第27話 アレス・ブライト
王都『ルミナス』の夜を切り裂く祝祭の残光を、俺は城壁の射程外にある薄暗い雑木林の影から見上げていた。
夜風は人間界の青臭い草の香りを運んでくるが、俺の鼻腔の奥では、ティアラの偽装魔法が発する焦げたオゾンの匂いが絶えず熱を持って居座っている。
皮膚の裏側を無数の細針で掻き毟られるようなチリチリとした放電痛が、一秒ごとに俺の神経を摩耗させていた。
「……我が主。結界の監視網が夜間パトロールを強化しています。これ以上の接近は、偽装の術式を焼き切る恐れがあります」
隣に立つガル(ガルドス)が、漆黒のフードの奥から低く白骨の声を漏らした。
「……ここでいい。アレスの『格』を測るには、この距離が丁度いい」
俺は目を細め、白く輝く城壁の頂上へと視線を固定した。
そこには、陽光を模した魔術の燭台に照らされ、白銀の鎧を着た少年と、純白のローブを纏った少女が並び立っていた。
数万の群衆の熱狂をその小さな肩に浴びながら、彼らは絵画のように静止している。
天空が激しく震動し、極彩色の光が夜空に爆発した。
パパパン、と遅れて届く魔術花火の炸裂音が、俺の胸腔を叩く。
赤、青、金。
光が弾けるたび、城壁の上の二人の影が、石の壁面に長く、歪に引き延ばされていた。
「ガル。アレスの剣戟の癖を見たか」
「はっ。ミノタウロスを屠った際の一撃、力任せの横薙ぎでした。聖剣の《自動運動補正》が強引に刃を誘導した結果、関節の稼働限界を超えて手首が外側に歪んでおりました。あれでは、あと三戦も持たずに腱が断裂します」
「だろうな。聖剣は勇者の肉体を『消耗品』としてしか計算していない」
俺は、懐のなかで拳をきつく握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
アレスが背負う《ライトブリンガー》は、かつて俺の背骨を粉砕した五百キロの怪物へと成長する前の、まだ若い牙だ。
だが、その若芽の段階でさえ、少年の肉体を内側から貪り食うように矯正している。
「……しかし、主よ。奇妙なのは聖女の様子です」
ガルの低い声に、俺は思考のピントを絞り直した。
「何がだ」
「聖女セラフィナは、アレスを一度も直視しておりません。彼女の瞳は常にアレスの頭上、あるいは足元の影を通過し、はるか遠くの虚空を捉えています。まるで、そこに存在しない『別の誰か』の面影を重ね合わせるように」
胸の奥が、冷たい氷の棘で刺されたようにみしりと軋んだ。
胃の底からせり上がってくる酸っぱい冷たさを、奥歯を噛み締めて強引に飲み下す。
セラフィナが重ねているもの。
それは、世界の理から抹消された先代の勇者――俺の不在がもたらす、巨大な重力に他ならない。
彼女は今も、その空白に囚われ、魂の抜け殻のままアレスの隣に立っているのだ。
同じ夜、城壁の上で、アレスは消えゆく花火の残光を目に焼き付けていた。
周囲の騎士たちは、彼を「神の兵器」と崇め、その戦果に熱狂している。
だが、アレスの右手の包帯からは、じわりと生温かい血が滲み出て、銀の籠手の中で不快な湿り気を作っていた。
「……聖女様」
アレスは、少し離れた場所に立つセラフィナに小声で呼びかけた。
完璧な対称性を保つ彼女の美しい横顔。
だが、アレスは気づいていた。
花火が最も眩しく夜空を照らした瞬間、彼女の唇が、音もなくある名前を形作ったことを。
昼間、王宮の地下練兵場で、アレスは聖剣の型を反復していた。
振り下ろし、薙ぎ払い、突き。
すべてが完璧な角度で、美しい軌道を描く。
周囲の騎士たちは感嘆の声を上げ、誰もが「これが勇者の剣」と頷いた。
だが、アレス自身は知っていた。
剣が自分の意志を通り越して動いている。
型は整っているのに、心が乗っていない。
まるで、精巧に組まれた人形の舞のように。
「はぁ、はぁ……」
型を終えた瞬間、右手の包帯が血に濡れ、銀の籠手の内側で湿った音を立てた。
美しい剣戟の代償が、そこに沈んでいる。
――レイン、様。
先代の勇者。
アレスが召喚される前に、この世界を救い、そして死んだという男。
王宮の記録からは消去されているが、神殿の影には今もその「不在の重み」が澱のように残っている。
(俺は……あの人の代用品に過ぎないのか)
アレスは、背中の《ライトブリンガー》の柄にそっと手を触れた。
冷酷なまでの金属の冷たさが、手袋の血と混ざり合って彼の掌に伝わる。
この剣を振らなければ、自分には居場所がない。
魔物を倒し、勇者という役割を演じ続けなければ、自分という存在は誰にも認識されない。
その根源的な恐怖が、少年の細い首筋をかすかに震わせていた。
「アレス様。次の謁見の時間が近づいております。参りましょう」
セラフィナが、完璧な「慈愛の角度」で微笑みながら、彼を促した。
「……はい、聖女様」
アレスは痛む右手を隠し、彼女の三歩後ろに従って、暗い城壁の階段を下りていった。
翌朝、俺たちは境界の町『ゼロ』を抜け、魔界への帰路についていた。
ティアラの偽装魔法の限界が近づき、俺の皮膚の裏側で、折り畳まれていた魔王の黒翼が「ギチギチ」と骨の節々を軋ませて外へ飛び出そうと暴れ始めていた。
「……レイ様。魔力の放出波形がブレ始めています。あと半刻で、結界の探知に引っかかる」
「わかっている。……アズガロスとの境界へ向かう前に、一度城へ戻り、戦力を整える」
俺は王都の方角を一度だけ振り返った。
あの白銀の光の中にいたアレスの、孤独に強張った細い背中が、網膜の裏側に焼き付いて消えない。
「アレス。お前がその剣の重さに絶望し、役割に食い潰される前に……俺が、その軛を叩き壊してやる」
俺の背中から、漆黒の翼が強風を切り裂いて一気に展開し、俺たちは魔界の重く湿った雲の中へと急降下していった。
城へ戻り、戦力を整え、アズガロスとの境界を固める。
そして、再び人間界に潜入する日まで、牙を研ぐ。




