第28話 セラフィナの微笑み
王都から戻った俺の肉体は、旅の泥と、ティアラの偽装魔法が残した神経のピリピリとした疲労で鉛のように重かった。
ヴェルドラゴン城の冷え切った執務室で、ガルドスが差し出した戦略地図の四隅を、黒鉄の重りが「ギリり」と不快な音を立てて机の木目に食い込ませる。
「……我が主。セラフィナ殿の動向ですが、公式謁見の後、彼女は完全に王宮の奥深くへと引きこもりました。新勇者アレスの傍らで、神殿の象徴としての『務め』を果たし続けているとのことです」
ガルドスの白骨の声が、冷気に満ちた部屋に重く響く。
「あの謁見の時、セラフィナは微笑んでいたな」
「はっ。ですが、遠目からでは、あの微笑みの底にある温度まで測ることは叶いませんでした。彼女の纏う聖女の結界は、外からの知覚を冷酷に弾き返します」
俺は指先で黒檀の机を静かに叩いた。
コト、コト、と乾いた音が、静寂の壁を打つ。
「……メイヴィス」
執務室の暗い隅から、銀髪の夢魔が音もなく滑り出てきた。
彼女の歩くたび、かすかに甘く、同時に湿った腐葉土のような匂いが漂う。
「お呼びかしら、魔王様? 私の夢の檻が、何か役に立つかしら」
「お前の力で、セラフィナの精神の底を覗くことはできるか。彼女の『夢の余白』へ、俺の意識を滑り込ませたい」
メイヴィスは紫の瞳を細め、長い指先で自身の銀髪を弄んだ。
「できないことはないわ。ただし、彼女の心が強く拒絶し、鍵をかけている最深部には触れられない。夢の断片をなぞるだけよ。……それでもいいの?」
「十分だ。頼む」
その夜、大聖堂から持ち帰った冷たいハーブの香りが漂う夢魔の部屋で、俺はベッドに身体を預けた。
メイヴィスが俺の枕元に立ち、その氷のように冷たい指先を、俺の額の皮膚にそっと押し当てる。
「息を細く吐いて、魔王様。あなたの意識を、あの白い鳥の籠へと沈めてあげる」
目を閉じると、意識の重力が急速に反転し、粘り気のある冷たい泥水の中を深く深く沈殿していく感覚に襲われた。
そして――。
冷え切った無音の空間が、俺の知覚を包み込んだ。
夢の中の光景は、王宮の最上階にある、装飾過多な石造りの一室だった。
白いカーテンが風に揺れ、窓際に置かれた大きな鏡の前に、セラフィナが一人で立っていた。
彼女の手の中には、かつて俺が人間界の露店で買い与えた、あの安価な青いガラス玉の銀ペンダントが握られている。
「……今日も、微笑まなければなりません」
彼女は、誰もいない空間に向けて、ゆっくりと口角を引き上げた。
頬の筋肉を上に引っ張り、目を不自然に細める。
神殿が規定した、あの感情の抜けた『慈愛の微笑み』。
鏡の中の彼女は、完璧に美しい聖女の仮面を被っている。
だが、俺は見逃さなかった。
彼女が微笑みを作る瞬間、ペンダントを握りしめた指の関節が、血の気が引いて白く浮き上がっているのを。
そして、ローブの袖の下で、治癒の反動に灼かれた腕がかすかに震えているのを。
その青い瞳のピントは、目の前の鏡ではなく、はるか奈落の底のような虚無を結んでいた。
「レイン様。あなたは、どこにいるのでしょう」
彼女の唇が動いた。
声にはならない。
ただ、唇の形だけが、俺の名前を虚空に刻んでいた。
「私は、まだこの檻の中にいます。あなたのいない、この冷たい光のなかで」
その瞬間、夢の境界線が灰色の砂となって崩れ落ち、俺の意識は強引に現実へと引き戻された。
目を開けると、俺は自室の天蓋を見上げていた。
額から流れる冷や汗が、こめかみを伝って耳の後ろへと流れていく。
メイヴィスが、ベッドの脇で静かに座り、紫の瞳で俺を観察していた。
「……どうだった?」
「……見た。あの微笑みは、ただの死に損ないの仮面だ」
俺の声は、思ったよりも低く、渇いた響きを帯びていた。
「彼女、強い人ね。あれだけ心を閉ざして、不在の重力に押し潰されそうになりながら、まだ聖女の役割を維持している。……どうするの? 今すぐ奪いに行く?」
俺はすぐには答えなかった。
窓の外を見据える。
人間界を護る大結界の残光が、西の空を白く汚している。
「まだ、早い。……今行けば、彼女をさらに窮屈な神殿の檻に閉じ込めるだけだ。あの役割そのものを引き剥がす力がなければ、奪ったとしてもただの逃亡者に過ぎない」
「ふふ。我慢強いのね、魔王様。私は、そんなあなたの歪な物語が、ますます好きになってきたわ」
メイヴィスはくすくすと笑いながら立ち上がり、銀髪を揺らして部屋を出ていった。
一人になった俺は、己の右の掌を見つめた。
無意識のうちに握りしめていた拳には、爪が食い込んだ赤紫の跡が深く刻まれていた。
翌朝、食堂へ下りると、香ばしいシチューの湯気と、米の炊ける甘い匂いが俺の鼻腔をくすぐった。
リリィが、巨大な木皿に山盛りの青い塩むすびを載せて運んでくる。
「魔王様! お帰りなさい! 今日は魔界風のピリ辛シチューと、特製のおにぎりです!」
彼女の猫耳が嬉しそうにピンと立ち、尻尾が左右に大きく揺れていた。俺は椅子を引き、その重い木製の背もたれに身体を預けた。
「……気のせいだ」
「えっ? 何がですか、魔王様」
「お前の料理の塩気が、昨日より少し強い」
「ああっ、また照れ隠しですか? 魔王様、本当は美味しいって思ってるくせに!」
リリィがぷくっと頬を膨らませ、おにぎりを俺の前に差し出した。
俺は無言でおにぎりを一つ掴み、口に運んだ。
粗い塩の結晶が舌の上で弾け、硬めの米の甘みが喉の奥へと広がっていく。
その生々しい温かさが、昨晩の夢の中で見たセラフィナの冷え切った空白を、少しずつ押し流していくのを感じた。
「……食え、黙って」
「はいっ! いただきます!」
リリィは嬉しそうに耳を震わせ、自分の席に座っておにぎりに齧りついた。
この騒がしくも温かい食卓が、俺の背骨を確かに支えている。
朝食後、俺は執務室に四天王を招集した。
「今後の方針だ。人間界への潜入網は維持し、アレスの動向を常に監視する。それと並行し、魔王軍の規模を拡大する。北の魔王アズガロスに対抗するため、戦力五百体、領地半径十里の防衛線を年内に構築する」
俺が地図の上に黒鉄の重りを置くと、四天王が一斉に膝をついた。
ガルドスが漆黒の甲冑を「ギギィ」と鳴らし、白骨の頭を垂れる。
「我が主の描くその道、この骨の剣で切り開いてみせましょう」
ティアラが青い雷を纏った拳を床に突き立て、火花を散らす。
「主様のためなら、私の雷はいつでもお供します!」
メイヴィスが銀髪の隙間から紫の瞳を細め、妖艶に微笑む。
「予定調和の結末を拒む、その歪な道のページを、私も綴らせて」
ボルグが「ズゥン」と地鳴りのような音を立てて、大きな手を胸に当てる。
「魔王レインを守る。おにぎりのための畑も、私が全て守る」
四つの誓いの重みが、冷たい執務室の空気を密にしていく。
俺は王座から立ち上がり、彼らを見下ろした。
「受け取ろう。……俺たちの意志で、あの与えられた結末を叩き壊すぞ」
目標は、戦力五百、領地半径十里。
アズガロスとの圧倒的な力関係を作るために、まずは東の未開の森を制圧し、資源を確保する。
そして、セラフィナを迎えに行く日まで、一秒たりとも無駄にしない。




