第1話 500kgの喜劇
湿った洞窟の奥、膝まで沈む泥濘の中で、俺の腕は限界を迎えていた。
手の中の聖剣は、神聖な兵装などではない。
ただの無慈悲な鉄塊だ。
肩の関節が重力に引きちぎられ、首の腱が悲鳴を上げる。
肺を圧迫する泥の匂いが、呟く息さえ遮った。
本来ならば五十キログラムであるはずの聖剣が、五百キログラムの質量を持って手のひらに圧し掛かっている。
握力が、最初に崩れた。
右手の指が、聖剣の柄から離れようとした。
だが、皮膚が剥がれるほどの摩擦を伴って、指は柄に張り付いたままだ。
一度握った手が、五百キログラムの重さに呑み込まれ、もはや俺の意志では開かない。
捨てようとして、捨てられない。
「――あ」
乾いた腰の骨が、鈍い音を立ててズレる。
「ひぎっ」
五百キログラムの鉄が泥の中に没すると同時に、俺の身体もまた汚泥へと叩きつけられた。
視界が真横に傾く。
鼻腔に腐肉の交じった泥水が流れ込み、激しく咽せた。
腕の一本さえ動かせない。
骨盤から下が、完全に神経の接続を失ったかのように冷たくなっていく。
その泥の向こうから、跳ねる音が聞こえた。
べち。
べち。
半透明の、うす汚れた緑色の塊。
レベル1のスライムだ。
かつての俺なら、視線を向けるだけで霧散させられたはずの最弱の魔物が、泥まみれで横たわる俺の頬へと乗り上げてきた。
ひんやりとした粘着質な膜が、皮膚に吸い付く。
窒息するような冷たさと、かすかな酸の刺激が鼻腔を刺した。
痛みはない。
ただ、皮膚を侵食していく不快な収縮感だけが、頭蓋の奥で反響している。
(俺は、これで死ぬのか)
光の勇者レイン・ヴェルドラゴン。
その最期は、女神の入力ミスによる五百キログラムの聖剣の下敷きとなり、スライムの呼吸に溺れるという、喜劇にすらならない泥濘の中だった。
意識が途絶えた瞬間、落下が始まった。
物理的な落下ではない。
上下も左右もない、ただ身体の重さそのものが削ぎ落とされていくような、不条理な軽さへの転落。
次に目を開けたとき、俺は真っ白な空間にいた。
床も壁もない。
ただ境界の失われた白だけが広がり、触れているはずの足の裏に何の抵抗も返してこない。
体重が消えていた。
それが、かえって吐き気を催すほどの喪失感となって胸に停滞する。
「ええと……」
正面から、乾いたプラスチックの音が響いた。
カタ、カタ、カタ。
無機質なキータッチの音。
白いデスクを挟み、一人の女が指先を忙しなく動かしていた。
女神エリュシア。
金色の髪は光を放っているが、その瞳には神聖さなどなく、ただ処理しきれない仕事に追われる事務員の疲弊だけが沈んでいる。
「桁をね、一つ、その……滑らせちゃったみたいで」
エリュシアは指を組んだ。
爪の先がわずかに白くなっている。
彼女もまた、この不条理な静寂の中で、指先にしか存在を留められないようだった。
「内部処理としては、一応『名誉ある戦死』として登録しておくから……ね?」
「俺の墓碑銘は、お前の処理で軽くなりはしない」
声を出した。
自分の声のはずなのに、白い空間に吸い込まれて響かない。
喉に貼り付くような渇きだけが本物だった。
「レインさん、でもね、転生枠は残っているの。ただ、勇者としての資格はすでに次の候補者……アレス・ブライトに紐付けられてしまって」
アレス。
王都の神殿でくすぶっていた、あの若者か。
俺の代わりに、彼が勇者になる。
俺の代わりに、彼が世界を救う。
俺の代わりに、彼が――あの三年間を、続ける。
胸の奥で、冷たい熱が爆発した。
心臓などここにはないはずなのに、左胸の奥の空間が引きちぎられるように痛む。
「勇者と聖女は、結ばれる運命です」
エリュシアは視線を逸らし、デスクの木目を凝視した。
「それは、運命が規定した物語の結末だから。誰にも書き換えられない」
「物語、か」
俺は笑った。
歯の裏に、あの湿った洞窟の泥の味が蘇る。
「だったら、俺はその物語を奪う」
エリュシアが顔を跳ね上げた。
「レインさん、それはバグ……世界にとっての排除対象に――」
「構わない。スライムに頬を撫でられて死んだ勇者よりは、よほど生きた実感が得られそうだ」
足元が崩れた。
今度は、底のない暗黒への真の落下だった。
落下の衝撃は、全身の骨にヒビが入るような激痛となって俺を覚醒させた。
頬に当たるのは、硬く冷え切った岩の床。
立ち込めるのは、硫黄と湿った獣の体臭。
ここが魔界の底――名もなき洞窟だと、皮膚の強烈な乾燥が教えてくれた。
「ステータス」
掠れた声で呟く。
視界の端に、ノイズの混じった赤い文字列が明滅した。
【レイン・ヴェルドラゴン】
種族:魔王(レベル1)権能:《ドミネイト》
勇者としての聖光魔法も、極限まで磨いた剣技も、すべて消え去っていた。
ただ一つの呪わしい権能だけを残して。
洞窟の奥から、ズリ、ズリと足を引きずる音が聞こえた。暗闇の中から、二対の濁った黄色い目がこちらを睨みつける。
ゴブリン。
レベル3。
かつてなら指先一つで消し飛ばせた雑魚が、今の俺にとっては死神そのものの重圧を持って迫ってくる。
ゴブリンが木切れの棍棒を持ち上げた。
風を切る鈍い音が、耳腔を震わせる。
俺は一歩後ろへ下がろうとした。
だが、新しい身体は思うように動かない。
背中にある肉の塊――未発達の翼の突起が重心を後ろへと引っ張り、足元を狂わせる。
小石を踏んだ踵が滑り、冷たい汗が背中を伝った。
だが、脳は覚えている。
ゴブリンが棍棒を振り下ろす刹那、左肩がわずかに下がる癖を。
俺は半歩身をかわし、ゴブリンの剥き出しの首筋に右手を突き出した。
「《ドミネイト》」
世界が、ガラスのように砕け散った。
ゴブリンの肉体の内側、細い魔力の奔流の奥に、赤く脈打つ「核」が見える。
それは彼らが持つ唯一のスキル《火球術》の核だった。俺はそれを、泥の中から獲物をつまみ出すように、指先で引きずり出す。
「奪う」
ゴブリンが短い悲鳴を上げた。
次の瞬間、俺の右手のひらに、暴力的で焦げ付くような熱が逆流してきた。
熱だけではない。
焦げた獣毛の悪臭、暗い穴蔵で火を囲みながら飢えに怯える記憶、他者を呪う原始的な悪意――ゴブリンの魂の一部が、泥水のように俺の精神へと染み込んでくる。
胃の奥が激しく収縮し、酸っぱい液体が喉までせり上がった。
「くっ……!」
これが、奪うことの代償か。
他者の人生の断片を、強制的に自己へと溶かす精神汚染。
足元で、ゴブリンが糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
死んではいない。
だが、その瞳から狡猾な光は消え失せていた。
俺の右手には、小さく爆ぜる赤い火球が握られている。
「すまないな」
火球を握り潰し、俺は洞窟の外を見上げた。
薄紫の濁った空が広がっている。
その空の下で、半透明の小さな緑色の塊が、べち、べちと音を立てて跳ねていた。
スライム。
俺の腰の奥に、かつて背負っていた五百キログラムの聖剣の、あの呪わしい重さが蘇る。
だが、もうそれに押しつぶされることはない。
新しい権能。
新しい拠点。
新しい敵。
そして、人間界の情報。
それらすべてを、俺はこれから奪い取る。
ただし、ひとつだけ分かった。
奪ったものは、綺麗な戦利品にはならない。
火球ひとつでさえ、飢えたゴブリンの記憶と悪臭を連れてくる。
なら、セラフィナを「奪い返す」などと簡単に言った瞬間、俺はまた誰かの人生を踏みつける側に立つ。
それでも、取り戻す。
俺の三年間。
泥の中で潰された名誉。
誰かの都合で次の勇者に上書きされた、俺自身の名前。
そして、いつか必ず確かめる。
彼女が俺を選ぶのか。
選ばないのか。
その答えだけは、女神にも勇者にも奪わせない。
俺の戦いは、ここからだ。
本作を開いていただき、本当にありがとうございます!最悪の結末から始まったレインの魔王ライフ。ゴブリンの飢えや悪臭まで背負うことになった彼は、一体どんな「物語」を奪い返していくのか――。
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