第22話 人間界潜入
ティアラの指先が俺の額の皮膚に触れた瞬間、極細の針で頭蓋骨の裏側を直接ガリガリと擦られるような、鋭い激痛が走った。
青白い火花が網膜の奥で激しく明滅し、視界が二重、三重にブレて歪む。
「くっ……!」
「レイ様……ごめんなさい、痛みますよね……。脳の感覚野に直接、雷の微細な電流を流して光の認識を捻じ曲げています。どうか、息を深く吐いて……」
ティアラの震える声に従い、肺の空気をすべて吐き出す。骨が収縮し、筋肉の繊維がぎゅっと縮こまっていくような強烈な錯覚。
背中にあったはずの漆黒の翼が、内側へ折り畳まれて皮膚の下へと沈み込み、骨の節々がミシミシと軋んだ。
金色にぎらついていた魔王の視界は色彩の彩度を落とし、くすんだ灰色の世界へと変貌していった。
姿鏡に映る自分を見る。
そこに立っていたのは、くすんだ黒髪に澱んだ黒い瞳、線の細い、どこにでもいる開拓民の青年だった。
かつて世界を救った「勇者レイン」の面影もなく、圧倒的な魔力を放っていた「魔王レイン」の気配もない。
「……見事だ、ティアラ」
「レイ様……その魔法が効いている間、ずっと皮膚の裏側で静電気が跳ねるような痛痒さが残ります。耐えられなくなったら、すぐに仰ってください」
「問題ない。この程度、かつての五百キロの聖剣の重さに比べれば無に等しい」
俺は、粗末な麻のシャツの襟元を正し、魔王城の冷たい回廊へ一歩を踏み出した。
同行するガルドスもまた、ティアラの幻覚魔法によって、錆びついた鉄錆の匂いを放つ「中年の傭兵」へと姿を変えていた。
彼の背負う大剣は、ただの使い古された両手剣に偽装されている。
「我が主。この人間界の領域においては、互いの呼び名も偽装せねばなりません。私は『ガル』、主様は『レイ』と」
「レイ、か。かつて俺が本名を捨てる前に、故郷の母親が呼んでいた響きだ」
口の中でその音を転がしてみる。
ひどく軽くて、風に流されて消えてしまいそうな名前だった。
魔界の境界結界――赤く濁った魔力の霧が渦巻く障壁を抜けた瞬間、身体の表面に粘つく「膜」がへばりつくような強い抵抗感があった。
人間界を護る大結界が、俺の体内の「魔王の魔力」と反発し合っている。
ティアラの偽装魔法がなければ、今頃結界の防衛術式が起動し、天から光の杭が降り注いでいただろう。
その界面をすり抜けた瞬間、俺は激しい咳き込みに見舞われた。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
「……レイ様!?」
「いや……気にするな。空気が……軽すぎる」
魔界の、硫黄と錆と血が混ざり合った重く粘り気のある大気に慣れた肺にとって、人間界の空気はあまりにもスカスカで、空虚だった。
呼吸をしても、胸腔に何の抵抗も残らない。
そして、匂いだ。
道端の湿った土から立ち上る、青臭い草の匂い。
名もない黄色い野花が放つ、頭が痛くなるほどに甘ったるい芳香。
かつて人間だった頃には「春の訪れ」として心地よく迎えていたはずのその匂いが、今の魔王の嗅覚には、鼻腔の粘膜をチクチクと刺す毒物のように感じられる。
乾いた街道を踏みしめる靴音が、耳障りに響いた。
コト、コト、と。
魔界の溶岩質の岩肌を歩く時は、もっと鈍く、重い音が足元から骨へ伝わってきた。
だが、人間界の乾いた粘土質の街道は、一歩ごとに軽い砂埃を巻き上げ、靴底と地面の間に乾いた摩擦を生む。
「……太陽が、白すぎるな」
頭上を見上げる。
そこにあるのは、魔界の淀んだ赤月ではなく、容赦のない白色の太陽だった。
その光はあまりに鋭く、偽装された黒い瞳の奥に、明滅する残像を焼き付けてくる。
影が、地面に濃く、鋭角に落ちていた。
やがて見えてきたのは、境界の町『ゼロ』。
人間と魔族の混血、どちらの世界からも爪弾きにされた難民たちが、灰色の木板を繋ぎ合わせた粗末な小屋の間に蠢いている。
路地裏の、饐えた匂いと安酒のアルコール臭が漂う一角。
ジャックの経営する地下酒場への階段を下りると、冷え切った湿気が足元から這い上がってきた。
「ほう……。その冴えない面構え、魔王様だとは夢にも思わねえな」
カウンターの奥で、汚れのついた包丁を布切れで磨いていたジャックが、薄い唇を歪めた。
「ジャック。王都『ルミナス』までの最短ルートを教えろ」
「ルミナスかい? そりゃまた、首を吊りに行くようなもんだ。あそこは新勇者の誕生に湧いて、結界の出力も最大だ。関所を通るたびに魔力測定器の針がぶれるぜ」
「そのための変装だ。ルートの対価は払う」
ガルが、袋から魔界の黒金貨をテーブルに落とした。
チャリ、と重く、暗い金属音が卓上に沈殿する。
ジャックは細い指でそれを素早く掻き集め、懐に入れた。
「街道沿いに進むと、まず混血どもの巣窟『グレイ』がある。そこを抜けたら、王宮の直轄領に近い『ホワイト』、そして最後に見捨てられた犯罪者の溜まり場『ブラック』だ。ブラックの裏道に、王都の地下水道に繋がる密輸ルートがある。それを使うといい」
ジャックの言葉通り、俺たちはまず最初の町『グレイ』を通過した。
そこは、魔族の特徴である角や尾を持つ者と、人間が、互いに視線を避けながらも同じ市場でパンを買い、硬貨を交わす町だった。
人間界の甘いリンゴと、魔界の黒い鉄鉱石が同じ露店に並んでいる。
「……歪な場所だな」
「ええ。ですが、両方の世界から見捨てられた者たちは、こうして互いの肌の温度を分け合わねば生きていけないのです。かつての我が魔王軍のように」
ガルの言葉に、俺は足元を見た。
舗装もされていない泥の道。
だが、そこに立つ者たちの足取りは、王宮の騎士たちのように他者を踏みにじるものではなく、ただ今日一日を生き延びるための必死さに満ちていた。
彼らは敵ではない。
しかし、人間界の法が彼らを「不浄」と呼び、魔界の強者が彼らを「弱卒」として切り捨てる。
「ガル。いつかこの町を、俺たちの傘下に置く」
「……レイ様?」
「魔王軍が人間界を切り取る時、最初に拠点を置くべきは、こうした世界の『隙間』だ。彼らが望むのは救済ではない。ただ、不条理に奪われない権利だ」
俺の言葉に、ガルは仮面の奥の瞳をかすかに細め、深く首を縦に振った。
グレイを抜け、俺たちはさらに街道を進み、やがて目的の町『ブラック』の入り口に達した。
そこはグレイとは異なり、重苦しい沈黙と饐えた悪臭に支配されていた。
割れた窓ガラス、泥に塗れた水溜り、そして路地裏からこちらをねめつける、光を失った瞳の数々。
「……ブラック。ここが、王都の足元に広がる最も深い泥濘か」
「はい。王宮に追放された大罪人や、人身売買から逃れた亜人たちの終着駅です。法も神殿の光も、ここまでは届きません」
歩くたび、泥水が靴底を吸い寄せるような粘り気を持って絡みついてくる。
世界抵抗値が、一気に跳ね上がったかのように身体が重い。
このブラックの泥の中に、アレス・ブライトという「新勇者」を祭り上げるための、人間界の欺瞞がすべて排泄されているようだった。
「よう、待ってたぜ」
路地裏の木箱に腰掛けていたジャックが、煤けたパイプから紫煙を吐き出しながら、俺たちを見上げた。
「ジャック。なぜお前がここにいる」
「あんたらの動きが速そうだからな、先回りして王都への『鍵』を持ってきてやったのさ。だが……タダじゃねえ」
ジャックはパイプの吸い殻を泥に擦り付け、立ち上がった。
「この町『ブラック』は今、王宮の息がかかった悪質な自警団……いや、ただの強盗野郎どもに牛耳られている。混血の餓鬼どもが、毎日のように連れ去られてるんだ。魔王様よ……あんたの力で、あのゴミどもを片付けてくれねえか」
「取引か?」
「取引だ。治安を守ってくれりゃ、王都の地下水道の地図と、新勇者アレスの最新の『予定表』をくれてやる」
「……いいだろう」
俺の喉から出た声は、人間界の甘い空気に馴染むことなく、冷たく鋭く響いた。
泥の匂いと、誰かのすすり泣く声が、路地の奥から重力のように俺の足を泥へと縛り付けていた。
まずはブラックの自警団を潰す。
その対価として、王都の鍵とアレスの予定表を手に入れる。
人間界の泥の中で、ヴェルドラゴン魔王軍の最初の足がかりを掴む。




