第24話 新勇者の初陣
王都から北へ半日、湿った大気が澱む森の窪地に、『始まりの迷宮』は黒い奈落の口を開けていた。
カビの胞子と、日陰で腐食した泥炭の酸っぱい匂いが地表にべったりと張り付いている。
かつて俺が、召喚されてわずか三日目に「勇者の義務」として背中を押され、暗闇へと引きずり込まれた呪わしい場所だ。
俺はオークの古い幹の影に身を潜め、皮膚の裏側を絶え間なく這い回るティアラの偽装電流に耐えていた。
無数の微小な針が全身の毛細血管を内側から突き刺すような熱い痛痒さが、俺の意識のピントを冷酷に固定し続けている。
やがて、迷宮の石段の奥から、乾いた金属と岩石が不規則に擦れ合う音が響いてきた。
「はぁ、はぁ……っ、う……!」
喉の奥から漏れる、未発達な肺が空気を希求するひしゃげた呼吸音。最初に現れたのは、金髪の少年――アレス・ブライトだった。
彼の白銀の胸当ては、右脇腹のあたりが黒くひしゃげて亀裂が走り、そこから覗くインナーの布地が赤黒い血と泥を吸って硬化していた。
そして、その背には――かつて俺の五臓六腑を押し潰し、肉の器をただの赤い泥へと変えた聖剣が背負われていた。
俺を処刑した五百キログラムの極限状態に比べれば、それはまだ五十キログラムの初期形態に過ぎない。
だが、十四、五歳そこらの少年の未だ細い骨格にとって、その重さは十分に彼の重心を歪ませ、一歩踏み出すごとに膝の腱をみしりと軋ませる冷酷な錘となっていた。
「や、やりました……! 聖女様、僕、ミノタウロスを……!」
少年は返り血の生臭い匂いを全身から漂わせ、手にした大角を誇らしげに掲げた。
その強張った頬に浮かんでいたのは、邪気のない、ただ「誰かを守る役割を果たせた」という純粋な安堵の表情だった。
その青い瞳の奥に宿る無垢な光が、世界の残酷さを知らない少年の脆さを露呈している。
「おめでとうございます、アレス様。神の意志が、常にあなたの歩みを支えています」
少年の三歩後ろから、純白の聖衣を纏ったセラフィナが音もなく歩み出た。
彼女のフードの下から覗く微笑みは、左右非対称の歪みすらなく、氷細工のように整っている。
しかし、俺の目は見逃さなかった。
彼女の視線がアレスに向けられた瞬間、その口角の皮膚が引きつるように強張り、アレスの足元に広がった生々しい血だまりから不自然に逸らされたことを。
そこに宿っているのは温かさではない。
ただ、与えられた「聖女」という役割を忠実に実行しているだけの、温度のない冷徹な眼差しだった。
かつて、泥の中で喘ぐ俺に注がれた、あの冷たい光とまったく同じものだ。
迷宮の入り口を取り囲む広場には、王都から集まった神官や、近隣の開拓村の住民たちが不揃いな人の壁を作っていた。
彼らはアレスの姿を認めると、一斉に鼓膜を激しく揺さぶる歓声を上げた。
「勇者様! 魔王の眷属を討ち果たしたのですね!」
「神の遣いよ! これで私たちの村も救われる!」
うねるような歓声の波が、音圧の壁となって、アレスの小さな肩にのしかかる。
人々は口々に「救世主」と叫び、その狂信的な熱気と、彼らの放つ汗の匂いが、湿った窪地の空気をねっとりと澱ませていた。
「あ、ありがとうございます。僕は……皆さんの盾に、なるために召喚されたので……」
アレスは群衆の圧力に押されるように半歩引き下がり、ぎこちなく右手を振った。
彼の右手を包むのは、王宮から与えられた真新しい牛革の手袋だ。
だが、その手袋の縫い目、人差し指と親指の付け根のあたりから、黒ずんだ赤色の液体がじわりと滲み出し、革の表面を濡らしているのを俺の目は正確に捉えていた。
アレスが指を開閉するたび、手袋の湿った革が「グチ……」と音を立てる。
聖剣の莫大な重量と、それを無理やり振るわせる「強制的に剣を振るわせる世界の理」の補正により、手のひらの皮膚はすでに剥離し、修復魔法による強引な組織再生すら追いついていないのだ。
少年の眉間が一瞬だけ激痛に歪み、奥歯が強く噛み締められるのを、周囲の無責任な歓声がすべて掻き消していく。
「あいつの聖剣……光の軌道が不自然だな」
俺の影の中から、ガルが潜めた声で囁いた。
「ええ。少年の本来の筋力を無視して、聖剣が強引に腕の動きを補正しています。一見、華麗に見える剣の振りも、その実、筋肉と関節に強制的な過負荷をかける破壊的な矯正です」
アレスは自分の意志で聖剣を振っているのではない。
聖剣に、自分の肉体を「兵器」として振り回されているのだ。
振るたびに、彼の肩や手首の靭帯は微細に裂け、それをセラフィナの魔法でその都度塞ぐという、無限の酷使が繰り返されている。
群衆に囲まれ、称賛の雨を浴びるアレスの顔から、次第に血の気が失われていくのが見えた。
彼の瞳は、自分を囲む熱狂的な人間たちを映しているようで、その実、誰の目も捉えていない。
皆が「勇者アレス」という機能的な記号を求めている。
だが、手のひらを血みどろにし、骨の軋む音に喘いでいる「十四歳の少年」そのものには、誰も気づこうとしない。
彼は、途方もなく孤独だった。
周囲の騎士たちは、彼を神殿の威光を示すための「自走式の防壁」として誇らしげに見つめている。
セラフィナは、ただ祈りのポーズを崩さず、彼の傷ついた肉体に魔力を流し込む「治癒装置」の役割を果たし続けている。
「……僕、頑張ります。だから……」
アレスが呟いた小さな言葉は、誰の耳にも届くことなく、大気の振動の中に消えた。
彼はただ、自分に与えられた『勇者』という道から外れることを、根源的に恐怖しているようだった。
もし期待に応えられなければ、この世界で自分の存在価値は無くなってしまう。
そんな、底なしの焦燥が彼の細い首筋の震えに滲み出ていた。
「くだらん。あんな操り人形が俺の代わりだと? ふざけるなよ」
俺の胸の奥で、冷たい怒りの炎が燃え上がる。俺の三年間を、名誉を、あの程度の偽物に引き渡した世界の理への憎悪が、指先を強く強張らせた。
「レイ様。あの少年を……どうされますか」
ガルの問いに、俺は拳を強く握りしめた。
ティアラの偽装魔法の電流が、手のひらの裏側でチリチリと鋭い針となって火花を散らす。
「アレスは、俺の席を奪った偽物だ」
「では?」
「叩き潰すに決まっている。あの自動で動かされる剣技ごと、俺の力でな。セラフィナも、あの張り付いた仮面ごと奪い返してやる」
群衆に連れられて歩き出すアレスの背中を見つめながら、俺は静かに木漏れ日の陰へと退いた。
少年の背負う聖剣が、夕暮れの光を受けて、冷酷なまでに純白の光を放ち続けていた。
アレスは、まだ気づいていない。
自分が何に使われているか。
自分の手のひらが、どれだけ血で濡れているか。
教えてやる。
しかし、今はまだ早い。
あいつが自分の無力さを知り、絶望するその瞬間まで、俺は魔王として力を蓄える。そして、必ずすべてを奪い返す。




