第29話 奪還開始
セラフィナの微笑みが、誰かに張り付けられた「死に損ないの仮面」であることを知ってから、俺の胸の奥で、澱のように停滞していた決意が形を成し始めていた。
ヴェルドラゴン城の冷たい執務室。
俺は地図の上に、人間界の境界線を示すいくつもの黒い石の駒を並べた。
「……奪還する。奪われた人生を、この泥の中から叩き起こして取り戻す」
「……我が主。具体的な計画は?」
ガルドスが、磨耗した大剣の鞘に骨の手を置いたまま、静かに問う。
「三段階だ。第一段階は、敵の戦力動向の監視。第二段階は、魔王軍の情報網を用いた間接攪乱。そして第三段階は、王都『ルミナス』の内部におけるアレスへの直接接触だ」
「間接攪乱、ですか。新勇者に我らの情報を流すことで、彼を利する危険も伴いますが」
「わかっている。アレスはまだ、正義と悪の区別を単純に信じ込んでいる子供だ。だからこそ、魔王軍の情報を王宮に意図的に流し、アレスが『与えられた正義』の外側にある現実の複雑さを知るきっかけを作る」
「その結果、彼がさらに勇者として称賛されるなら?」
ガルドスの問いは、刃のように静かだった。
俺は地図の上に置いた黒い石の駒を見下ろす。
こちらが与えた正確な情報でアレスが勝てば、王宮は彼をますます便利な奇跡として扱う。
民衆は歓声を上げる。
聖剣は彼の肉体を削り、その削れた跡すら英雄譚の一部として塗り替えられる。
「それでも流す」
喉が少しだけ軋んだ。
「俺が彼を負けさせれば、アレスはただ壊れる。勝たせて、彼自身に違和感を持たせる。勝利の中に、自分の血の味を覚えさせる。これは救済じゃない。かなり汚い誘導だ」
「ご自身で、そこまでお認めになりますか」
「認める。だから、お前が記録しろ。俺が奪還という言葉で他人の人生を操作し始めたら、その記録を俺の前に叩きつけろ」
俺は、窓の外を流れる紫色の厚い雲を見つめた。
かつて俺も、神殿から与えられた単純な善悪を信じて走っていた。
その無知のツケを、五百キロの聖剣という鉄塊によって支払わされたのだ。
アレスをあの聖剣から引き剥がすには、まず彼の「認識の檻」を内側から崩壊させる必要がある。
第一段階の監視網は、人間界に潜入したゴブリンの耳目とジャックのルートによって着実に機能していた。
「我が主。アレスのレベルは、すでに二十五に到達しました。……異常な速度です」
「……召喚されて三週間で、二十五か。聖剣が彼の筋肉と魔力を限界まで絞り出している証拠だな」
「ええ。近々、王宮の指示により、王都近郊の『古の遺跡』へ挑む予定とのことです」
「古の遺跡……。レベル三十向けの難関ダンジョンだ。最深部には『古代の守護者』が守護者として居座っている。雷属性以外の魔法を著しく減衰させる硬質な装甲を持つ強敵だ」
「アレスの持つ聖剣は、王宮から支給された雷属性を宿すものです。相性は良いですが、彼の肉体がその雷撃の反動に耐えられるかどうか……」
俺は少し考え、地図の上の『古の遺跡』を示す地点を指先で強く叩いた。
「……ガルドス。第二段階を開始する。ジャックを通じて、『古代の守護者の弱点は雷属性である』という正確な情報を、意図的に王宮の斥候へ掴ませろ」
「正確な情報を、ですか?」
「ああ。嘘の情報を流しても、神殿の知恵者が即座に見抜く。本当の情報を与えて新勇者に勝たせる。勝たせることで、彼の『正義の全能感』を一時的に肥大化させ、王宮の彼に対する依存度をさらに深めさせる。それが、第三段階へ繋げるための勾配設計だ」
ガルドスは静かに頷き、その漆黒の甲冑を「ギギッ」と軋ませて頭を下げた。
「……承知いたしました。すぐに手配いたします」
その夜、俺は一人、冷たい風が吹き抜ける城の屋上の欄干に身を預け、はるか西の王都の街明かりを睨んでいた。
指先から欄干の冷気が伝わり、意識のピントを冷たく固定する。
「我が主」
ガルドスが足音を殺して上がってきた。
「お前か」
「お休みになられませんか。明日は、間接攪乱の成果を確認するための重要な日です」
「……ああ。もう少しだけ、ここにいる」
ガルドスは静かに俺の隣に並び立ち、はるか遠くの結界の残光を見つめた。
「我が主。今回の奪還は、かつてあなたが一人で背負っていた戦いとは異なります。ここには、お守りする『家族』がおります」
「……」
俺は言葉を返さなかった。
だが、胸の奥で、かつてアレスに裏切られてすべてを失ったときの「手元の軽さ」が、彼らの忠誠という名の「重力」によって確かに埋め尽くされているのを感じていた。
「……ありがとう、ガルドス」
「……我が主」
「ああ。家族が、いるからな」
屋上から執務室へと降りる途中、廊下の隅の厨房から、仄かなオレンジ色の光が漏れていた。
扉の隙間から覗くと、リリィが一人で大鍋の前に立ち、大きな木べらを小さな身体で懸命に動かしていた。
明日の朝食の仕込みをしているのだ。
「……リリィ。まだ起きていたのか」
「ひゃうっ!? ま、魔王様!」
リリィは驚いて耳をピンと立て、慌てて木べらを大鍋の縁に置いた。
その小さな手の甲には、煮え立つスープが跳ねたのか、かすかに赤い火傷の痕ができていた。
「無理をするな。お前は料理番だ、徹夜までする必要はない」
「でも……明日は魔王様たちにとって大切な日だから、ちゃんとした美味しいものを作ってお見送りしたくて……。リリィ、みんなみたいに強くないから、こうして料理でしか戦力になれないから……」
リリィは俯き、耳をへにょりと寝かせた。
俺はゆっくりと近づき、彼女の柔らかい頭の上にそっと手を置いた。
「お前は、もう十分に戦力だ」
「え……?」
「お前の作った飯を食った奴らは、誰も弱い顔をしていない。ボルグも、グロッグも、お前の料理があるからこそ、その腕を振るえる。お前の料理は、魔王軍の士気だ。それ以上の強大な戦力は、ここにはない」
リリィは丸い目を潤ませて俺を見上げ、やがて嬉しそうに尻尾を勢いよく左右に振り始めた。
「……はい! リリィ、もっともっと美味しいものを作ります! 世界一のおにぎりも!」
「……頼む。早く寝ろよ」
俺は彼女の頭を軽く撫でてから、厨房を後にした。
背後からは、小さなメイドの弾むような足音と、再び大鍋をかき混ぜるリリィの元気な音が、静かな廊下に響き渡っていた。
廊下の角を曲がりながら、俺は足を止めた。
石壁に片手をつき、目を閉じる。
アレスを勝たせ、正義の全能感を肥大化させ、そして――その虚像を内側から崩す。
奪還の手順は整っている。
だが、この城の温かさを知った今、その冷たい算段が、どこか遠い他人事のように感じられた。
俺は手を壁から離し、再び歩き始めた。
明日、俺が流す一枚の情報で、アレスは勝つ。
そしてその勝利の重さが、最初の亀裂になる。




