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女神の桁ミスで500kgの聖剣を渡されスライムに殺された元勇者、魔王に転生して奪われた人生を取り戻す  作者: 羊皮紙のヤギ
第1章

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8/10

第8話 食堂の娘

 リリィがヴェルドラゴン城の錆びついた門をくぐり、この薄暗い生体結晶の城に居着いてから、三日が経過した。


 廊下に漂っていた粘つく魔界の煤と埃は綺麗に掃き清められ、乾いたハーブの香りがほんのりと大広間に沈殿している。


 城壁の脈動する黒石は、少女の掃除の摩擦を心地よく受け入れるかのように、かすかな熱を返していた。


「魔王様、朝食ができましたよぉ」


 トレイを手にしたリリィが、木製の床をスリッパでパタパタと鳴らしながら入ってきた。


 トレイの上には、かすかに青みがかった不揃いな米飯の塊が三つと、濁ったスープが盛られている。


「魔界米のおにぎりです。少し繊維が硬くて握るのにコツがいりますけど、お塩を強めに効かせておきました」


 俺は青い米粒が凝縮されたそれを指先で摘み上げ、口に運んだ。


 噛み締めた瞬間、野生の穀物が持つ野性的な香りと、岩塩の鋭い塩気、そして臭み消しに混ぜられた乾燥薬草の苦味が舌の上に広がった。


 人間界のふっくらとした白米とは程遠い、顎をしっかり使わねば咀嚼できない頑固な硬さ。


 だが、その強い噛み応えと塩分の刺激が、俺の飢えた内臓に「自らの肉体を動かしている」確かな実感を送り届けてくる。


 左手でスープの木皿を持ち上げようとしたが、指先がわずかに震え、汁が縁に垂れた。


 ゴブリンリーダーに噛まれた肩の傷は、城の脈動によって塞がりかけている。


 それでも、傷跡はまだ新しい。


 朝食の温もりの横で、戦闘の後遺症がそっと座っている。


「……美味いな。この硬い米をこれほど均一に糊化させて握るのは、火加減が難しかったはずだ」


「えへへ、尻尾の毛が焦げそうになるくらい竈の火を煽りましたから!」


 リリィが自慢げに、細い白い尻尾を左右に激しく振った。その摩擦音だけが、広大で冷え切った食堂の空気をかすかに温める。


「我が主。リリィの存在により、このヴェルドラゴン城の陰鬱な共鳴音が和らいでおります」


 ガルドスが、白骨の指先を器用に動かしておにぎりの塩分を品定めするように見つめながら言った。


「そうだな。魔物の咆哮しかないこの廃墟に、生活の雑音が混ざるのは悪くない」


 朝食後、俺は執務室で戦略地図の端を指先でなぞっていた。


 スロットは8/8で完全に固定。


 昨日のワイバーン二体の従属戦は、直接のスキル奪取を避けたため、スロットの消費は免れた。


 しかし、《群れ統率》を介して二頭の巨獣の「空への衝動」を繋ぎ止める手綱の引きは、今も俺の側頭部をギリギリと締め付ける精神的負荷となっていた。


「主、次の遠征先である『西の湿地』についてですが――」


 ガルドスが羊皮紙の地図を広げたとき、階下からリリィの甲高い絶叫が響き渡った。


「きゃあああああ!? 出た! 魔王様! ガルドスさん! 助けてぇ!」


 俺とガルドスは顔を見合わせ、即座に食堂へと駆け下りた。


 厨房の入り口で、リリィは爪を剥き出しにし、木製の調理台の角に激しくしがみついて震えていた。


 白い猫耳は頭ペッタリと伏せられ、尻尾の毛はブラシのように逆立っている。


「どうした、敵襲か!?」


「ち、違いますぅ! あれ! 調理器具の隙間に、すっごく足の長い黒い虫がぁ!」


 指し示された炭置き場の角に、体長十センチほどの多足類の魔虫が這い回っていた。


「……虫一匹で城を揺らすな、メイド長」


「だって、足がいっぱいあってカサカサ動くの、本当に無理なんですぅ!」


 俺の目配せを受け、ガルドスが錆びた金属の籠で魔虫を覆い、そのまま窓の外へと静かに排出した。


「処理完了いたしました、メイド長殿」


「はぅ……ありがとうございます、ガルドスさん……。心臓が止まるかと思いました」


「心臓はないでしょうが」と俺が呟くと、リリィは伏せていた耳をピンと起こして睨んできた。


「魔王様、またそうやって素直じゃないんですから〜」


 リリィは、新しく淹れ直したお茶の器を、木製のテーブルに少しだけ強めに、しかし静かに置いた。


「心配して、わざわざ走ってきてくれたクセに」


「うるさい。メイド長なら、害虫の駆除くらい自前でやれ」


「もう! そうやってすぐに冷たいこと言う!」


 リリィはくすくすと笑いながら、エプロンの汚れをパンパンと叩いた。


 夕暮れ時、俺は一人、屋上の欄干から西の空を見つめていた。


 魔界の雲は常に濁った紫色を帯び、人間界のような燃えるような赤は見せない。


 だが、視線の最果て、大気と大地が接する境界線だけが、不自然な白光を放っている。


 ルミナス聖王国の、勇者と聖女を規定する大結界の残光だ。


 背後で、ガルドスの古い鎧がガシャリと乾いた音を立てた。


「我が主。風が冷たくなってまいりました。明日の湿地遠征に備え、お休みになられては」


「……お前は、三百年もの間、何を見つめていたんだ」


 俺は振り返らずに問いかけた。


「裏切られたあの日から、この動かない白骨の肉体で、何を想って魔界を彷徨っていた」


 ガルドスは沈黙した。


 兜の隙間の青い火が、風に煽られて細く伸びる。


「……ただ、かつての王が私に向けた、あの『役割から解放された安堵の目』が、どうしても許せなかったのです。王は私を裏切ったのではない。世界の理に従って、私を排除する役割を演じきっただけなのだと、悟った瞬間の絶望を」


「役割……」


「はい。ですが主よ。あなたは魔王の卵でありながら、決して『魔王』という運命が規定した冷酷さの性分だけで動いてはいない。私は、そのズレを信じております」


 俺は欄干を強く握りしめた。


「約束する、ガルドス。俺はお前を裏切らない。お前をただの『盾の役割』で終わらせることもない」


「……その誓いこそが、私の乾いた骨に宿る唯一の熱でございます」


 夜、食堂にはリリィが薪を燃やして作ったオーク肉のシチューの香りが立ち込めていた。


 青い魔界米のおにぎりをシチューの汁に浸しながら、リリィが嬉しそうに呟く。


「これで、ヴェルドラゴン城に新しい『家族』ができた記念日ですね!」


「家族か。かつての勇者パーティーも、そう呼ばれていたな」


「それは、本物の家族だったんですか?」


「いや……」


 俺はおにぎりを噛みしめ、その硬さを喉に流し込んだ。


「あれは、女神と世界の理が便宜上組み合わせた、役割の集まりだった。互いの内面を暴くことすら禁じられた、檻の中の家族だ」


「なら、ここは違いますね」


 リリィはスープを木皿に注ぎ足しながら、悪戯っぽく耳を揺らした。


「だって、私たちはみんな、自分で選んでこのお城に歩いてきて、魔王様の不器用な優しさに寄り添うことに決めたんですから」


 ガルドスの鎧が、同意するように小さくガシャリと鳴った。


「ああ。これは、俺たちが自分で選んだ始まりだ」


 その決意を、温かいスープの底に沈めた。


 レインは窓の外の暗闇を見つめた。


 西の湿地の方角。


 あそこに、まだ手に入れていない力が眠っている。


 リリィが片付けを始める音が、静かな城に満ちた。

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