第5話 スライムのトラウマ
東の古城へ進路を取る前に、俺は自らスライムの群れを狩ることを選んだ。
ガルドスは反対しなかった。
ただ、錆びた甲冑が歩みを止める金属音が、一度だけ鋭く響いた。
「主よ、危険を冒してまで最底辺の魔物を執拗に狙う意図をお聞きしても?」
「――怖いからだ」
口から吐き出したその言葉は、冷たい空気に触れて白く濁った。恐怖を認めることは、かつての勇者としての自尊心を削り取る。
だが、感情に「名前」を与えることでしか、その輪郭を捉え、自らの手で握り潰すことはできない。
「俺を殺したのは、魔王軍の凶悪な将軍でも、邪神の呪いでもない。泥の中で跳ねていた、レベル1のスライムだ」
「それは、聖剣の規格外の重量による不可抗力――」
「それでも、最後に俺の呼吸を止め、頬に冷たい膜を押し付けたのは、あの粘着質の塊だ」
黒い荒野の窪地に、半透明の緑色の塊がいくつも蠢いていた。
ぷるり、ぷるりと震えるたびに、地面の濁った泥水へ極小の波紋が広がっていく。
その何ら敵意を感じさせない挙動が、俺の目には、いつか自分を窒息させる無慈悲な罠に見えていた。
一匹目は、容易に処理できた。
突き出した指先から放った《火球術》が、スライムの核を包み込み、一瞬で沸騰した水蒸気へと変えた。
胸の拍動は、まだ正常の範囲内に留まっている。
二匹目。
低く払った《風刃》が、弾力のある皮膜を容易く切り裂き、内部の核を両断した。
切り口から粘液が泥の上にこぼれ落ち、すぐに黒い土へと吸い込まれていく。
(まだ、大丈夫だ。
俺の身体は動いている)
だが、三匹目のスライムが、俺の足元へ向かって低く跳躍した。
べち。
泥を叩く、あの湿った、軽薄な音が鼓膜を震わせた。
その瞬間、俺の右肩から指先にかけて、存在しない「五百キログラムの鉄」の重量が突如として舞い戻ってきた。
激しい幻肢痛が鎖骨を圧迫し、腱をギリギリと締め上げる。膝が激しく震え、足首の筋肉が強硬に収縮して岩盤に貼り付いた。
視線が勝手に地面の泥濘へと引きずり下ろされ、肺の換気が完全に停止する。
(倒れれば、またあの冷たい膜が顔を覆う――)
脳内にフラッシュバックする、窒息の暗闇と、スライムの酸が皮膚を侵食する生理的な嫌悪。
今の俺はレベルが上がり、魔王の肉体を持ち、火も風も操れるはずなのに、身体の深層に沈殿する「死んだ勇者」が、今も泥の中で動けずに這いずり回っていた。
「我が主よ」
ガルドスの白骨の掌が、俺の動かなくなった肩の上に静かに置かれた。
金属の冷たさと、かすかな震えが伝わる。
「剣を振るう必要はありません。あなたはもう、あの呪わしい聖剣を背負ってはいない」
その骨の冷たさが、凍りついていた俺の肺胞を無理やり押し広げた。
激しい呼吸が、乾いた喉を駆け抜ける。
そうだ。
俺の右腕には、もうあの五百キロの鉄塊は握られていない。奪われ、失い、だが同時に、あの不条理な重力からは解放されたのだ。
俺は泥に塗れた右手を開き、スライムの核へ魔力を伸ばした。
「《ドミネイト》」
半透明の緑の体の中心で、脈打つ薄緑の文字列が浮かび上がる。《分裂》
《吸収》《酸弾》
最弱の魔物。
だが、それゆえに奴らの生存の特性は「しぶとさ」に特化していた。
切られても分かたれるだけで死なず、潰されても元の輪郭を復元し、踏みつけられても泥に同化して生き残る。
「《分裂》を、奪う」
核に指先が触れた瞬間、粘着質で不定形な生存本能が脳内になだれ込んできた。
――どれほど踏みにじられても、ただ生存し続けたいという盲目的な欲求。
――自身の肉体を切り分け、薄く、広く世界へ拡散してでも、滅びを拒絶する原始的な衝動。
それは知性を持たない魔物の、純粋な「生の執着」だった。
【スキル獲得:《分裂》】【スロット使用:6/8】
俺は自らの意志で、泥の上に両膝をついた。
倒されたのではない。
地に手をつき、その冷たさを確かめるために、自ら重心を下げたのだ。
「……まだ、手の震えが止まらないな」
「当然です。死の深淵は、三日で消えるほど浅くはありません」
ガルドスはそう言って、俺の横に並んで膝をついた。
「ですが主よ、あなたは今、ご自身の力で立ち上がろうとしておられる」
泥のついた青白い掌を見つめる。
そこには聖剣もない。
だが、この肉体は、確かに俺の意志で動いている。
「ああ。ここからは、俺がこの力を使う」
《分裂》の権能は、身体の感覚を著しく揺さぶるグロテスクなものだった。
魔力を巡らせると、全身の皮膚と影の境界線が融解するような錯覚が走り、視界が二重にブレる。
背骨の中央から、何か冷たい杭が内側に打ち込まれる感覚。
それは痛みではない。
自分の輪郭が、誰にも頼まれていないのに勝手に複製されていく、生理的な違和感だった。
俺のすぐ隣に、もう一人の半透明で表情のない「俺」が泥の中から這い出してくる。
その目が、こちらを向いた。
「――っ」
瞬間、分裂体の口角がわずかに吊り上がった。
笑っている。
俺が笑っていないのに、奴が笑っている。
慌てて視線を逸らす。
同時に、分裂体の視界が俺の脳に流れ込んできた。
二組の網膜が、同じ世界を少しずつ違う色合いで捉えている。どちらが本物で、どちらが切り分けられた残骸か、一瞬判別できない。
実体は脆弱で、強い衝撃を受ければ霧のように霧散してしまうが、その両眼が捉える視覚情報は、俺の脳へと直接同期して流れ込んできた。
「偵察には、これ以上ない精度だな」
「囮としての機能も極めて高いかと」
ガルドスが錆びた大剣を杖代わりに立ち上がった。
「《飛翔》と組み合わせれば高所からの索敵をノーリスクで行え、《号令》を通せば分裂体へ複雑な迂回行動を指示できます。スライムの卑小な生存術が、我らの戦術の根幹となるのは皮肉ですが」
「面白いじゃないか。俺を殺した力で、俺が生き延びる」
喉の奥から出た笑いは、少しだけ乾いていた。
自分を殺した魔物の力を取り込み、それを便利だと認識している歪んだ認知。
嫌悪しながらも、脳はすでに次の効率的な奪取計画を練り始めている。
「使いすぎるなよ、レイン」
自分自身に向けて警告する。
分裂体を消去した瞬間、自分の自我の一部が空気中へとほどけて消失したような、奇妙な喪失感が残ったからだ。
「主が主の輪郭を失わぬこと。それだけが、我らの唯一の敗北条件です」
ガルドスの言葉が、冷たい風に乗って耳の奥へ沈んだ。
その日の深夜、俺は崩れた石壁の陰で、奇妙な夢を見た。
あの白い、手応えのない部屋。
山積みにされた書類と、青白く発光する画面。
女神エリュシアが、充血した目で執拗にキータッチの音を響かせている。
カタ、カタ、カタ。
「勇者と魔王。聖女と運命。すべては規定された運命の通りに」
彼女の呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
画面に流れる、俺の死のデータ、そしてアレスとセラフィナが結ばれる未来の筋書き。
「私も……」
エリュシアの指先が、キーボードの上で不意に止まり、細かく震えた。
「私も、この終わらないループの檻に、囚われているだけなのかもしれない」
心臓の激しい拍動と共に、目が覚めた。
天井は低く、滴る水滴が冷たく額を叩く。
白い部屋ではない。
魔界の、生々しい痛みに満ちた夜だ。
入り口の影では、ガルドスが眠ることのない白骨の身体で、静かに大剣を抱えて立っていた。
「女神も、囚人か……」
夢の真意は掴めない。
だが、あの神の指先の震えだけは、確かに俺の脳裏に「確かな印象」を持って残っていた。
「我が主、お目覚めですか」
「……何でもない。ただの、泥のような夢だ」
俺は立ち上がり、背中の濡れた翼を小さくはためかせた。
暗闇の中、足元でスライムが跳ねる音がする。
べち。
今度は、俺の足が止まることはなかった。
「東へ進むぞ。古城の封印を、俺たちの力でこじ開けに行く」
古城には何があるかわからない。
封印、罠、他の魔物、あるいは人間界の情報。
だが、翼も分裂体も従者も手に入れた今、立ち止まる理由はない。
次の拠点。
次の力。
そして、次の敵。
すべてを、奪い取るために。




