第3話 最初の獲物
最初に奪うべきものは、力ではなかった。
外界の構造を知るための、情報だ。
魔界の薄紫の太陽が地平に沈みかけた頃、俺はゴブリンの小集落を見下ろす黒い岩場の陰に伏せていた。
昨日逃がした偵察隊の残した不揃いな足跡が、この乾いた土の窪地へと続いていた。
低い柵の向こう側、泥を捏ねて作ったような粗末な兵舎が十数棟並んでいる。
集落の中央では、他より二回りほど筋繊維の太い個体が、獣骨を連ねた首飾りを揺らして君臨していた。
ゴブリンリーダー。
レベル七。
勇者だった頃なら、木枯らしに舞う枯葉のように一薙ぎで塵にできた存在。
だが、今のレベル五の俺にとっては、生を繋ぐための「獲物」であり、同時に容易く俺を噛み殺しうる捕食者だった。
「息を殺せ。焦るな」
自分自身の喉の狭窄感に向かって、そう言い聞かせる。
肋骨の下に黒い玄武岩の鋭角が食い込み、呼吸のたびに刺すような痛みが走った。
風下からの煙が、腐った肉を焼く嫌悪感を伴う匂いとなって網膜の奥を刺激する。
真正面から戦えば、数の圧力で肉塊に変えられるのは俺の側だ。
なら、群れの統率を根底から切り崩す。
俺は《風刃》を、集落の北端に置かれていた干し肉の入った粘土壺へ向けて放った。
空気を切り裂く短い高音の後、壺が激しく粉砕される乾いた音が響く。
「ギギッ!?」
案の定、数体のゴブリンが叫び声を上げてそちらへと駆け出した。
だが、中央のリーダーは動かない。
太い首をすくめ、黄色い瞳を左右に激しく往復させている。
ただの雑魚ではない。
群れを群れとして維持するための「防衛本能」が、その厚い硬皮の奥で機能していた。
指揮官は、群れの重心から離れない。
ならば、こちらからその重心を穿つ。
俺は岩陰の遮蔽から一気に身体を剥がし、突進した。
「《火球術》!」
放たれた赤黒い火球は、リーダーの顔面ではなく、その両足の間の地面へ着弾した。
殺傷のためではない。
爆風の抵抗を利用し、奴の機動を奪うためだ。
泥と火の粉が爆ぜ、リーダーが咆哮を上げる。
視界を塞がれたゴブリンリーダーは、盲目的に巨大な木製の棍棒を振り下ろした。
空気が圧縮される凄まじい風圧が、直撃の前に俺の頬の皮膚を強打した。
避けようと、左足を踏み込む。
だが、脳が指令を出してから肉体が応答するまでに、わずかなラグ――魔王の身体の慣性のズレがあった。
勇者の筋肉なら難なくこなしていた回避行動が、今の身体では半歩分遅れる。
(しまっ――)
激しい衝撃が、俺の左前腕を直撃した。
鈍い、骨が軋む音。
脳髄を直接揺さぶるような激痛が走り、視界が明滅する白い光で埋め尽くされた。
リーダーの巨体が、勢いそのままに俺に覆い被さってくる。
泥が飛び散り、背中が地面に叩きつけられる。
腐った肉の匂いがする硬い牙が、左肩の鎖骨あたりに食い込み、皮膚を裂く熱い痛みが走った。
「が、あっ……!」
左手は使えない。
骨が折れ、肩が牙に押さえつけられている。
なら、右手だけでいい。
俺は泥の中で上半身をもがき、リーダーの分厚い喉首に、血と泥にまみれた右指先を突き立てた。
「《ドミネイト》……!」
世界が急激に減速し、モノクロの静寂が訪れる。
リーダーの首の皮膚の下、脈打つ血管の奥で、三つの魔力の結晶が赤く点滅していた。《棍棒術》
《毒牙》《群れ統率》
俺は、最も強く脈打つ《群れ統率》の核に魔力の指先を引っ掛け、力任せに引き剥がした。
「奪う――ッ!」
リーダーの喉から、声にならない悲鳴が漏れ出る。
同時に、十数体分のゴブリンたちの記憶と感情が、濁流となって脳内になだれ込んできた。
飢えへの焦燥、群れを守るための重圧――。
頭蓋を割りそうな痛みが走り、俺は思わず膝を突きそうになる。奥歯を噛み締め、それを強引に捩じ伏せた。
【スキル獲得:《群れ統率》】【スロット使用:4/8】
俺は左腕の骨折の痛みを押し殺し、奪ったばかりの重力を声に乗せて吐き出した。
「――武器を、捨てろ」
その波動は、集落に残るすべてのゴブリンの鼓膜を震わせた。
彼らの黄色い瞳から、戦意の光が急速に失われていく。
ぽと、ぽとと、泥の上に棍棒が落ちる音が重なる。
完全な忠誠ではない。
彼らの目は、絶対的な「統率者」を失ったことによる、底知れない精神的空白を映し出していた。
「この集落の権益は、俺が受け取る。従う者は生かし、去る者は追わない。だが、牙を剥くなら、その生存を奪う」
泥と煙にまみれた集落の中で、動く者は誰もいなかった。
最初の支配地は、怯える魔物の目と、肉の焦げる悪臭だけで満たされていた。
集落の最奥にある、半ば崩れかけた木造の物置きから、破れた魔界の地図が見つかった。
人間の領域で使われている精緻なものとは違い、地名すらほとんど書かれていない空白だらけの羊皮紙。
だが、その東の果てに、一つの古城のマークが描かれていた。
「古城……魔王の牙城か」
煤で汚れた指先が、そのマークの上で止まる。
魔王の卵が、その殻を破るための最初の目的地として、それ以上の場所はなかった。
「東へ進むぞ」
地図を懐に収めようとした瞬間、屋外のゴブリンたちが一斉に甲高い悲鳴を上げた。
怯えの質が違う。
先ほど俺に向けられた恐怖よりも、さらに冷たく、根源的なもの。
俺は骨の痛む左腕をかばいながら外へ出た。
黒い丘の頂に、月光を背負って直立する、一人の騎士の姿があった。
その甲冑は全身が赤錆びており、兜の隙間からは肉の失われた白骨の顎が覗いている。
手にした大剣は刃こぼれし、周囲の空気を黒く歪ませていた。
不死の騎士。
ステータスを読み取ろうとした俺の視界の中で、数値はエラーの赤線を引いた。
測定不能。
一歩、また一歩と、白骨の騎士が丘を下りてくる。
その金属が擦れ合う音は、錆びた蝶番の軋みというより、古い墓石の蓋がずり落ちる音そのものだった。
逃げることは不可能だと、本能が告げていた。
戦えば、このレベル五の魔王の肉体は一瞬で砂に帰る。
なら、魔王としての覚悟を持って対峙するしかない。
「俺に、何か用か」
騎士は俺のわずか三歩手前で、その巨大な体をピタリと停止させた。
兜の暗い空洞の奥で、青い燐光がゆらりと灯る。
「主の匂いを追ってきた。裏切られた者の、澱んだ匂いだ」
その声は、肺のない胸腔から、乾いた骨の振動だけで響いてきた。
「匂いだけで剣を向ける相手を決めるのか」
「お前は、もはや人間ではないな」
「――今はな」
俺の絞り出した言葉に、兜の奥の青い火がかすかに爆ぜた。
「元は、人間であったか」
俺は答えず、ただガルドスの空洞の目を睨み返した。
沈黙という重い境界線が、二人の間に横たわる。
突然、騎士の巨大な甲冑が地面に向かって屈曲した。
ドン、と古い金属が地面の泥を叩く音が響く。
彼は、魔王の卵である俺の前に、恭しく膝をついていた。
「我が名はガルドス。かつて人の王に忠誠を誓い、その裏切りによって永遠の呪いを得た骸」
白骨の指が、錆びた胸当てに当てられる。
「裏切られた主よ。あなたの瞳には、裏切る側の光がない」
「この弱さを見て、なお剣を捧げるというのか」
「弱い主を守るためにこそ、盾はあるのです」
「俺は魔王だぞ」
「ならば、私は魔王の剣となりましょう」
「……元、勇者でもある」
ガルドスの青い目が、静かに宿った。
「ならば、その人間性に誓いましょう」
俺は、骨の折れていない右手を差し出した。
「レイン・ヴェルドラゴンだ。今はまだ、殻の中にいる」
ガルドスの冷徹な白骨の手掌が、俺の右手を握り込んだ。
肉のない骨の冷たさ。
だが、その奥には、世界のどの物理法則よりも硬い「誓約」の重みが宿っていた。
「ならば、その殻が破れる瞬間まで、この盾でお守りいたしましょう。我が主よ」
俺は折れた左腕をかばいながら、懐の地図を取り出した。
東の果て。
古城のマーク。
「ガルドス、東へ向かう。そこに、魔王の牙城があるはずだ」
「承知しました」
最初の従者が、錆びた大剣を地面に突き立てて一礼する。
新しい拠点。
新しい力。
そして、人間界の情報。
俺は、魔界の薄紫の夜風を浴びながら、東へと歩き出した。




