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女神の桁ミスで500kgの聖剣を渡されスライムに殺された元勇者、魔王に転生して奪われた人生を取り戻す  作者: 羊皮紙のヤギ
第1章

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第5話 スライムのトラウマ

 東の古城へ進路を取る前に、俺は自らスライムの群れを狩ることを選んだ。


 ガルドスは反対しなかった。


 ただ、錆びた甲冑が歩みを止める金属音が、一度だけ鋭く響いた。


「主よ、危険を冒してまで最底辺の魔物を執拗に狙う意図をお聞きしても?」


「――怖いからだ」


 口から吐き出したその言葉は、冷たい空気に触れて白く濁った。恐怖を認めることは、かつての勇者としての自尊心を削り取る。


 だが、感情に「名前」を与えることでしか、その輪郭を捉え、自らの手で握り潰すことはできない。


「俺を殺したのは、魔王軍の凶悪な将軍でも、邪神の呪いでもない。泥の中で跳ねていた、レベル1のスライムだ」


「それは、聖剣の規格外の重量による不可抗力――」


「それでも、最後に俺の呼吸を止め、頬に冷たい膜を押し付けたのは、あの粘着質の塊だ」


 黒い荒野の窪地に、半透明の緑色の塊がいくつも蠢いていた。


 ぷるり、ぷるりと震えるたびに、地面の濁った泥水へ極小の波紋が広がっていく。


 その何ら敵意を感じさせない挙動が、俺の目には、いつか自分を窒息させる無慈悲な罠に見えていた。


 一匹目は、容易に処理できた。


 突き出した指先から放った《火球術》が、スライムの核を包み込み、一瞬で沸騰した水蒸気へと変えた。


 胸の拍動は、まだ正常の範囲内に留まっている。


 二匹目。


 低く払った《風刃》が、弾力のある皮膜を容易く切り裂き、内部の核を両断した。


 切り口から粘液が泥の上にこぼれ落ち、すぐに黒い土へと吸い込まれていく。


(まだ、大丈夫だ。


 俺の身体は動いている)


 だが、三匹目のスライムが、俺の足元へ向かって低く跳躍した。


 べち。


 泥を叩く、あの湿った、軽薄な音が鼓膜を震わせた。


 その瞬間、俺の右肩から指先にかけて、存在しない「五百キログラムの鉄」の重量が突如として舞い戻ってきた。


 激しい幻肢痛が鎖骨を圧迫し、腱をギリギリと締め上げる。膝が激しく震え、足首の筋肉が強硬に収縮して岩盤に貼り付いた。


 視線が勝手に地面の泥濘へと引きずり下ろされ、肺の換気が完全に停止する。


(倒れれば、またあの冷たい膜が顔を覆う――)


 脳内にフラッシュバックする、窒息の暗闇と、スライムの酸が皮膚を侵食する生理的な嫌悪。


 今の俺はレベルが上がり、魔王の肉体を持ち、火も風も操れるはずなのに、身体の深層に沈殿する「死んだ勇者」が、今も泥の中で動けずに這いずり回っていた。


「我が主よ」


 ガルドスの白骨の掌が、俺の動かなくなった肩の上に静かに置かれた。


 金属の冷たさと、かすかな震えが伝わる。


「剣を振るう必要はありません。あなたはもう、あの呪わしい聖剣を背負ってはいない」


 その骨の冷たさが、凍りついていた俺の肺胞を無理やり押し広げた。


 激しい呼吸が、乾いた喉を駆け抜ける。


 そうだ。


 俺の右腕には、もうあの五百キロの鉄塊は握られていない。奪われ、失い、だが同時に、あの不条理な重力からは解放されたのだ。


 俺は泥に塗れた右手を開き、スライムの核へ魔力を伸ばした。


「《ドミネイト》」


 半透明の緑の体の中心で、脈打つ薄緑の文字列が浮かび上がる。《分裂》


 《吸収》《酸弾》


 最弱の魔物。


 だが、それゆえに奴らの生存の特性は「しぶとさ」に特化していた。


 切られても分かたれるだけで死なず、潰されても元の輪郭を復元し、踏みつけられても泥に同化して生き残る。


「《分裂》を、奪う」


 核に指先が触れた瞬間、粘着質で不定形な生存本能が脳内になだれ込んできた。


 ――どれほど踏みにじられても、ただ生存し続けたいという盲目的な欲求。


 ――自身の肉体を切り分け、薄く、広く世界へ拡散してでも、滅びを拒絶する原始的な衝動。


 それは知性を持たない魔物の、純粋な「生の執着」だった。


【スキル獲得:《分裂》】【スロット使用:6/8】


 俺は自らの意志で、泥の上に両膝をついた。


 倒されたのではない。


 地に手をつき、その冷たさを確かめるために、自ら重心を下げたのだ。


「……まだ、手の震えが止まらないな」


「当然です。死の深淵は、三日で消えるほど浅くはありません」


 ガルドスはそう言って、俺の横に並んで膝をついた。


「ですが主よ、あなたは今、ご自身の力で立ち上がろうとしておられる」


 泥のついた青白い掌を見つめる。


 そこには聖剣もない。


 だが、この肉体は、確かに俺の意志で動いている。


「ああ。ここからは、俺がこの力を使う」


 《分裂》の権能は、身体の感覚を著しく揺さぶるグロテスクなものだった。


 魔力を巡らせると、全身の皮膚と影の境界線が融解するような錯覚が走り、視界が二重にブレる。


 背骨の中央から、何か冷たい杭が内側に打ち込まれる感覚。


 それは痛みではない。


 自分の輪郭が、誰にも頼まれていないのに勝手に複製されていく、生理的な違和感だった。


 俺のすぐ隣に、もう一人の半透明で表情のない「俺」が泥の中から這い出してくる。


 その目が、こちらを向いた。


「――っ」


 瞬間、分裂体の口角がわずかに吊り上がった。


 笑っている。


 俺が笑っていないのに、奴が笑っている。


 慌てて視線を逸らす。


 同時に、分裂体の視界が俺の脳に流れ込んできた。


 二組の網膜が、同じ世界を少しずつ違う色合いで捉えている。どちらが本物で、どちらが切り分けられた残骸か、一瞬判別できない。


 実体は脆弱で、強い衝撃を受ければ霧のように霧散してしまうが、その両眼が捉える視覚情報は、俺の脳へと直接同期して流れ込んできた。


「偵察には、これ以上ない精度だな」


「囮としての機能も極めて高いかと」


 ガルドスが錆びた大剣を杖代わりに立ち上がった。


「《飛翔》と組み合わせれば高所からの索敵をノーリスクで行え、《号令》を通せば分裂体へ複雑な迂回行動を指示できます。スライムの卑小な生存術が、我らの戦術の根幹となるのは皮肉ですが」


「面白いじゃないか。俺を殺した力で、俺が生き延びる」


 喉の奥から出た笑いは、少しだけ乾いていた。


 自分を殺した魔物の力を取り込み、それを便利だと認識している歪んだ認知。


 嫌悪しながらも、脳はすでに次の効率的な奪取計画を練り始めている。


「使いすぎるなよ、レイン」


 自分自身に向けて警告する。


 分裂体を消去した瞬間、自分の自我の一部が空気中へとほどけて消失したような、奇妙な喪失感が残ったからだ。


「主が主の輪郭を失わぬこと。それだけが、我らの唯一の敗北条件です」


 ガルドスの言葉が、冷たい風に乗って耳の奥へ沈んだ。


 その日の深夜、俺は崩れた石壁の陰で、奇妙な夢を見た。


 あの白い、手応えのない部屋。


 山積みにされた書類と、青白く発光する画面。


 女神エリュシアが、充血した目で執拗にキータッチの音を響かせている。


 カタ、カタ、カタ。


「勇者と魔王。聖女と運命。すべては規定された運命の通りに」


 彼女の呟きは、誰に向けられたものでもなかった。


 画面に流れる、俺の死のデータ、そしてアレスとセラフィナが結ばれる未来の筋書き。


「私も……」


 エリュシアの指先が、キーボードの上で不意に止まり、細かく震えた。


「私も、この終わらないループの檻に、囚われているだけなのかもしれない」


 心臓の激しい拍動と共に、目が覚めた。


 天井は低く、滴る水滴が冷たく額を叩く。


 白い部屋ではない。


 魔界の、生々しい痛みに満ちた夜だ。


 入り口の影では、ガルドスが眠ることのない白骨の身体で、静かに大剣を抱えて立っていた。


「女神も、囚人か……」


 夢の真意は掴めない。


 だが、あの神の指先の震えだけは、確かに俺の脳裏に「確かな印象」を持って残っていた。


「我が主、お目覚めですか」


「……何でもない。ただの、泥のような夢だ」


 俺は立ち上がり、背中の濡れた翼を小さくはためかせた。


 暗闇の中、足元でスライムが跳ねる音がする。


 べち。


 今度は、俺の足が止まることはなかった。


「東へ進むぞ。古城の封印を、俺たちの力でこじ開けに行く」


 古城には何があるかわからない。


 封印、罠、他の魔物、あるいは人間界の情報。


 だが、翼も分裂体も従者も手に入れた今、立ち止まる理由はない。


 次の拠点。


 次の力。


 そして、次の敵。


 すべてを、奪い取るために。

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