスパーは不安げな足取りで薄暗い廊下を歩いていた。


 緊張のあまり、無意識に爪を噛んでいる。


 やがて廊下の奥へ辿り着き、一つの狭い部屋へ入った。


 部屋の中では、フォミスが苦しそうに身をよじっていた。


 全身を頑丈な縄で縛られ、自由に動かせるのは傷だらけの両目だけだった。


 エスパーが入ってきたことに気付くと、フォミスは叫ぶのをやめた。


 そして必死に身体を動かし、何かを伝えようとする。


 エスパーはゆっくりと近づき、口に巻かれていた布を外した。


 長い沈黙の末、フォミスはかすれた声を絞り出した。


「兄さん……無事……だよな?」


 そして震える声で続ける。


「エスパー兄さん……バジは……? 俺たち……ここから出られるのか?」


 エスパーは重いため息をついた。


 目には涙が滲んでいる。


 それでも弟を安心させるように言った。


「まだだ……。でも、バジならきっと方法を見つける」


 優しく語りかける。


「だからもう少しだけ耐えるんだ。心配するな。それに――約束を忘れるな」


 その言葉を聞いた瞬間、フォミスの目から大量の涙が溢れ出した。


「兄さん……もう無理だよ……」


 声が震える。


「もう耐えられない……お願いだ……助けてくれ……」


 エスパーは思わず目を見開いた。


 ここまで弱り切ったフォミスを見るのは初めてだった。


 彼は慌てて話題を変える。


「大丈夫だ。ほら、食べ物を持ってきたぞ」


 そう言うと、コートの内側からサラダ入りのパンを取り出した。


 そして一口ずつ、丁寧にフォミスへ食べさせていく。


 フォミスは夢中でそれを口にした。


 まるで何日も何も食べていなかったかのように。


 そんな様子を見つめながら、エスパーの顔には少しずつ穏やかな笑みが浮かんでいく。


 そして懐かしそうに呟いた。


「……まるで孤児院にいた頃みたいだな」

第26話を読んでいただき、ありがとうございました!


少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。


よろしければ、ブックマークや評価、感想などをいただけると大きな励みになります。


それでは、また次の話でお会いしましょう!

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