第25話 聖女の休息
鏡の中の輪郭は、一ミリの狂いもなく左右に対称だった。純白の髪は入念に櫛を通され、肩のラインに沿って静かに流れている。
青い瞳は光を捉え、すりガラスのように均一な輝きを湛えていた。私は、両の手のひらで、白い神官ローブの裾をきつく握りしめる。
麻の生地が擦れ、爪が手のひらに深く食い込んだ。
手のひらに残るジンジンとした鈍い痛みだけが、自分が今、ここに生身の人間として立っている唯一の肉体的証拠だった。
視線が、ローブの前立てに落ちる。
第三ボタンだけ、他の白麻とは少し違う素材になっている。
銀糸を混ぜた、ほのかに青みがかった布。
神殿から支給された規定の衣装のはずなのに、どうしてこのボタンだけが違うのか、私自身にもはっきりしない。
ただ、触れるたびに、指先にわずかな抵抗を覚える。
規定の中の、たった一つの違和感。
「……セラフィナ殿下。本日の公式謁見では、口角をさらに三分上げて維持してください。新勇者様の初陣を祝福する群衆に対し、一瞬の不安も感じさせてはなりません」
背後に立つ老女官の乾いた掠れ声が、耳腔の鼓膜を冷たく叩く。
「わかりました」
私は鏡を見つめ、ゆっくりと口角を引き上げた。
誰もが望む、完璧な聖女の微笑み。だが、その形を保とうとするほど、頬の筋肉が強張り、目の下が微かに痙攣しそうになる。私は背後に立つ老女官に気づかれないよう、そっと奥歯を噛み締め、浅く息を吐いた。
鏡の中の私は、確かに優しく微笑んでいる。けれど、その青い瞳を覗き込んでも、そこに私の感情は見当たらない。ガラス玉のように光を反射しているだけで、奥には何もなかった。
朝食のテーブルは、音が遮断されたかのように不自然に静かだった。
銀の燭台が落とす白い光の輪の中に、新勇者アレス・ブライト様が座っている。
彼は白銀の鎧を脱ぎ、窮屈そうな正装を肩に強張らせて着せられていた。
スプーンを持つ彼の右手の親指には、昨日、聖剣に擦りむかれた皮膚を覆う肉色の包帯が巻かれている。
「……聖女様。本日のパレード、僕、ちゃんと笑えていましたか?」
アレス様が、スープの浮き脂を見つめたまま呟いた。
彼の声は、まだ変声期を終えておらず、時折掠れて裏返る。
「はい、アレス様。神殿の信徒たちは皆、あなたの勇敢な姿に涙を流して喜んでいました。完璧な勇者様でした」
私は、自分の喉から出た声の滑らかさに、内臓が冷え切るような自己嫌悪を抱く。
まるで、あらかじめ録音された魔法具の定型音声を再生しているかのようだった。
「そうですか……。なら、よかったです。僕、剣を振る時、実はすごく怖くて……。あの剣、重くて、時々自分の腕じゃないみたいに勝手に動くんです」
アレス様が、包帯の巻かれた親指を隠すようにスプーンを強く握りしめた。
私は、自分の長い袖の裏側で、また強く爪を手のひらに食い込ませる。
「……それは、聖剣がお体を護るための神の導きです。アレス様は、ただその導きを信じていれば良いのです」
そう言いながら、私は無意識に左袖を引っ張り、手首を隠した。
治癒の反動が、皮膚の内側に残る熱い痺れ。
誰にも見せたくない、私だけの痛み。
そう。
信じて、ただ振るい続ければ良い。
肉体が壊れ、骨が軋むまで。
かつて、私の隣で同じように「剣が勝手に動く」と苦笑しながら、手袋を血で染めていた、あの人のように。
スープを一口、口に運ぶ。
温かいはずのコンソメは、舌の上をただの無味無臭の液体として通り過ぎていった。
喉の奥に熱い塊が落ちていく感覚だけが、胃壁を不快に収縮させた。
修行部屋の窓から、夕暮れの陽光が差し込んでいた。
赤黒い光が、床の絨毯の上に、血の帯のような長い軌跡を描いている。
私は、ローブの内側に隠したペンダントに触れた。
神殿が許容しない、安価な銀細工。
青いガラス玉がはめ込まれただけの、人間界の露店で売られているような代物。
鎖骨のくぼみにその金属が触れるたび、氷のような冷たさが皮膚の奥へと染み込んでくる。
『セラフィナ。いつもお前に背中を預けっぱなしだな。これ……その、似合うと思ってな』
あの人の、少しぶっきらぼうな声が、頭蓋の裏で反響する。
レイン様。
彼は、私が「聖女」という記号としてではなく、一人の「セラフィナ」として微笑んだ瞬間を、唯一知っていた人だった。
彼が私のために差し出してくれた手には、無数の戦傷と剣を握り続けた硬いマメがあった。
その手は温かく、少しだけ汗ばんでいて、何よりも本物の「生」の重みを持っていた。
だが、その手はもう、この世界のどこにもない。
神殿の最深部、女神の神託は、彼が魔王の呪いによって魂ごと霧散したと冷たく告げた。
新しい勇者が召喚されたその日から、レイン様の存在を示すあらゆる記録は、聖典からも、王宮の書庫からも消去された。
まるで、最初からそんな人間は存在しなかったかのように。
「……不在」
その二文字が、部屋の空気を黒いインクのように塗り潰していく。
彼が消えた場所には、ぽっかりと巨大な空白が残り、私のすべての感情を内側へと吸い込み続けていた。
窓の外で、夜の帳が下りる。
王都の街明かりが、遠くで冷たく瞬いていた。
私はペンダントのガラス玉を、壊れんばかりの力で握りしめる。
銀の鎖が首筋を強く締め付け、呼吸が浅くなる。
「レイン様……」
唇から零れた名前は、冷たいガラス窓に触れて白い曇りを作った。
もしあなたが本当に死んだのなら、なぜ私の胸の中にあるこの「重み」は消えないのだろう。
アレス様の治療をするたび、私の神聖魔力は、彼の肉体の傷だけでなく、その奥にある「拒絶」を敏感に感じ取っている。
世界が、聖剣が、新しい勇者を異物として排除しようと軋んでいる。
そして、私もまた、その歪みの一部として、アレス様を「勇者」という檻に閉じ込める役割を演じ続けている。
「私は……聖女ですから」
再び鏡を見つめ、ゆっくりと口角を引き上げる。
頬の筋肉は強張り、目の下がまた微かに痙攣しそうになったが、私はそれを無理やり抑え込んだ。
優しく微笑む鏡の中の私。だがその瞳はガラス玉のように光を反射するだけで、奥には何もなかった。それが、私の心がとっくに死に絶えていることを隠すための、最も美しい仮面だった。
夜風がカーテンを乱暴に揺らし、部屋のキャンドルの炎を掻き消した。暗闇の中で、私は完璧な聖女のまま、立ち尽くしていた。




