第6話 魔王城、発見
黒い枯れ木の重なる針葉樹林を抜け、目の前が開けた瞬間、圧倒的な「荷重」が俺の網膜を殴りつけた。
そこにそびえ立っていたのは、何代か前の魔王が築き、そのまま時の彼方に放棄された牙城だった。
崩れかけた五層の天守、半ばから叩き折られた黒い尖塔、そして外壁を走る稲妻のような亀裂。
それは廃墟でありながら、周囲の重力を歪めるような強烈な実在感を持って荒野に根を張っていた。
「我が主。東の地脈の最深部、この構造物の中心から、強大で不規則な拍動を感知します」
ガルドスが、指の骨を甲高い音で擦り合わせながら告げた。
「拍動……? 生きた魔物か」
「いいえ。これは無生物のそれではございません。まるであの城壁そのものが、呼吸をしているかのような――」
俺は目を細め、胸に去来する冷たい予感を噛み締めた。
あそこが、俺たちの新しい器になる。
城の正面に立つ、巨大な黒鉄の双開扉の前に進む。
赤錆が表面をびっしりと覆っているが、その紋章の隙間から、青白い魔力の防護膜が幾重にも波打っていた。
「下がっていろ、ガルドス」
俺は右手を錆びた鉄板に近づけ、意識を研ぎ澄ました。
「《ドミネイト》」
瞬時に、視界がモノクロの魔力式へと置換される。
扉の表面を走る、緻密に絡み合った光の術式。
《封印魔法》《侵入者感知》
《自動防衛》
それは三重の防衛術式だった。
経年劣化で魔力の結節点がほつれているとはいえ、不用意に触れれば、このレベル五の魔王の肉体は瞬時に光の槍で貫かれる。
だが、俺の脳裏には、かつて「光の勇者」として数々の魔宮の封印を解き明かした際の、術式解読の感覚が不自然な鮮明さで蘇ってきた。
(……この術式の基点は、中央の紋章の右下。
歪んだ魔力の流れを、ここで遮断する)
指先に僅かな魔力を込め、錆びた鉄板の凹凸に沿ってなぞる。
カチリ、と頭蓋の奥で小さな機械音が響き、明滅していた青白い防護膜が、蜘蛛の巣が破れるようにあっけなく霧散した。
「……見事な解読です。勇者の知識が、これほど魔的な術式に適合するとは」
「皮肉なものだな。俺を裏切った世界が用意した『勇者の教育』が、魔王の城を開く鍵になるとは」
俺は両手を扉に押し当て、全体重をかけて押し開けた。
ギギギ、と錆びた鉄の悲鳴が、重い空気の中に響き渡った。
城の内部へと一歩踏み入ると、肺の奥がひんやりとした湿った空気で満たされた。
床は黒い結晶質の岩で敷き詰められており、俺の足音が硬い共鳴音となって、暗い廊下の奥へと反響しながら消えていく。
「何だ、この感覚は……」
俺は思わず、近くの柱に右の掌を押し当てた。
結晶質の黒い石の表面から、かすかな、だが確実な「脈動」が伝わってきた。
それは冷たいはずの石の奥から伝わる、生き物の内臓に近い、かすかな温もりだった。
「古代のヴェルドラゴン城は、地脈の魔力を吸って自己修復を行う『生きた結晶』で造られていると記録にございます」
ガルドスの乾いた声が、静かな回廊に響く。
「主の魔力がこの城に充填されれば、城は主の器に合わせて形を変え、成長していくでしょう」
「成長する城か……」
手のひらを通じて、俺の魔力がわずかに吸い取られていく。
だがそれは不快な奪取ではなく、城そのものが俺を新たな「核」として受け入れようとする、不気味で心地よい共鳴だった。
その共鳴が、左腕の骨折した箇所にまで届いた。
「――っ」
痛みではない。
折れた骨の周囲を、微細な魔力の糸が這うような、痒みに近い感覚。
城が、俺の傷を読み取っている。
黒い結晶の柱が、ほのかに青白く明滅し、折れた骨を支えるような圧力を加えてきた。
「主よ、城があなたを認識しました」
ガルドスの声音に、初めて驚きの色が混じる。
「この城は、主の肉体の延長として機能し始めている」
俺はそのまま、暗い階段を上り、一階から各階の状況を確認していった。
大広間は、広大だが冷え切っていた。
かつての宴の残骸なのか、壊れた長いテーブルが黒い埃を被って放置されている。
厨房に入った瞬間、俺の意識の片隅で、なぜか「温かいスープの湯気」と「騒がしい獣耳の少女の笑い声」が幻視された。
いや、違う。
俺はまだ、そんな少女に出会ってはいない。
不在の存在が、胃の奥に奇妙な渇きをもたらした。
二階の個室のベッド。
三階の天蓋付きの広い寝室。
そこを見るたびに、城の脈動がわずかに強くなる。
まるで、部屋の数だけ誰かを招く準備をしているかのように。
「……我が主? 呼吸が乱れておりますが」
「何でもない。空気が澱んでいるだけだ」
俺は階段を駆け上がり、屋上へと逃れるように出た。
屋上は、荒れ狂う風の檻だった。
魔界の紫がかった雲が、すぐ手の届くような低空を高速で流れていく。
風が俺の濡れた翼を激しく叩き、体温を容赦なく奪っていくが、その生々しい痛みが、かえって頭の中の未練を綺麗に吹き散らしてくれた。
俺は屋上の欄干に立ち、はるか西の地平線を見つめた。
どこまでも続く黒い荒野の、その極限の向こう側に、人間界の境界線を示すかすかな光の澱みが見える。
「いつか、あの光の向こう側へ行く」
「御意のままに。あなたが剣を向ける場所が、私の戦場です」
「ガルドス。この城の名前を決める。『魔王城』ではあまりにも記号的で、味気ない」
「主の望む名を」
俺は背中の翼を一度、強く羽ばたかせ、足の裏の石の脈動を感じ取った。
「『ヴェルドラゴン城』だ。魔王となった俺の、新しい名前を冠する」
ガルドスが、その錆びた甲冑を深く折り曲げ、膝をついた。
「承知いたしました。レイン・ヴェルドラゴン様。これより、この生きた城はあなたの身体の一部となります」
その夜、俺は埃を払った執務室の机で、古い地図を広げた。
ランプの火が揺れる中、俺の指先は、人間界の中心――ルミナス聖王国の位置を示していた。
城の脈動が、机の下まで届いている。
まるで、俺の鼓動と城の鼓動が同じリズムで鳴り始めたかのように。
「ここからだ」
指先が、地図上の聖王国を強く押した。
「まずは城を使える拠点に仕立て上げる。次に、人間界の情報を集める。そして――」
言葉を区切り、窓の外の魔界の夜を見上げた。
「奪われた人生を、取り戻す」
風が唸りを上げていたが、俺の胸の奥の冷たい熱は、二度と消えることはなかった。




