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女神の桁ミスで500kgの聖剣を渡されスライムに殺された元勇者、魔王に転生して奪われた人生を取り戻す  作者: 羊皮紙のヤギ
第1章

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第3話 最初の獲物

 最初に奪うべきものは、力ではなかった。


 外界の構造を知るための、情報だ。


 魔界の薄紫の太陽が地平に沈みかけた頃、俺はゴブリンの小集落を見下ろす黒い岩場の陰に伏せていた。


 昨日逃がした偵察隊の残した不揃いな足跡が、この乾いた土の窪地へと続いていた。


 低い柵の向こう側、泥を捏ねて作ったような粗末な兵舎が十数棟並んでいる。


 集落の中央では、他より二回りほど筋繊維の太い個体が、獣骨を連ねた首飾りを揺らして君臨していた。


 ゴブリンリーダー。


 レベル七。


 勇者だった頃なら、木枯らしに舞う枯葉のように一薙ぎで塵にできた存在。


 だが、今のレベル五の俺にとっては、生を繋ぐための「獲物」であり、同時に容易く俺を噛み殺しうる捕食者だった。


「息を殺せ。焦るな」


 自分自身の喉の狭窄感に向かって、そう言い聞かせる。


 肋骨の下に黒い玄武岩の鋭角が食い込み、呼吸のたびに刺すような痛みが走った。


 風下からの煙が、腐った肉を焼く嫌悪感を伴う匂いとなって網膜の奥を刺激する。


 真正面から戦えば、数の圧力で肉塊に変えられるのは俺の側だ。


 なら、群れの統率を根底から切り崩す。


 俺は《風刃》を、集落の北端に置かれていた干し肉の入った粘土壺へ向けて放った。


 空気を切り裂く短い高音の後、壺が激しく粉砕される乾いた音が響く。


「ギギッ!?」


 案の定、数体のゴブリンが叫び声を上げてそちらへと駆け出した。


 だが、中央のリーダーは動かない。


 太い首をすくめ、黄色い瞳を左右に激しく往復させている。


 ただの雑魚ではない。


 群れを群れとして維持するための「防衛本能」が、その厚い硬皮の奥で機能していた。


 指揮官は、群れの重心から離れない。


 ならば、こちらからその重心を穿つ。


 俺は岩陰の遮蔽から一気に身体を剥がし、突進した。


「《火球術》!」


 放たれた赤黒い火球は、リーダーの顔面ではなく、その両足の間の地面へ着弾した。


 殺傷のためではない。


 爆風の抵抗を利用し、奴の機動を奪うためだ。


 泥と火の粉が爆ぜ、リーダーが咆哮を上げる。


 視界を塞がれたゴブリンリーダーは、盲目的に巨大な木製の棍棒を振り下ろした。


 空気が圧縮される凄まじい風圧が、直撃の前に俺の頬の皮膚を強打した。


 避けようと、左足を踏み込む。


 だが、脳が指令を出してから肉体が応答するまでに、わずかなラグ――魔王の身体の慣性のズレがあった。


 勇者の筋肉なら難なくこなしていた回避行動が、今の身体では半歩分遅れる。


(しまっ――)


 激しい衝撃が、俺の左前腕を直撃した。


 鈍い、骨が軋む音。


 脳髄を直接揺さぶるような激痛が走り、視界が明滅する白い光で埋め尽くされた。


 リーダーの巨体が、勢いそのままに俺に覆い被さってくる。


 泥が飛び散り、背中が地面に叩きつけられる。


 腐った肉の匂いがする硬い牙が、左肩の鎖骨あたりに食い込み、皮膚を裂く熱い痛みが走った。


「が、あっ……!」


 左手は使えない。


 骨が折れ、肩が牙に押さえつけられている。


 なら、右手だけでいい。


 俺は泥の中で上半身をもがき、リーダーの分厚い喉首に、血と泥にまみれた右指先を突き立てた。


「《ドミネイト》……!」


 世界が急激に減速し、モノクロの静寂が訪れる。


 リーダーの首の皮膚の下、脈打つ血管の奥で、三つの魔力の結晶が赤く点滅していた。《棍棒術》


 《毒牙》《群れ統率》


 俺は、最も強く脈打つ《群れ統率》の核に魔力の指先を引っ掛け、力任せに引き剥がした。


「奪う――ッ!」


 リーダーの喉から、声にならない悲鳴が漏れ出る。


 同時に、十数体分のゴブリンたちの記憶と感情が、濁流となって脳内になだれ込んできた。

 飢えへの焦燥、群れを守るための重圧――。

 頭蓋を割りそうな痛みが走り、俺は思わず膝を突きそうになる。奥歯を噛み締め、それを強引に捩じ伏せた。


【スキル獲得:《群れ統率》】【スロット使用:4/8】


 俺は左腕の骨折の痛みを押し殺し、奪ったばかりの重力を声に乗せて吐き出した。


「――武器を、捨てろ」


 その波動は、集落に残るすべてのゴブリンの鼓膜を震わせた。


 彼らの黄色い瞳から、戦意の光が急速に失われていく。


 ぽと、ぽとと、泥の上に棍棒が落ちる音が重なる。


 完全な忠誠ではない。


 彼らの目は、絶対的な「統率者」を失ったことによる、底知れない精神的空白を映し出していた。


「この集落の権益は、俺が受け取る。従う者は生かし、去る者は追わない。だが、牙を剥くなら、その生存を奪う」


 泥と煙にまみれた集落の中で、動く者は誰もいなかった。


 最初の支配地は、怯える魔物の目と、肉の焦げる悪臭だけで満たされていた。


 集落の最奥にある、半ば崩れかけた木造の物置きから、破れた魔界の地図が見つかった。


 人間の領域で使われている精緻なものとは違い、地名すらほとんど書かれていない空白だらけの羊皮紙。


 だが、その東の果てに、一つの古城のマークが描かれていた。


「古城……魔王の牙城か」


 煤で汚れた指先が、そのマークの上で止まる。


 魔王の卵が、その殻を破るための最初の目的地として、それ以上の場所はなかった。


「東へ進むぞ」


 地図を懐に収めようとした瞬間、屋外のゴブリンたちが一斉に甲高い悲鳴を上げた。


 怯えの質が違う。


 先ほど俺に向けられた恐怖よりも、さらに冷たく、根源的なもの。


 俺は骨の痛む左腕をかばいながら外へ出た。


 黒い丘の頂に、月光を背負って直立する、一人の騎士の姿があった。


 その甲冑は全身が赤錆びており、兜の隙間からは肉の失われた白骨の顎が覗いている。


 手にした大剣は刃こぼれし、周囲の空気を黒く歪ませていた。


 不死の騎士。


 ステータスを読み取ろうとした俺の視界の中で、数値はエラーの赤線を引いた。


 測定不能。


 一歩、また一歩と、白骨の騎士が丘を下りてくる。


 その金属が擦れ合う音は、錆びた蝶番の軋みというより、古い墓石の蓋がずり落ちる音そのものだった。


 逃げることは不可能だと、本能が告げていた。


 戦えば、このレベル五の魔王の肉体は一瞬で砂に帰る。


 なら、魔王としての覚悟を持って対峙するしかない。


「俺に、何か用か」


 騎士は俺のわずか三歩手前で、その巨大な体をピタリと停止させた。


 兜の暗い空洞の奥で、青い燐光がゆらりと灯る。


「主の匂いを追ってきた。裏切られた者の、澱んだ匂いだ」


 その声は、肺のない胸腔から、乾いた骨の振動だけで響いてきた。


「匂いだけで剣を向ける相手を決めるのか」


「お前は、もはや人間ではないな」


「――今はな」


 俺の絞り出した言葉に、兜の奥の青い火がかすかに爆ぜた。


「元は、人間であったか」


 俺は答えず、ただガルドスの空洞の目を睨み返した。


 沈黙という重い境界線が、二人の間に横たわる。


 突然、騎士の巨大な甲冑が地面に向かって屈曲した。


 ドン、と古い金属が地面の泥を叩く音が響く。


 彼は、魔王の卵である俺の前に、恭しく膝をついていた。


「我が名はガルドス。かつて人の王に忠誠を誓い、その裏切りによって永遠の呪いを得た骸」


 白骨の指が、錆びた胸当てに当てられる。


「裏切られた主よ。あなたの瞳には、裏切る側の光がない」


「この弱さを見て、なお剣を捧げるというのか」


「弱い主を守るためにこそ、盾はあるのです」


「俺は魔王だぞ」


「ならば、私は魔王の剣となりましょう」


「……元、勇者でもある」


 ガルドスの青い目が、静かに宿った。


「ならば、その人間性に誓いましょう」


 俺は、骨の折れていない右手を差し出した。


「レイン・ヴェルドラゴンだ。今はまだ、殻の中にいる」


 ガルドスの冷徹な白骨の手掌が、俺の右手を握り込んだ。


 肉のない骨の冷たさ。


 だが、その奥には、世界のどの物理法則よりも硬い「誓約」の重みが宿っていた。


「ならば、その殻が破れる瞬間まで、この盾でお守りいたしましょう。我が主よ」


 俺は折れた左腕をかばいながら、懐の地図を取り出した。


 東の果て。


 古城のマーク。


「ガルドス、東へ向かう。そこに、魔王の牙城があるはずだ」


「承知しました」


 最初の従者が、錆びた大剣を地面に突き立てて一礼する。


 新しい拠点。


 新しい力。


 そして、人間界の情報。


 俺は、魔界の薄紫の夜風を浴びながら、東へと歩き出した。

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