第2話 魔王の卵
半透明の、うす汚れた緑色の膜が、岩陰でぷるりと震えていた。
最弱の魔物、スライム。
だがそれを見た瞬間、俺の足の裏はあの湿った洞窟の泥濘を思い出し、喉の奥が激しく収縮した。
倒れたときに頬へ貼りついた、息のできない冷たさ。五百キログラムの聖剣の下敷きになり、もがくことすらできずに窒息していったあの瞬間。
「……ッ」
胃の底から苦い体液が這い上がってくる。
【レベル1】
視界の端に浮かぶ赤い数字は、俺が今、あの無力な状態に戻ってしまったことを無慈悲に告げていた。
情けないことに、身体の関節が恐怖で勝手に縮こまる。
「落ち着け、俺は――」
だが、指が動かない。
食指が、炎の出力に比例して震え始め、関節が勝手に硬直する。
掌の中心で渦巻くはずの魔力が、指先で乱れ、予想外の方向へ火花を散らした。
「っ……!」
煤の匂いが鼻腔を突き、目を細める。
炎が、制御を失いかけている。
恐怖が魔力の配分を狂わせている。
低レベル魔王の身体は、まだ勇者時代の感覚を覚えており、そのズレが指先の痺れとなって訴えている。
スライムが再び跳ねる。
その軌道に合わせて、火球を突き出すように放った。
「ぎ……ッ!」
炎の熱線が半透明の体を焼き、スライムは一瞬で水蒸気の塊へと霧散した。
空中に飛び散った水滴が熱でじゅうじゅうと乾き、洞窟の酸っぱい空気の中へ溶けていく。
【レベルアップ:1 → 2】
目の前に浮かんだ赤い文字は、ひどく無機質で、何の余韻も残さなかった。
それでも、俺の右手は、まだ何かを拒絶するように固く握りしめられたままだった。
「殺せる。今の俺なら、スライムを殺せる」
言葉として吐き出すと、ようやく浅い呼吸が肺に降りてきた。
小さな勝利だ。
しかし、足の裏の泥の冷たさはまだ消えていない。
だが、この冷たい暗闇の魔界は、俺の恐怖が収まるのを待ってはくれない。
なら、この足の裏の痛みを、心臓の異常な拍動を抱えたまま、歩き出すしかない。
奪えば強くなる。
だが、このスキルは何かおかしい
三日間、俺は洞窟を拠点にして潜んだ。
入口を削れた巨大な岩で塞ぎ、その隙間からかすかな光を拾う。
床の冷たい岩盤には、辛うじて集めた乾いた苔を敷いた。
だが寝返りを打つたびに、背骨の両脇に張り付いた未発達の翼の突起がゴリゴリと硬い石に当たり、鈍い痛みが走った。
水は、濡れた壁面を伝って滴り落ちる液を、手掌を皿にして受け止めた。
口に含むと、硫黄の臭みと細かい砂利のざらつきが喉の奥に貼り付き、飲み込むたびに喉頭が抵抗を示した。
魔界という空間は、一歩ごとに俺の足の裏を押し返してきた。
靴のない黒い石の角は容赦なく皮膚を裂き、歩くたびにかすかな血の匂いが立ち上る。
それでも俺は、生きるために戦うしかなかった。
「ステータス」
掠れた声に応答するように、視界にステータスが表示される。
レベルは五。
獲得したスキルは《火球術》と《風刃》。
《風刃》は、洞窟周辺の小型風スライムから奪った。
これを火球に重ねると、炎の速度が上がる。
あまりにも便利だった。
そして、その便利さの底にある「不穏さ」が、じわりと指先を冷たくさせた。
奪えば強くなる。
しかし、あのゴブリンから奪ったときの「他者の人生の流入」は、今も掌の奥に澱のように残っている。
時折、火を灯すだけで、暗い穴倉で飢えに狂うゴブリンの恐怖と、焦げた毛並みの匂いが、俺自身の記憶の隙間に侵入してくる。
「どこまでが、俺なんだ」
答える者はいない。
その時、塞いだ岩の隙間から、砂利を踏みしめる複数の足音が漏れて聞こえた。
ゴブリンの偵察小隊と、奪った『支配の権能』
ゴブリンの偵察小隊だった。
数は五。
先頭の一体だけが他より二回りほど大きく、腰に汚れた獣骨の笛をぶら下げている。
「見つかれば、終わりだ」
勇者時代の俺なら、正面から堂々と剣を抜き、彼らの「悪」を裁いただろう。
だが今の俺は、暗い横穴の泥の中に全身を沈め、呼吸を殺してその影を見つめている。
湿った冷たい岩壁が背中に吸い付き、翼の突起が圧迫されて鈍い痛みを伝える。
その痛みを、意識を研ぎ澄ますための楔にした。
足音が、ズズ、ズズと、等間隔で近づいてくる。
一体、二体、三体。
先頭の大きなゴブリンが、洞窟の入口の岩の隙間に、黄色い目を滑らせた。
(今だ――)
俺は手のひらを突き出し、《風刃》を低く放った。
刃は彼らの足元の小石を細かく粉砕し、乾いた石粉のカーテンを巻き上げる。
ゴブリンたちの黄色い目が、突然の白い煙幕に混乱して泳いだ。
「――《火球術》」
その白い煙の中へ、熱を凝縮した炎の弾を投下する。
こもった爆音。
狭い空間での爆発波が、ゴブリンたちの悲鳴を増幅させた。
先頭の指揮官らしきゴブリンが、衝撃で泥の上に転倒する。
俺は煙を切り裂いて突進しようとした。
だが、泥に足を取られ、半身が壁にぶつかる。
「っ……!」
壁の凸凹が肩に食い込み、泥が靴のない足首を冷たく包む。
真正面からの剣戟ではない。
低レベル魔王の身体は、まだ元勇者の理想を再現できず、泥と壁と体勢の乱れの中でしか動けない。
それでも、指先だけは覚えていた。
転倒した指揮官の胸板へ、右半身を預けるようにして右手を押し当てた。
「《ドミネイト》」
赤い文字が、彼の胸の奥で爆ぜるように浮かび上がった。《号令》――その核を、指先の魔力で絡め取り、一気に引き抜く。
「奪う……!」
喉の奥から絞り出した声と同時に、またしても汚泥のような他者の感覚が流れ込んできた。
――群れを率いる重圧。
――背後の仲間たちからの品定めするような視線。
――もし命令を間違えれば、背後から突き殺されるかもしれないという、逃げ場のない恐怖。
他者の支配者としての焦燥と不安が、俺の頭の中を無理やりかき混ぜるように侵食する。
頭蓋の奥でズキズキとした偏頭痛が始まり、こめかみの血管が激しく拍動した。
「が、は……っ!」
【スキル獲得:《号令》】【スロット使用:3/8】
俺はよろめきながらも立ち上がり、生き残って怯えている四体のゴブリンへ、奪ったばかりの権能を叩きつけた。
「――そこを動くな」
その声には、魔王の魔力と、彼らのリーダーから奪った《号令》の波動が乗っていた。
ゴブリンたちの身体が、まるで鉄の枷をはめられたように強張る。
その黄色い瞳には、元の仲間への忠誠ではなく、絶対的な恐怖が張り付いていた。
「武器を置き、ここから去れ。二度と近づくな」
乾いた石の床に、木の棍棒が力なく落ちる音が響いた。
ゴブリンたちは、互いに目配せをすることさえ忘れた様子で、魔界の薄紫の夜の中へと這いずりながら逃げていった。
彼らを殺す必要はない。
勇者だった頃なら「甘さ」と切り捨てたはずの判断を、今の俺は「合理的なリソースの節約」と言い換える。
そしてそれは――。
自分がまだ人間『レイン・ヴェルドラゴン』であるための、最後の防波堤でもあった。
『奪う者は、奪われる』――石板に刻まれた呪い
その日の深夜、俺は洞窟の最奥の崩落跡から、古い石板の破片を見つけた。
表面は黒い粘土と苔に覆われていたが、指の腹でそれを擦り落とす。
そこには魔王の権能に関する記述が、不気味なほど鮮明な文字で刻まれていた。
《ドミネイト》第一段階《奪取》
第二段階《改変》第三段階《創造》
石板は凍てつくように冷たかった。
その冷たさは指の先から骨を伝わり、死後の白い部屋には存在しなかった「物理世界の実在感」を俺の脳に強烈に突きつけてくる。
『奪う者は、奪われる』
欠けた文字の下に、呪いのように刻まれた一節。
『力と共に、他者の恐怖、願い、役割が心へと流れ込む』
『理解なき奪取は、己の魂を濁らせ、狂わせる楔となる』
「理解して、奪え……か」
自嘲気味に息を漏らす。
奪う相手の痛みを、その生を理解すればするほど、奪うという行為そのものが俺の心に重く圧し掛かる。
だが、理解を拒絶して無自覚に奪い続ければ、俺の心はゴブリンや魔物の泥水に呑まれて消失する。
どちらを選んでも、待っているのは地獄だ。
俺は冷たい石板に額を押し当てた。
冷たい。
けれど、確かに俺の皮膚はそれを冷たいと感じている。
生きている。
あの何もない白い部屋より、よほど痛みに満ちて、呼吸をしている。
「俺は、絶対に消えない」
洞窟の外で、魔界の獣の遠吠えが、夜の帳を裂いた。
俺は手のひらに小さな炎を灯し、その揺れる赤色の光の中で、石板の冷たい文字を追い続けた。
この暗い這い出し口の向こうに広がる、まだ見ぬ世界と人間界の影。そこへ踏み出すべき時は、もうすぐそこまで迫っていた。




