第26話 新勇者召喚
大聖堂の青銅の鐘が、王都『ルミナス』の天高くに鳴り響いた。ゴーン、ゴーンと、重い金属の振動が空気を断続的に切り裂く。
それは単なる音の波ではない。
音圧そのものが分厚い大気の塊となって空から降り注ぎ、地表の硬い石畳を震わせ、見物人たちの胸腔を叩いていく。
心臓の鼓動が、その無慈悲な金属の拍動と強制的に同期させられるような、不快な圧迫感があった。
変装した俺は、大通りを埋め尽くす群衆の背後に立っていた。
人々の吐き出す熱い湿った息、興奮で汗ばんだ皮膚の体臭、そして頭上を飛び交う極彩色の花びらの甘ったるい匂いが、逃げ場のない檻のように周囲を充満している。
「新勇者様だ!」「神の御遣いがお姿を現されるぞ!」
広場に満ちた数万の人間が、一斉に地鳴りのような歓声を上げた。
突き上げられる無数の腕。
狂信的な熱に浮かされた瞳の群れ。
彼らが注ぎ込む視線の「重圧」は、それ自体がアレスという少年を押し潰そうとする不可視の圧力そのものだった。
世界が、新しい勇者を「消費する」ために、両手を広げて待ち構えている。
その歓迎は、あまりにも残酷で、容赦がなかった。
王宮のバルコニーに、小さな人影が現れた。
白銀の甲冑に身を包んだアレス・ブライト。
陽光を浴びた鎧が、きらきらと眩い光を跳ね返している。しかし、群衆からは見えないその横顔は、土気色に引きつっていた。
少年の背後では、大聖堂の巨大なステンドグラスが、万華鏡のような光の破片をバルコニーに落としている。
その歪んだ極彩色の光の中で、アレスが一歩、前に踏み出した。
だが、その瞬間。
彼の膝がガクンとかすかに折れた。
背負った聖剣の重量と、広場から立ち上る「期待の重圧」に、精神と肉体が同時に悲鳴を上げたのだ。
バルコニーの柵に手を伸ばし、指の爪が白くなるほど強く掴んで体勢を維持しようとするアレス。
そのすぐ後ろから、白い神官ローブを纏ったセラフィナが音もなく歩み寄り、彼の肘をそっと支えた。
アレスの唇が、小さく動いた。
群衆の歓声に呑まれ、声はここまで届かない。
だが、俺には口の形だけで読めた。
――帰りたい。
その一語は、祝祭の花びらより軽く扱われ、王都の石畳に落ちる前に踏み潰された。
彼女は広場を見つめ、完璧な微笑み――あのガラス玉のように感情を閉ざした慈愛の仮面を群衆に披露する。
その微笑みが盾となり、アレスの「綻び」を人々の目から完全に隠蔽した。
群衆はさらに熱狂し、叫び、祈りを捧げる。
まるで、神の奇跡が目の前で体現されたかのように。
「見ろよ、レイ」
隣に立つガルが、灰色のフードの奥から低い声を発した。
その声は、周囲の歓声の狂乱にかき消されることなく、俺の耳の奥に冷たく届いた。
「人間どもは、あの少年がどれほどの恐怖に怯えているかなど、一顧だにしていない。彼らにとって、勇者は自分たちの安寧を担保するための『盾』であり、魔王を殺すための『刃』に過ぎないのです」
「ああ」
俺は、押し寄せる群衆の波に押されながら、冷たく呟いた。
「あれは歓迎ではない。生贄を祭壇に捧げるための、神聖な儀式だ」
アレスが、震える右手をゆっくりと持ち上げ、民衆に応える。
その手袋の奥で、手のひらの肉が再び裂け、血が染み出していることを、この狂乱の広場で気づいている者は一人もいない。
セラフィナでさえ、彼の隣で微笑みながら、その瞳の焦点はアレスではなく、はるか遠くの虚空を結んでいた。
その時、広場の四隅から、けたたましい破裂音が響いた。
パパパン、と。
祝祭の魔術花火が、昼の空へと打ち上げられる。
白い煙の尾を引きながら、空中で爆発し、金色の火花がアレスの頭上に降り注いだ。
火花の熱風が、大通りに立つ俺の皮膚にまで届く。
その火花の残像が、かつて俺が処刑された時の、聖剣が放った「光の檻」の残照と重なって見えた。
俺の胸の奥で、骨が軋む感覚が冷たく蘇る。
「……行くぞ、ガル」
俺は背を向け、うねる狂熱の群衆をかき分けながら、大通りを逆行し始めた。
人々の突き上げる拳や肩に何度もぶつかるが、そのたびにティアラの偽装魔法がピリピリとした不快な放電を起こし、俺の神経を刺激する。
「レイ様。あの少年が、与えられた役割に完全に飲み込まれるまで、そう時間はかからないでしょう」
「そうだな」
大聖堂の鐘が、なおも重低音を響かせ、王都の街全体を揺るがし続けている。
世界がアレスを受け入れ、彼を勇者という「機能」へと作り変えていく。
その残酷な祝福の雨の中で、俺はかつて自分を縛っていた鎖の音を、確かに聴いていた。
だが、今は違う。
俺はその鎖を引きちぎり、アレスの目を覚まさせる。
ただし、俺が彼の手を掴む時、その手がこちらを掴み返すとは限らない。
役割に縋る方が、本人にとって楽なこともある。
救いは、押し付けた瞬間に別の鎖になる。
その時まで、ヴェルドラゴン魔王軍は、静かに牙を研ぐ。




