第30話 魔王の決意
奪還開始から一週間、ヴェルドラゴン城の執務室の窓を叩く火山灰の風は、かつてない冷たさを帯びていた。
俺は机上に広げられた羊皮紙の戦略地図を見つめ、そこに置かれた黒鉄の重りを弄んでいた。
指先から伝わる鉄の冷気が、思考のピントを固定する。
「……我が主。アレスが『古の遺跡』を突破いたしました」
ガルドスが、足音を殺して漆黒の甲冑を軋ませながら報告を寄せる。
「……速いな。レベルは?」
「すでに三十に到達しています。世界の理による成長補正と、彼自身の正義感の熱が、肉体の消耗を無理やり上書きして走らせているのでしょう」
「古代の守護者を、一人で倒したそうだな」
「はっ。守護者の猛撃の前に護衛の騎士たちが負傷した際、アレスは彼らをかばって前に出たとのことです。そして、我々が意図的にリークした『雷属性』の弱点に対し、聖剣の雷撃を叩き込んだ。……群衆の彼に対する熱狂は、今や狂信に近いものとなっております」
俺は黒鉄の重りを強く押し込み、羊皮紙の反発を力ずくでねじ伏せた。
「王宮は、新勇者に『魔王討伐の準備』を早急に命じたそうだな」
「御意。アズガロスと我々の勢力拡大に焦りを感じた神殿が、勇者の肉体の限界を無視して、決戦の火蓋を切ろうとしています」
その日の夜、俺は四天王全員を執務室に招集した。
蝋燭の細い炎が、彼らの異なる重みを持つ影を壁面に大きく映し出している。
「これより、迎撃の最終段階に入る。アレス率いる王宮軍は、遠からずこのヴェルドラゴン城を目指して行軍を開始する」
「……我が主。具体的な戦術は?」
ガルドスが静かに問う。
「第一段階は、ゴブリンとオークの混成部隊による局地的な遅滞戦闘だ。兵站を叩き、彼らに世界の『抵抗値』を教え込む。第二段階は、お前たち四天王の出撃。アレスの周囲の騎士たちを無力化し、勇者を孤立させろ」
「そして……第三段階は?」
ティアラが、角からかすかな青い火花を散らしながら、期待と不安の混ざった金色の瞳で俺を見つめた。
「俺自身の出撃だ。変装を解き、元勇者レインとしての魔力波形を展開し、アレスと対峙する」
瞬間、執務室の空気がみしりと凍りついた。
「我が主! それは危険すぎます。王宮の結界術式が直接あなたを狙い打ちにする恐れが――」
ガルドスが一歩踏み出し、鉄の鎧を激しく擦れ合わせた。
「わかっている。だが、アレスには、自らが振るう聖剣がどれほど歪な力によって生み出されたものか、その現実を知らせる必要がある。そして、セラフィナに――俺の意志を、この生身の手で伝えたい」
俺は四天王を見渡した。
「俺は魔王レインとして生きるが、その魂はかつて誰かに消費され、泥の中で死にかけた一人の人間だ。アレスがその運命の軛から解き放たれるまで、俺は元勇者として、そして魔王としてあいつの正面に立ち続ける」
四天王が、一斉に冷たい石床に膝を叩きつけた。
「我が主。予定調和の書目を引き裂き、あなたの新たな道の盾となりましょう」
ガルドスが深く頭を垂れる。
「レインの隣で戦うことを、私の誇りとして。竜の雷を、あなたに捧げる!」
ティアラが拳を床に突き立てる。
「ふふ。世界を騙すその歪な道の編者として、私もあなたの影に連なりましょう」
メイヴィスが銀髪を揺らし、紫の視線を伏せる。
「魔王レインを、私たちの家族を、この壁が命を賭して守り抜く」
ボルグが胸の岩肌を叩き、重低音の地響きを響かせた。
「……ありがとう。お前たちの忠誠、この命で引き受けよう」
「魔王様! リリィも、お手伝いします!」
執務室の扉の隙間から、リリィが白い猫耳をピンと立て、すり鉢を抱えて顔を覗かせていた。
その尻尾は、ちぎれんばかりに激しく左右に揺れている。
「リリィ特製のおにぎりで、みんなの胃袋をいっぱいにして、絶対に勝たせます!」
俺はリリィを見つめ、肩の力を抜いて静かに頷いた。
「ああ。お前のおにぎりこそが、我が魔王軍の最高の兵站だ。頼むぞ、リリィ」
「はい! リリィ、頑張ります!」
その夜、俺は一人、屋上の冷たい石の欄干に身を預け、はるか西の地平を睨んでいた。
人間界を護る大結界の白い残光が、紫の夜空の裾を冷たく汚している。
「我が主」
ガルドスが、足音を殺して俺の隣に並び立った。
「お前か」
「お休みになられませんか。明日から、本格的な動き出しです」
「……ああ。もう少しだけ、ここにいる」
ガルドスは静かに隣に立ち、俺と同じ方角を見つめた。
「我が主。私たちは『与えられた結末』に逆らう。それが、ヴェルドラゴン魔王軍の理念です。ですが……我が主の『道』は、私たちが新しく創り上げます。裏切られた者同士が、自らの意志で選んだ、新しい『家族』の道を」
「……ああ。一緒に創ろう、俺たちの道を」
俺は己の右の掌を見つめた。
かつて聖剣を失い、泥の中で凍えていたあの虚無の軽さは、もうどこにもない。
ここにあるのは、百を超える命の温もりと、彼らを生かし続けるための託された重力だった。
「――我が主、レイン・ヴェルドラゴン。私たちの『家族』の長として、永遠にお仕えします」
ガルドスが深く頭を下げ、その磨耗した漆黒の鎧を冷たい夜風が撫でていく。
大聖堂の鐘の音はもう聞こえない。
ここにあるのは、俺たち自身の静かな鼓動と、食堂から漂う温かいスープの残り香だけだった。
同じ夜、人間界の王都『ルミナス』。
王宮の地下治療室で、アレス・ブライトは右手の包帯を新しく巻き直していた。
「……聖女様。明日、出撃ですよね。僕、ちゃんと準備できていますか」
セラフィナが微笑みながら頷く。
感情の抜けた、いつもの微笑み。
だが、アレスは見逃さなかった。
彼女の視線が、一瞬、窓の外の魔界の方角へ滑ったことを。
「聖女様は……魔王のこと、知っていますか」
セラフィナの指先が、包帯の上でかすかに止まった。
「アレス様。魔王は人間の敵です。あなたが倒すべき、悪の象徴です」
「……そう、ですよね」
アレスは聖剣の柄にそっと触れた。
冷たい金属の重みが、掌の傷を押し潰す。
「でも、聖女様。僕、最近、夢を見るんです。泥の中で、誰かが僕を見ている夢。……怖い目じゃないんです。ただ、とても悲しい目で」
セラフィナは答えなかった。
治療室の窓に映る、魔界の紫色の空が、二人を冷たく見下ろしていた。
その沈黙の中で、セラフィナは包帯の端を結び損ねた。
聖女としてなら、すぐに微笑んで否定できたはずだった。
けれど、指先は動かなかった。
アレスの傷口から滲んだ血が、彼女の爪の内側に赤く残っている。
魔王は敵。
勇者は正義。
そう言えば、今夜は終わる。
だがセラフィナは、初めてその言葉を飲み込んだ。
アレスがそれに気づいた時、聖剣の柄が、包帯の下でかすかに鳴った。
ご愛読ありがとうございます。第1章はここまでとなります!
500kgの鉄塊に押し潰されて死んだ元勇者が、最底辺の魔王として這い上がり、世界から見捨てられた仲間たちと共に「自分の足で歩むための居場所」を築き上げました。
第1章のラストで語られたように、レインの目的は単なる破壊ではなく「奪還」です。
システムの檻に囚われた新勇者アレス、そして聖女セラフィナ。彼らから押し付けられた『役割』を引き剥がすための、魔王軍の反逆劇が第2章から本格的に開幕します。
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激動の第2章も、どうぞよろしくお願いいたします (❁´ω`❁)




