第9話 スキル・スロットの制約
執務室の暗がりの中、俺は己の右腕を走る見えない神経の巡りに意識を集中させていた。
魔王の肉体に刻まれた八つのスロットは、それぞれが獲得した魔物の術理の核と肉体的に癒着し、熱を帯びている。
1.《火球術》――ゴブリンの残響(焦げた悪臭)2.《水弾》――スライムの残響(過剰な潤い)
3.《風刃》――小型スライムの残響(薄い裂傷)4.《号令》――ゴブリンリーダーの残響(乾いた命令)
5.《皮膚硬化》――オークの残響(強張った筋肉)6.《飛翔》――ワイバーンの残響(骨が裂けた翼)
7.《分裂》――スライムの残響(曖昧な自我境界)8.《群れ統率》――大オークの残響(背負わされた責任)
8/8。
完全に閉塞している。
新しい力を得るためには、すでに神経と同化した核のいずれかを「切り捨てる」必要がある。
「……《水弾》の核を剥離する」
呟きと共に、左胸の奥に爪を立てて魔力の結び目を力任せに引きちぎるような、鈍い痛みが走った。
喉の奥の水分が一瞬にして蒸発したようにカラカラに乾き、唾液を嚥下するだけで喉頭が軋んだ。
スライムから得ていた「過剰な潤い」の肉体的感覚が、自己の構成要素から強制的に引き算される喪失感。
右手の指先が、机の縁を強く握りしめる。
木の角が掌に食い込み、痛みが現実を引き戻す。
【スキル削除:《水弾》】【スロット使用:7/8】
「……これで一枠だ。次は、西の湿地の深淵を穿つ」
その日の午後、俺たちは不気味な泡を噴き出す西の沼沢地帯へと足を踏み入れた。
同行するのはガルドス、そして《群れ統率》で手綱を握ったオーク三体。
湿地は、大気そのものが黄緑色の毒霧となって肺胞を侵食し、一歩進むごとに底なしの泥漿が足を掴んで引きずり込もうとする。
俺は《皮膚硬化》の術理を活性化させ、粘膜を刺激する酸っぱい毒気を辛うじて遮断しながら進んだ。
沼の最深部、泥水が激しく渦巻く中心に、それは潜んでいた。体長十メートルを超える、無数の触手を持った泥の巨蛇。
『沼の主』。レベル三十。
その巨大な黄色い単眼が、泥の底から俺たちを憎悪に満ちた視線で凝視していた。
「《ドミネイト》!」
明滅する術理の核。
《毒霧吐息》《触手鞭》《再生》《沼同化》
俺の狙いは《再生》の一択だった。
失った勇者時代の回復能力の代替として、これ以上のパーツはない。
「オーク、突撃して触手を抑えろ! ガルドス、奴の側面からその核を分断しろ!」
俺の《号令》がオークたちの筋肉を限界まで膨張させ、彼らは泥を蹴って巨蛇の触手へと組み付いた。
オークの肉が触手によって締め上げられ、骨の砕ける鈍い音が毒霧の中に響く。
その犠牲が生んだわずかな隙を突き、俺は《飛翔》の翼で急降下した。
風圧が毒霧を割り、単眼の黄色い虹彩が目前に拡がる。
距離は、あと三メートル。
二メートル。
一米。
「《再生》を――奪う!」
右手を、単眼の真上に叩きつけた。
粘液と泥が飛び散り、指先が主の熱い体温に触れる。
同時に、主の巨大な頭部が激しく横に振られ、俺の身体はその反動で空中へ弾き飛ばされた。
引き抜いた核は、ぬらぬらとした脈打つ粘液のような魔力の塊だった。
それを己の神経に接続した瞬間、全身の細胞が急激に疼き、増殖するような激痛が走った。
どれだけ貪っても満たされない沼の主の飢餓感が頭の中に流れ込み、強烈な吐き気が俺を襲う。俺は沼の中に膝を突き、強引にその感覚を噛み潰した。
【スキル獲得:《再生》】【スロット使用:8/8(再び上限到達)】
主は自己再生の核を奪われ、その触手が急速に腐敗して崩れ落ちていった。
だが、まだその黄色い単眼に僅かな生の火が残っている。
「死ぬな。その身を沼に同化させ、この領域の防壁となれ」
俺は《号令》と《群れ統率》の二重手綱を主の脳へ直接打ち込んだ。
巨蛇は泥の中に深く沈み込み、俺の命令を受け入れるように、静かにその輪郭を沼へと溶かしていった。
城へ帰還した俺は、右手のひらに刻まれた微小な切り傷が、数秒で肉を盛り上げて塞がる様子を見つめていた。
確かに有用な力だ。
だが、これと引き換えに、俺の精神は再び「満杯」の閉塞感に囚われた。
「主、このドミネイトによる強奪は、効率的ではありますが……常にあなたの精神を削り取っていきます」
ガルドスが、執務室の窓際で静かに言った。
「分かっている。これは応急処置だ。いずれ、奪う必要のない、自発的な『信頼の力』をこの城の柱に据えねばならない」
夜、食堂でリリィが差し出したのは、沼の主の触手肉を薬草でじっくり煮込んだ濃緑色のシチューだった。
見た目は不気味だが、口に含むと、肉繊維の野性的な弾力と、身体の疲労を急速に回復させる強い魔力の熱が喉を滑り落ちていった。
「リリィ。お前はなぜ、魔王となった俺に付き従う」
俺はシチューの木皿を見つめたまま、問いかけた。
「単なる雇われメイドとしてではなく、お前自身の意志で、なぜここを選んだ」
リリィはスプーンを止め、白い猫耳を少し傾けて俺の瞳を凝視した。
「……魔王様の目は、人間を裏切るような悪い目じゃないからです」
「俺は魔王だぞ。他者の力を強奪する化け物だ」
「でも、あなたの目の奥には、誰かを必死で守ろうとする……かつての『光』が、まだ消えずに重く残っています。リリィは、その光の隣で、おにぎりを握りたいんです」
少女の真っ直ぐな言葉が、俺の肋骨の奥に沈んでいた「勇者の不在」を優しく揺さぶった。
俺は何も言えず、ただおにぎりをスープに浸して口に押し込んだ。
「……黙って食え。味が濃すぎる」
「あ、またツンデレ! 照れて耳が動いてますよ、魔王様!」
くすくすと笑うリリィと、静かに佇むガルドス。
この生体結晶の城壁の底で、俺の自我は、魔物の泥水に呑まれることなく、確かにレイン・ヴェルドラゴンとしての形を留め続けていた。
だが、まだ足りない。
スロットは再び満杯だ。
城は始まったばかりだ。
そして、人間界の情報は届かない。
次に必要なのは、数だ。
もっと多くの魔物を従え、もっと広い領域を確保し、人間界の動向をつかむ目を、この城に張り巡らせる。
そのための次の一手は、もう決まっている。
東の街道を支配し、旅人や情報を往来させる存在を、俺の網に引きずり込む。




