第23話 ブラックの鎮圧
ブラックの路地裏には、泥沼と化した水溜まりの表面に、どす黒い油膜がねっとりと粘りついていた。
頭上からは、崩れかけた木造家屋の庇が日光を遮り、カビと饐えた腐食臭が重い空気に停滞している。
傾いた窓の隙間からこちらを盗み見る瞳は、どれも澱み、光を失っていた。
「……三つの略奪集団が、この最底辺の泥の中で互いの肉を食い合っています」
ガル(ガルドス)が、大きな背中をかすかに屈めながら、俺の耳元で囁いた。
「北の『骨の会』、東の『赤錆』、西の『泥鰌』。元は王国の罪人や、軍を脱走した傭兵の崩れです。まともな獲物がいないこの街で、彼らは混血の子供たちや、動けなくなった老人を『畑』のように刈り取って生きています」
「身内同士で貪り合うか。反吐が出る」
俺の言葉が路地に落ちた瞬間、前方から、ガチャガチャと不揃いな金属音が響いた。
錆びた鎖帷子を纏い、片刃の斧を肩に担いだ男たちが、泥水を激しく撥ね散らしながら押し寄せてくる。
三十人。
北の『骨の会』と呼ばれる連中だ。
「おい、新顔。その小綺麗な傭兵装備、ここに置いていくか、それともその喉笛をこの泥水に浸してやるか、どっちだ?」
先頭の男が、黄色く濁った歯を見せて嗤う。
男の手からは、安物の強い地酒の臭いが漂っていた。
レベルは十二。
人間にしては鍛えているが、身体の軸が左に傾いている。過去の戦闘で左膝の靭帯が伸びきっているのを、強引に庇っているのだ。
「……ガル。余計な小細工はいらん。蹂躙しろ」
「御意」
ガルが背中の大剣に手をかけた瞬間、彼の周囲の空気がみしりと音を立てて歪んだ。
地響きは、一瞬だった。
ガルの巨体が前に出た時、泥水が爆発したように上方へ跳ね上がった。
突進の風圧だけで、先頭の男の身体が木の葉のように浮き上がる。
ガルは剣を抜くことすらせず、大剣の鞘のまま、男の脇腹を薙ぎ払った。
バキッ、と。
濡れた太い丸太がへし折れるような鈍い音が響き、男は三メートル後方の泥壁へと叩きつけられ、そのままずり落ちた。
口から泡を吹き、二度と動かない。
「な、なんだこいつは……!?」
「化け物だ! やれ! 囲んで突き殺せ!」
パニックに陥った男たちが、錆びた槍を突き出してくる。
だが、彼らの動きはあまりに遅く、軽い。
俺は一歩前に踏み込み、突き出された槍の穂先を素手で掴んだ。
手のひらに冷たい鉄の錆が食い込むが、魔王の強固な皮膚は傷一つつかない。
そのまま腕に力を込め、槍の柄を力任せに片手でねじり上げる。
みし、みし、バキィッ!
強固なオーク材の柄が捩じ切れ、槍を持っていた男の指関節が逆に曲がり、悲鳴が路地に響き渡る。
反動で、俺の手首が鈍く痺れた。
皮膚は傷つかないが、関節に衝撃が伝わる。
元勇者の感覚が「こんなはずではない」と訴えかける。
だが、魔王の身体はそれを無視して、次の動作へ移る。
続いて、背後から音もなく現れたオークとゴブリンの精鋭たちが、路地を埋め尽くした。
彼らは言葉を発せず、ただ無慈悲な軍勢として、暴力の略奪者たちを泥の中へ叩き伏せていった。
鎧がひしゃげる金属音。
骨が折れる鈍い音。
そして、昨日まで弱者を虐げていた者たちの、情けない命乞いの声。
戦闘は、半刻もしないうちに静寂へと戻った。
泥水の中に這いつくばり、泥塗れになって震えている『骨の会』の残党たちを見下ろす。
彼らの瞳に宿っているのは、今度は自分たちが「奪われ、屠られる」という絶対的な確信と恐怖だった。
その光景を、家々の隙間から、何十双もの小さな瞳が怯えながら見つめていた。
混血の亜人の子供たちだ。
「殺すのか……? 俺たちを、ここでみんな……」
生き残った男の一人が、ガタガタと歯を鳴らしながら問いかけてくる。
「殺しはしない。だが、二度とこの町で他者から奪うな。西の荒野へ行け。そこなら、お前たちのような敗残者が生きる余地もある」
「……なぜ……?」
「お前たちもまた、世界から見捨てられた部品に過ぎないからだ。だが、この町は今日から、魔王の秩序が支配する。略奪の輪からは外れてもらう」
俺は彼らに背を向け、路地裏の木陰に身を潜めていた子供たちの方へと歩いた。
子供たちは、俺の変装した姿の奥にある「本物の怪物」の気配を察知したのか、蜘蛛の子を散らすように奥へと引っ込もうとする。
「待て」
俺は、背負っていた袋から、竹の皮に包まれたものを取り出した。
そこから漂うのは、泥の臭いや血の匂いではなく、炊きたての白米の甘い香りと、粗塩の匂いだった。
「リリィ。配れ」
俺の影から、白い猫耳をへにょりと伏せたリリィが、恐る恐る姿を現した。
彼女の両手には、まだ湯気を立てている、真っ白なおにぎりが抱えられている。
「……みんな、怖がらなくていいよ。これ、あったかいから。食べて」
一番小さな、額に小さな角を持つ混血の少女が、泥を這うようにして近づいてきた。
その手は骨と皮ばかりで、爪の間には黒い汚れが詰まっている。
少女はリリィから差し出されたおにぎりをひったくるように奪うと、そのまま泥の上に座り込んで口にねじ込んだ。
「あぐ……っ、ごほっ」
あまりの勢いに喉を詰まらせる少女の背中を、リリィが優しい手つきでさする。
「ゆっくり、ゆっくりよく噛んでね。お水もあるから」
少女の顎が動く。
真っ白な米粒に、彼女の涙と泥が混ざり合う。
しかし、噛みしめるたびに、米の持つ温かさとほのかな甘みが、飢えと恐怖で極限まで収縮していた彼女の喉の筋肉を、ゆっくりと解きほぐしていった。
ごくりと嚥下する音が聞こえる。
その瞬間、少女の強張っていた肩の力がふっと抜け、ただの「お腹を満たした子供」の顔に戻った。
それを見ていた他の子供たちや、物陰の大人たちも、引き寄せられるようにして泥の中から這い出てきた。
彼らは奪い合うことなく、差し出される温かいおにぎりを、両手で壊れ物を扱うように受け取った。
「……温かい……。こんなもの、何年ぶりに口にしたか……」
老いた獣人が、塩気の染みた米粒を噛みしめながら、静かに涙を流す。
おにぎりを食べる咀嚼の音と、小さく鼻をすする音だけが、さっきまで暴力が吹き荒れていた路地を満たしていく。
「レイ様。これが、奪還の第一歩ですね」
ガルドスが、その光景を見つめながら静かに呟いた。
「ああ。力でねじ伏せるだけでは、かつての勇者と変わらない。魔王としての俺の戦いは、見捨てられた者たちに、彼らが生きているという実感を返すことから始まる」
その夜、治安を取り戻したブラックの街の酒場で、ジャックは静かに麦酒を傾けていた。
「まさか、本気で一日で片付けるとはな。魔王様、あんたのやり方は、どうにも俺たちの常識から外れてる」
「ただの取引だ。これで、約束の情報を渡してもらう」
ジャックは懐から、古い革の筒を取り出し、テーブルに滑らせた。
「王都の地下水道の地図だ。それと……新勇者アレス・ブライトの予定。奴は三日後、神殿の護衛を伴って『始まりの迷宮』へ初の魔物討伐に赴く。公式には『聖戦の第一歩』として、大々的にパレードも行われる予定だ」
地図の入った筒を掴む。
本物の牛革の、ずっしりとした重みと脂の匂いがお前の掌に伝わる。
「始まりの迷宮、か。かつて俺が、聖剣を握らされて最初に挑んだ場所だ」
「ああ。王室の坊ちゃんたちの遠足には丁度いい場所さ。だが、今回は違う」
ジャックが目を細め、声を潜めた。
「新勇者アレスは、あの迷宮に『新しい聖剣』を馴染ませるために行く。だが、噂によれば、奴はまだその剣の『重さ』に肉体が耐えきれていないらしい。毎日、王宮の治療室から悲鳴が漏れているそうだ」
俺は、おにぎりを握るリリィの背中を見つめながら、アレスの姿を想像した。
手の皮を剥がされ、骨を軋ませながら、笑顔を強要される少年。
俺を殺した人間たちは、次の犠牲者をもう、あの迷宮の入り口まで立たせている。
「アレス。お前がその剣の重さに絶望する前に、俺がその目を覚まさせてやる」
胸の奥で、かつて自分が聖剣に押し潰された時の背骨の痛みが、冷たく、そして確かに疼いていた。
三日後、始まりの迷宮。
アレスの聖戦の第一歩を、間近で見る。
その時、何を奪い、何を残すか。




