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2回目『未登録の香気』

 

【5/13 (木) 19:30】 


『一回目』が終わった翌日。


 夕食のメニューは、僕の好きなハンバーグだった。

 アイカはいつも通りに野菜を刻み、いつも通りに僕の向かいに座る。


 僕の浮気のことも、あの冷え切った空気も、まるで遠い出来事だったかのように。


(やっぱり、僕の思い過ごしだったんだ)


 そう思いたかった。

 彼女は怒っているけれど、他の男と会う(デートする)なんてきっと嘘だ。


 昨日の『一回目』だって、一人で食べてきたか、ただの女友達だったに違いない。


 そんな根拠のない希望を抱きながら、僕がハンバーグに箸をつける、その時だった。


「明後日の土曜日、知り合いと出かけるから」


 アイカが、味噌汁を一口すすってから、何でもないことのように言った。


 僕の箸が止まる。

 土曜日――二人で買い物に行ったり、家で映画を観たりして過ごす、僕たちの休日。


「え……土曜? 誰と?」


 動揺を隠せず、声が裏返った。アイカは顔を上げず、付け合わせのレタスを口に運ぶ。


「知り合い。……これが二回目」


 『二回目』。


 その言葉が、心臓を直接掴まれたような不快な響きを持って、食卓に落ちた。


 昨夜の「同僚」とは違う、「知り合い」という言葉。

 それは男なのか女なのか。


 僕の知らない世界に、彼女はまた一歩踏み出そうとしている。


「ちょっと待ってよ。土曜日は……その、二人で出かけない? ほら、見たい映画があるって言ってただろ? チケット、僕が取っておくからさ」


 すがるような思いで言葉を絞り出した。


 彼女が以前、「観たい」と漏らしていた新作映画。それを口実にすれば、この不穏な流れを止められるかもしれない。


 だが、アイカは箸を置くと、困ったような、それでいてどこか冷ややかな笑みを浮かべた。


「ごめん、でももう約束しちゃったし。……夕飯までには帰るわ」


 謝罪の言葉に、申し訳なさは微塵も感じられなかった。

「約束した」という既成事実だけを突きつけ、僕の提案を検討する余地さえ与えない。


「誰と行くんだよ。せめて男か女かだけでも――」


「それが分かったら、あなたは安心するの? それとも、もっと不安になるの?」


 アイカの問いに、僕は言葉を失う。


 どっちに転んでも地獄だ。

「夕飯までには帰る」という言葉も、僕を安心させるためのものではない。


 それまでの数時間、僕がどんな想像をして、どんな風に身を焦がすのかを知り尽くした上での、期限付きの拷問だ。


「……分かった」


 僕はそれ以上、何も言えなくなった。

 目の前の大好きなはずのハンバーグは、もう、何の味もしなかった。



 ・ ・ ・



【5/15 (土) 11:00】


 約束されていた土曜日。 


 アイカはいつもより少しだけ時間をかけて鏡の前に立っていた。

 丁寧に引かれたアイライン。お気に入りの、少しだけ丈の短いスカート。


「……本当に行くの?」


 玄関で靴を履く彼女の背中に、僕は情けなく声をかけた。アイカは振り向きもせず、小さく頷く。


「夕飯までには帰るから。……いってきます」


 パタン、とドアが閉まる音。

 リビングに取り残された僕は、窓から彼女が駅の方へ歩いていく姿を、隠れるように眺めるしかなかった。


 それから数時間、僕は地獄の中にいた。

 テレビをつけても内容は頭に入らない。掃除をしても、彼女がいない空間を際立たせるだけだった。


(今、笑ってるのかな。誰に、どんな顔で……)


 スマホを手に取る。自分からは連絡しないと決めたはずなのに、五分おきに画面を確認してしまう。


 午後二時。

 午後三時。


 彼女がいない休日は、これほどまでに長く、これほどまでに残酷なものだったか。

 僕は何も手につかないまま、リビングのソファに深く沈み込み、夕食までのカウントダウンを刻む時計の針を、呪うような心地で見つめ続けていた。


 夕飯まで、あと三時間はあった。

 その長すぎる空白をどう埋めるか、絶望的な気分でいたその時。


 ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。


「ただいま」


 時計を見れば、まだ午後四時を回ったばかりだ。


「あ……アイカ? おかえり、早かったんだね」


 僕は虚を突かれ、間抜けに口を半開きにした。


 夕飯まで帰らないと思っていた。もっと遅くなる可能性だって覚悟していた。

 それが、まだ陽の沈まないうちに帰ってきた。

 その事実だけで、胸を締め付けていた重石がスッと軽くなるのを感じた。


「うん。映画観て、お茶しただけだから」


 アイカはそう言いながら、買ってきたらしいデパ地下の紙袋をテーブルに置いた。


「これ、夕飯のお惣菜。今日は作るの疲れちゃった」


「あ、ああ……ありがとう。」


 彼女の表情は穏やかで、はじめの頃のような冷たさは和らいでいるように見えた。


(よかった。やっぱり、ただの知り合いと普通に過ごしただけなんだ……)


 現金なもので、彼女が早く帰ってきたという一点だけで、僕の心は救われたような気がしていた。


「映画って何観たの?」とか「相手は誰だったの?」という疑問も、今は彼女が目の前にいるという安心感の影に隠れていく。


 アイカが「着替えてくるね」と自室へ向かおうとした時、リビングの空調管理システム、エア・コンディショナーのパネルが、ピッと小さな音を立てた。



『**環境内に未登録の香気成分を検出しました。**消臭サイクルを強めますか?』




 時が、止まった。



 スマートホームAIは、僕たちの生活臭、例えば普段使う柔軟剤や香水の成分をすべて学習している。

 それ以外の「異物」が持ち込まれると、こうして丁寧に報告してくる設定にしていた。


「……何か、新しい香水でもつけた?」


 努めて冷静を装って聞く。


「香水もらったから、試しに付けてみたの。サイクル、いまのままでいいわ」


 そうAIに指示して、彼女はリビングから姿を消す。


「もらった」のは誰からか。なぜ今、自分の肌に残るほどつけているのか。

 僕が贈った香水ではなく、その「誰か」から与えられた香りを全身に纏っている事実。


 僕は、大切な何かが侵食されていくような、そんな気がしていた。



Next chapter... [4/28] 20:30 <today!>


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